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2017/05/22

菅野 直人

軍人偉人伝「練習あるのみ!最強スナイパー、シモ・ヘイヘ」

世界最強のスナイパーと言えば、誰を思い浮かべますか? ゴルゴ13? いえいえ実在の人物です。戦果が確認されている中ではおそらく最多記録、実在が確認されており知名度も高い人物といえば、冬戦争で活躍したフィンランド軍のシモ・ヘイヘでしょう。

テッポー撃つなら猟師が一番?


遠距離狙撃記録となるとスコープやライフル(50口径12.7mm機関銃なども含む)といった機材に要素が左右されることもあるので一概には言えませんが、「仕留めた獲物の記録」となれば、何がスナイパーに適しているかと言えば、猟師の右に出る者はなさそうです。

昔の著名なスナイパーと言えば大抵は猟師出身で銃に普段から慣れているのが相場で、狩りが仕事ですから戦争があっても無くても実戦経験は豊富。そのためか、実在を疑われている人物も含め、後世に伝わる名スナイパーの経歴には猟師上がりが多いようにも思えます。

スタリングラードで活躍したソ連軍のヴァシリ・ザイツェフや、冬戦争で活躍したと言われるものの、経歴や記録がハッキリしないフィンランド軍のスロ・コニッカ
そして同じくフィンランド軍で冬戦争において活躍し、実在することだけは間違いないシモ・ヘイヘ。

少年時代にフィンランドが独立

1905年に生まれたシモ・ヘイヘが12歳の時、祖国フィンランドはロシア革命に乗じてロシアから独立。
一時は共産化してフィンランド社会主義労働者共和国を名乗りますが、マンネルヘイム将軍の白軍が共産主義者の赤軍を鎮圧し、1919年にフィンランド共和国が成立します。

1925年にフィンランド国防陸軍に入隊する前から猟師として銃には慣れており、射撃大会の常連として何度もトロフィーを取る腕前でした。

若い頃の兵士としては平凡で、自転車大隊で過ごす15ヶ月の間に下士官学校を経て兵長まで昇進しており、満期除隊後はまた猟師に戻るとともに民間防衛隊の「白衛軍」に入隊します。
ここまでは当時のフィンランド人として「普通の人」だったようで、特にエピソードは残っていません。

白い死神

Simo Hayha.jpg
By Finnish Military Archives – Tapio A.M. Saarelainen: “Simo Häyhä : the sniper”, Tampere : Apali, 2008, ISBN 978-952-5026-74-0. page 34, パブリック・ドメイン, Link

 
その後もちょっと腕前がいい平凡な猟師として人生を送っていたヘイヘですが、1939年にソ連がフィンランドへ侵攻し、「冬戦争」が始まります。

後に中断期間を経て「継続戦争」の終わる1944年までソ連と戦い続けることになるフィンランドでは誰もがそうしたように、ヘイヘも銃を取りました。

予備役の兵長として召集されたヘイヘは、配属された部隊の指揮官であり、フランス外人部隊でキャリアを積んでいたユーティライネン中尉にその適性を見出されます。
猟師上がりで民間防衛隊での射撃成績も良く、ちょっとばかり銃の扱いがうまいヘイヘは狙撃兵に指名されました。

純白の戦闘服に身を包み、平均気温がマイナス20~40度という日本では考えられないような寒さの中で雪に紛れて狙撃を行うヘイヘは、「白い死神」と呼ばれ恐れられたのです。

距離より速度で圧倒、接近戦も得意だったヘイヘ

Mosin Nagant series of rifles.jpg
By Antique Military Rifles – originally posted to Flickr as Mosin Nagant Family, CC 表示-継承 2.0, Link

モシン・ナガン シリーズ
 
その腕前と言えば、狙撃なら300m以内でまず確実に相手を仕留めるという、狙撃兵として見た場合には「漫画ほどではないな」という印象ですが、凄まじかったのはその速度です。
150mの距離から行う狙撃訓練では、1分間に16発、つまり3.75秒に1発撃って全弾命中させるという離れ業を演じました。

使っていた銃はモシン・ナガンのボルトアクション・ライフルで、自動小銃でも無いのにこの発射速度! しかも反射で敵に察知されるのを嫌ってスコープは使いませんでしたから、もしスコープを使っていれば射程距離はもっと伸ばせたのでしょう。

さらに、猟師とは全然関係無いような気もしますがサブマシンガンによる射撃も得意で、こちらは狙撃ではなく近接戦闘によりソ連兵をバタバタ倒しています。

Q:どうやったらそんなうまくなるの? A:「練習」

Simo hayha second lieutenant 1940.png
By Finnish Military Archives – Tapio A.M. Saarelainen: “Simo Häyhä : the sniper”, Tampere : Apali, 2008, ISBN 978-952-5026-74-0. page 7, パブリック・ドメイン, Link

1940年撮影。顎に戦傷の跡が残っている
 
なお、フィンランド伝説の狙撃手としては、同じ冬戦争を戦ったと言われるスロ・コルッカの方が早く有名になり、そのスコアが話題になってから自分のスコアをつけるようになったので、その確認戦果「542」は、あくまで記録をつけ始めてからのようです。

そんなヘイヘの狙撃のコツは何だったのかのでしょう?
それを聞かれると、ただ一言「練習」と答えたそうです。

フィンランド人のエースや名手とか呼ばれる人物は、大抵無口なのでインタビューに困りますが、ヘイヘも典型的な例だったようで、何をどう練習したのかはわかりません。

ただ、この回答には別な解釈があり、「戦争が終わってからの猟の練習として、狙撃をしていた」という人もいます。

実際にどうだったかといえば、冬戦争でソ連軍のカウンター・スナイパーにより狙撃され、顔に深い傷を負ってからは引退し、猟犬のブリーダーをしながら……やっぱり猟師をしていたというので、本当に猟の練習で狙撃をしていたのかもしれませんね。

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ルーデル閣下の記事はこちら:戦車乗りの死神とは? A-10? Su-25? いえいえルーデルです。
 

菅野直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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