- コラム
キスカ島奇跡の撤退(2)~キスカ邀撃戦
2017/02/24
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/05/13
菅野 直人
米本土近傍にクサビを打ち込んだとは言え、ミッドウェー海戦の敗北で無意味となった占領地を守り続ける日本軍。ついに始まった米軍の反撃のみならず、悪天候にも苦戦しますが、何とか面子をかけて守り続けます。
しかし戦況は、もはや名誉のためだけに戦い続けることも不可能な展開へ。最前線キスカの後方、アッツ島守備隊の玉砕です。
第一回はこちらから
第二回はこちらから
By U.S. Fish and Wildlife Service – http://www.fws.gov/digitalmedia/cdm4/item_viewer.php?CISOROOT=/natdiglib&CISOPTR=3657&CISOBOX=1&REC=10, パブリック・ドメイン, Link
アリューシャン列島のど真ん中、アダック島に航空基地を建設して以降、航空作戦を強化してきた米軍。
キスカ、アッツ両島の守備隊は、天候の関係もあり南方のラバウルほど連日猛烈な、というわけではないものの空襲に悩まされ、さらに悪天候にも耐えながら、ひたすら守備陣地の強化にいそしんでいたのです。
特設水上機母艦「君川丸」による水上機隊の輸送や、本土および北千島要塞からの増援輸送は続けられていたものの、日本海軍第五艦隊の能力はそれで手一杯であり、米軍の反撃拠点建設を妨害する力はありませんでした。
1943年1月12日、アムチトカ島への米軍上陸も、その後の基地建設もほとんど妨害できなかったのは、それが原因です。アムチトカ島はアリューシャン列島に日本軍が保持する両島の中で、米本土に近いキスカ島の目前、指呼の距離にあると言って良い島で、そこに拠点が作られたとなると、キスカ島への米軍上陸も近いと判断されます。
当然、キスカ島の四五二空(水上機隊、日本海軍第四五二航空隊)は少数の水上機で散発的な爆撃を加えたものの、大きな影響を与えることはできませんでした。
By 不明 – U.S. Navy photo 80-G-299022, パブリック・ドメイン, Link
重巡洋艦 ソルトレイクシティ
この段階でもまだアッツ、キスカ両島を保持しようとしていた日本軍ですが、巡洋艦を主力とする有力な米艦隊が進出すると輸送船の損失が相次ぎ、増援も困難になります。
そこで第5艦隊の総力を挙げた輸送作戦が1943年(昭和18年)3月に決行されることになりました。
3月10日の第21「イ」船団による第1回輸送は成功してアッツ島に増援及び物資を揚陸。
引き続き第5艦隊の護衛を受けた第21「ロ」船団がアッツ島に向け、3月22日に北千島の幌延島を出航しました。
その時の日本海軍第五艦隊は重巡洋艦「那智」を旗艦として、同「摩耶(まや)」と、軽巡洋艦「多摩」と駆逐艦2隻が米艦隊が出撃してきた時に迎撃する警戒部隊。輸送船2隻からなる「ロ」船団を護衛していたのは同艦隊傘下の第一水雷戦隊で、旗艦の軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦2隻。
しかしこの船団はアッツ島近海で重巡洋艦「ソルトレイクシティ」を主力とする米艦隊にレーダーで捕捉されました。それに気づいた第五艦隊は駆逐艦1隻を「ロ」船団に残して米艦隊迎撃のため反転、アッツ島沖海戦が生起します。
激しい砲火を交わす両艦隊ですが、第五艦隊司令長官・細萱中将の消極的指揮で命中率の低い遠距離砲雷戦を行ったため、砲撃・魚雷ともにほとんど命中せず、米艦隊に致命的なダメージを与えられません。
結局、「ロ船団」は第五艦隊の弾薬・燃料不足のため継続不能となって引き返し、アッツ島への輸送作戦は失敗に終わりました。
パブリック・ドメイン, Link
二式水上戦闘機
キスカ、アッツ両島で増援の絶たれた日本軍は戦力の回復が不可能となり、まず航空隊が壊滅しました。1943年3月10日の「君川丸」来航による増援を最後に、空襲や悪天候で損耗を重ねた四五二空の二式水上戦闘機(零戦の水上機版)と零式水上偵察機は、4月中旬になるとキスカ島の本隊で可動機ゼロ、アッツ島派遣隊も残り1機となります。
地上部隊もアッツ島など陸軍の指揮官(山崎保代大佐)が4月18日に潜水艦でようやく到着するという状況で、建設中の飛行場に飛行機が飛来するアテも無く、陣地を強化しながら米軍の上陸を待つしかありません。
そして5月5日、ついにアッツ島に戦艦や護衛空母からなる米艦隊、そして上陸船団が現れました。
米軍によるアッツ島奪回作戦、「ランドクラブ作戦」の発動です。
戦艦3隻、護衛空母1隻とアッツ島のような小島への戦力としては過剰なほどの支援を投入した米軍ですが、あえて霧の多い時期に行っただけあって視界が悪く、上陸部隊への支援を十分には行えません。
それでも霧の中の日本軍陣地で米戦艦の主砲弾が炸裂するたび、人体や兵器の破片が吹き飛んでくるという状況で、約2,650人といない日本軍守備隊(北千島第89要塞歩兵隊を基幹)は、1万人を超える米上陸部隊に圧倒されます。
日本海軍第五艦隊もアッツ島救援のため出撃しますが、濃霧のために引き返し、5月18日には救援不可能と判断した大本営(日本軍総司令部)によってアッツ島放棄が決定、23日には札幌の北方軍司令部からアッツ島守備隊に事実上の玉砕命令が下されました。
“軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも 地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り 最後に至らは潔く玉砕し 皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む”(「戦史叢書21」より)
約300名のアッツ島守備隊生存者は、山崎部隊長を先頭にしたバンザイ突撃で米軍司令部の目前にまで迫りましたが力尽き、最後は這うようにして機関銃が待つ米軍陣地へ突撃します。
捕虜となって生存した日本軍はわずかに29名、損耗率、約99%。
1943年5月29日。
アッツ島守備隊、玉砕。
全滅するまで戦ったアッツ島守備隊は、太平洋戦争における日本軍初の玉砕となりました。その報告を受けた昭和天皇は守備隊へのねぎらいを送るよう願い、玉砕後とて電文を受け取る者もいません、と諭されたものの、「それでも良い」と承知の上で打電したと言われています。
日本軍もアッツの玉砕を座視していたわけではありません。
何しろアッツ島が失われれば、それを背後にして米本土と対峙しているキスカ島は完全に孤立してしまいます。
米軍の上陸作戦が無ければ増援として送るはずだった輸送船団を引っ込め、米艦隊撃滅のため機動部隊を派遣する予定でしたが、アッツ放棄の決定により、キスカ島の孤立も決定的に。
もはや陥落したも同然で、維持する意味も無いキスカ島守備隊だけでも、撤退させられ無いのか?
こうして空前絶後の敵中撤退計画「ケ号作戦」が始動しました。
キスカ上陸作戦の準備を順調に進め、キスカ島を厳重な監視下に置く米軍と、救援のためのを航海を阻む、濃霧など悪天候の海。
1943年2月にガダルカナル島からの撤退作戦を経験していたとはいえ、ここまで念入りに的中孤立していると、奇跡を願うしか無い無謀とも言える作戦です。
失敗すれば全滅を待つのみのキスカ島守備隊は、果たして再び日本の土を踏めるのでしょうか?
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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