- コラム
キスカ島奇跡の撤退(3)~損耗率99%・アッツ島玉砕とキスカ島孤立
2017/05/13
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/02/24
菅野 直人
太平洋戦争で重大な転換点のひとつとなったミッドウェー作戦で日本海軍が大敗北を喫した一方、支作戦だったアリューシャセン作戦は当面の目的を達成しました。
キスカ島・アッツ島を得たものの、ただ占領しているだけという無価値な戦場を守り続ける日本軍ですが、はるか南で始まった連合軍の反攻に続き、北でもついに本格的な戦火が上がります。
第一回はこちらから
By http://www.history.navy.mil/photos/sh-fornv/japan/japsh-s/shokaku.htm
http://www.history.navy.mil/photos/images/h73000/h73066.jpg, パブリック・ドメイン, Link
写真は瑞鶴
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で南雲機動部隊(第1機動部隊)の空母4隻が全滅、ミッドウェー作戦に失敗するとともに主戦力を失った日本でしたが、一方の連合軍もどうにか進撃を食い止めたという体であり、すぐに反攻を実施できるような状態ではありませんでした。
その間の日本軍は、北太平洋では占領したキスカ島・アッツ島の保持。
中部太平洋ではマーシャル諸島・ギルバート諸島の保持。
そして南太平洋では最終的には米豪分断(オーストラリアへの補給路切断による脱落中立化)を目指して、その北東にあるソロモン諸島を勢力下に置こうとしていました。
第1機動部隊も残存の大型空母「翔鶴」「瑞鶴」を中心に第3艦隊として再建し、この時点ではまだ日本は攻勢をあきらめていなかったのです。
しかし、同年7月までにどうにか戦力をまとめた連合軍は、8月7日にソロモン諸島のガダルカナル島へ猛然と上陸を開始します。
そして翌日、北でもキスカ島へ向かう一群の艦影がありました。
現れたのは、米重巡洋艦「インディアナポリス」を旗艦とした、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦4隻の計10隻からなる高速砲戦部隊です。
濃霧の合間をついてキスカ島に達した米艦隊は砲門を開き、同島への猛烈な艦砲射撃を開始します。
陸上では着弾による猛烈な爆発炎が続き、停泊していた船は炎上!
反撃してきた日本軍の砲台は米艦隊の砲撃か濃霧ゆえか沈黙を余儀なくされますが、そこで空から一群の矢が放たれます。
キスカ島に配属されていた水上戦闘機隊(第5航空隊)と飛行艇隊(東港海軍航空隊キスカ支隊)による反撃です。
第5航空隊のニ式水上戦闘機は弾着観測のため発進していた米水上観測機と交戦して1機撃墜を報じるとともに、米艦隊に銃爆撃を敢行。
東港海軍航空隊の九七式飛行艇は雲上から水平爆撃を行い、米駆逐艦に至近弾で損害を報じます。
米軍側の記録では効果が無かったとみなされたものの、それでも制空権獲得のため、近傍のアダック島に飛行場建設を決意。
その一方、日本側の飛行艇は8月19日に内地に引き上げてしまい、以後のキスカ島航空戦力は第5航空隊に委ねられました。
By Kawasaki Line – 海人社 世界の艦船 No.145 47P, パブリック・ドメイン, Link
写真は君川丸
飛行艇が引き上げるのに先立ち、キスカ島には特設水上機母艦「君川丸」が来援しました。
同艦は北方警備を担当する第五艦隊にとって、第二機動部隊(空母「隼鷹」「龍驤」)が引き上げて後は唯一の艦隊航空戦力でしたが、第五航空隊に増援の零式水上偵察機5機を運んできたのです。
以降、「君川丸」により零式水上偵察機と二式水上戦闘機、あるいは零式水上観測機による増援は、翌1943年3月まで続き、時には吹き上げる波しぶきで搭載している水上機ごと凍りつく中、キスカ島・アッツ島にとり、貴重な航空戦力を運び続けています。
天候の厳しい両島で猛烈な嵐による波浪や爆撃で水上機の損耗が相次ぐ中、どうにか戦力を維持できたのは「君川丸」あってのことでしょう。
By Chiefhuggybear – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
アリューシャン列島のアンドリアノフ諸島にあるアメリカ合衆国アラスカ州最南端の島。
しかし、ついに陸上に飛行場を建設するに至らなかった日本軍に対し、米軍はダッチハーバーとキスカ島・アッツ島の中間にあるアダック島に飛行場を建設しました。
それまで少数の爆撃機が来襲するのみだったキスカ島に初めて米戦闘機(機種不明)が姿を現したのは、米艦隊による砲撃からわずか1ヶ月足らずの9月4日。
数日の間は今まで通りに少数機が低空から侵入、一撃していくような散発的な爆撃が続きましたが、ついに運命の9月15日がやってきます。
その日の早朝、キスカ島の電探(レーダー。キスカに配備されていたのは一号一型電波探信儀)が捕捉したのはこれまでに無い複数の反応で、第五航空隊の二式水上戦闘機4機がただちに邀撃発進!
来襲したのは米陸軍のB25双発爆撃機10機と護衛のP38/P39戦闘機約10機からなる戦爆連合で、低空で取り付いた水上戦闘機は多勢に無勢!
それでもB25爆撃機1機、戦闘機6機の撃墜破を報じましたが、水上戦闘機4機のうち3機が撃墜される大損害を受けました。
零戦にフロートを装着して水上機化し、速度は低下したものの零戦譲りの高い空戦能力を持つと言われた二式水上戦闘機も、数の力には勝てなかったのです。
キスカ島およびアッツ島への空襲は、他の戦線と違い嵐や濃霧という悪天候が続くという戦線の特徴から連日とはいかなかったものの、天候が許す限り来襲してきました。
そのたびごとに少なからぬ戦果を報じるものの損害も多く、「君川丸」によるピストン輸送での増援が頼りでした。
しかし1942年11月、ついに壊滅的な打撃を受けます。
同月1日に第五航空隊から四五ニ空(第四五ニ海軍航空隊)へと名を変えていた水上機隊に、同6日「君川丸」からアッツ島に増援が到着。
しかし、同7日の暴風雨で機材の多くが破損したところに同10日にはP38戦闘機の襲撃を受け、二式水上戦闘機6機、零式水上戦闘機3機の全てが失われたのでした。
以後も翌1943年1月5日の暴風波浪で両島に配属された水上機のほとんどが損傷してしまい、四五ニ空は防空や哨戒、小規模な爆撃任務だけでなく、天候によっても度重なる被害を受け、稼働機を失っていきます。
「君川丸」の献身的輸送を受けて何とか維持されてきたキスカ島・アッツ島航空戦力ですが、整備された陸上基地からまとまった数で来襲する米軍機と悪天候により損耗していきます。
一矢を報いようとして敢行される小規模な爆撃も損害のみ多く、1943年2月19日にアムチトカ島へ強行偵察を行った2機の二式水上戦闘機は、迎撃に上がってきた多数の戦闘機に囲まれ、ついに還りませんでした。
そうした海軍航空隊の苦闘の下で、北千島守備隊などから抽出された両島の守備隊は陣地強化などに勤しんでいましたが、それに対する増援部隊を輸送する第五艦隊は米艦隊に待ち伏せされ、ついに両軍の艦隊戦が北太平洋でも勃発します。
次回「キスカ島奇跡の撤退(3)~アッツ島沖海戦」へと続く
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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