- コラム
キスカ島奇跡の撤退(2)~キスカ邀撃戦
2017/02/24
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/01/21
菅野 直人
太平洋戦争では多くの離島で守備隊が文字通り全滅する「玉砕」、あるいは飛び石作戦と呼ばれる重要かつ占領の容易な拠点を残して回避されたため、結果的に戦線孤立、飢餓に陥る例が多発しました。その一方、数少ないながらも見事な撤退作戦に成功した例もあり、中でも最小の損害で撤退に成功したキスカ撤退作戦が有名です。
太平洋戦争開戦を目の前にした1941年7月25日、北方警備のため日本海軍は第5艦隊を編成、連合艦隊の傘下に置きます。
同艦隊の守備範囲は千島列島から小笠原諸島の広大な「東に開かれた日本の柔らかい脇腹」であり、当初から警備の困難さが予想されていました。
後に小笠原諸島の警備は横須賀鎮守府に移譲され、本格的に日本の北方~東方海域を哨戒区域として活動するものの、所属する有力戦闘艦艇はくたびれた旧型軽巡2隻(多摩・木曽)と、特設水上機母艦1隻(君川丸)のみ。
1942年4月には新たな旗艦として重巡1隻(那智)が加わったものの、引き続き戦力として十分なものとはいえません。
一方、軍令部では当時中立を保っていたソ連を刺激したくない思惑もあって同方面での作戦には消極的でしたが、下記の理由によりアリューシャン攻略作戦を発動することとなります。
かくして第五艦隊の従来戦力に加えて空母2隻(龍驤・隼鷹)からなる第4航空戦隊を中心とした第2機動部隊と、攻略部隊の輸送船その他護衛部隊を含め、アリューシャン作戦が発動されたのでした。
By U.S. Army – U.S. Army photo [1] from Aleutian Islands – The U.S. Army Campaign of World War II, パブリック・ドメイン, Link
爆撃されるダッチハーバー
第2機動部隊はアリューシャン列島に進出してウナラスカ島の米海軍基地・ダッチハーバーを空襲。
その間に目標へ接近した攻略部隊はアッツ島(6月6日上陸成功)、キスカ島(同7日)に対し、そもそも敵兵力もいなかったことから無血占領し、作戦目標を達成したのでした。
しかしその時、はるか南方界面で起きた大事件によって、北方での小さな勝利は全く無意味なものとなっていたのです。
そう、6月5日に発生したミッドウェー海戦です。
この戦いにおいて、日本海軍は第1機動部隊の空母4隻全てを喪失し、ミッドウェー作戦は失敗。
アッツ、キスカ両島の上陸作戦は続行されたものの、第2機動部隊は第1機動部隊への合流を命じられて離脱したため、予定されていたキスカ島に近いアダック島への空襲は中止されています。
上陸・占領は果たしたものの、もはや日本海軍はアリューシャン攻略どころでは無くなっていたのでした。
結局、アッツ、キスカ両島は日本にとっては「占領はしたものの手に余る」、アメリカにとっても「戦略的重要性が低いので、当面奪回しない」ということになり、結局両者ともに消極的な戦闘しか行わない、打ち捨てられたような戦線になりました。
日本軍の主な展開兵力は以下の通り。
6月9日に海軍航空隊がキスカ島に進出後、アダック島への空襲や周辺哨戒、米爆撃機の空襲に対し2式水戦による邀撃、艦砲射撃に来た米艦隊への反撃も行っています。
しかし1942年9月半ば頃までは大規模な敵機や敵艦隊来襲もあまり無く、散発的な戦闘が繰り返されるのみでした。
とはいえ、6月の占領から9月半ばまでの間に日本側は駆逐艦2隻と駆潜艇2隻を失い、駆逐艦2隻が大破しています。
戦略的重要度の低い戦線で無為な消耗を繰り返していたことになりますが、着実に力をつけて反攻の準備を進めるアメリカ軍に対し、8月から始まったガダルカナル戦によって、日本はますます北方に回せる戦力がやせ細っていくのでした。
キスカ島奇跡の撤退(2)~キスカ邀撃戦に続きます。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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