- コラム
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菅野 直人
『軽戦車』というジャンルは今でも軟弱地盤の走破や河川の多い地域での渡渉に便利ということで完全に無くなったわけでは無く、中には陸上自衛隊の16式機動戦闘車のように機動力の高い火力支援へ割り切った『装輪戦車』もあります。しかし、小さくて軽くて十分な火力を持った軽戦車を作れば、数を揃えられるし空輸できるし、という夢はかつて盛んにあったようで……今回はそんな夢の産物、アメリカ陸軍のT7軽戦車/M7中戦車です。
第2次世界大戦中、アメリカ陸軍はM4シャーマン中戦車とその派生型を多数揃えて物量で枢軸軍、ことにドイツ軍の重戦車群を押し切った……という通説が映画『パットン大戦車軍団』などの影響で当たり前のようになっています。
しかし、大戦前のアメリカ陸軍ときたら戦車はまだロクに配備されておらず、その性能も列強からすれば時代遅れ、大きさだけは立派でしたから後に改良しまくってM4シャーマンに発展するわけですが、予算が無くて数は少なく、トラックなど機械化も不十分でした。
つまり大戦に参戦してから膨大な工業力をフル稼働して何とかしただけで、個々の兵器は泥縄以外の何でも無かったわけです。
それでも日本軍やイタリア軍、はたまた初期のドイツ軍を相手にするには何とかなりましたが、性能や生産性、整備性は決して褒められたわけではありません。
特に数を揃えなきゃいけない軽戦車では、戦前から開発配備していたM2や発展型M3は性能的にはどうにか及第点だったものの、数を揃えるのに向きませんし将来的な発展余裕もイマイチで、ガマンして使っているような状況だったのです。
そこで考えられたのが、『軽くて生産性が高く、装甲防御力も火力もソコソコいけてる軽戦車を作ろう』というわけですが、まあ誰もがそのくらいは考えます。
特にアメリカの場合は一部例外を除けば自国が戦場になったわけではないので、後方ではノンキに無責任な新兵器開発が行われていました。
By unknown US Army soldier or employee – http://www.combatreform.org/ARMORHISTORY/
http://alternathistory.org.ua/tank-t7-combat-car-ssha
http://ftr.wot-news.com/2013/09/05/t7-combat-car-upcoming-tier-2-premium-tank/
http://www.aviarmor.net/tww2/tanks/usa/combat_t7.htm, Public Domain, Link
こうして1941年1月に『T7軽戦車』として新型軽戦車は開発開始、当初は37mm戦車砲を旋回砲塔に搭載する車重14tの戦車でした。
当時の最新鋭『M3軽戦車』がやはり37mm戦車砲を旋回砲塔に搭載する車重12.7tの戦車でしたが、狭くて不評だった砲塔を大型化するとともに平たくして余分な全高を抑え、車長や砲手、装填手を乗せた床ごと油圧旋回できる砲塔バスケット式とアメリカらしく贅沢。
画期的に変わったのは砲塔くらいでしたから重量増加も抑えられていましたが、試作車を製作中に海の向こうでは北アフリカ戦線が始まり、M2やM3を供与されたイギリス軍からの戦訓情報により、「どうも37mm戦車砲じゃ威力不足らしい」と判明します。
後に太平洋戦線では『日本軍最強戦車は鹵獲したM3軽戦車だ!』と言われたように、日本軍の戦車やM3軽戦車同士なら十分な威力を発揮した37mm戦車砲ですが、大規模な戦車戦による長距離砲戦が戦われる現場では、射程・威力とも不足。
そもそもヨーロッパ戦線における37mm砲は対戦車砲・戦車砲ともフランス戦の段階で『ドアノッカー』と言われてしまっていたので、もっと早く気づかないものか? と思うのですが、おそらくアメリカ側の当局が情報収集を怠ったのでしょう。
結果、試作車の製作中にまずはイギリスの6ポンド砲(57mm戦車砲)のライセンス生産品を搭載するよう設計変更されますが、アフリカ戦が進むと「57mm戦車砲でもダメだ!」という悲鳴が届きます。
「早く言ってよ!」と設計者が嘆いたかどうか、火力支援にも対戦車戦闘にも十分そうな75mm戦車砲へ変更されますが、これはM4シャーマンと同じで設計済みの砲塔には収まらないため、新砲塔が設計されます。
さらに北アフリカからの戦訓はT7軽戦車へ大きな変更を強いて、「これもしかして採用怪しいんじゃ?」と不気味な兆候を見せ始めます。
なぜなら、火力支援に加えて「M3と同程度の装甲じゃ話にならないよ! 何とかして!」と悲鳴が上がったのです。
これも太平洋戦線では、九五式軽戦車の37mm戦車砲はおろか、九七式中戦車の57mm戦車砲ですら『榴弾の小隊集中射による爆発で叩き割るしか無い』とされたM3軽戦車の装甲が、ドイツ軍戦車の50mm砲や75mm砲にはスパスパ抜かれてしまいます。
それどころかイタリア軍戦車の47mm砲にすら抜かれる始末ですが、そもそも37mm戦車砲に対する防御しか考慮しておらず、日本軍戦車は火力重視の低初速砲だから耐えられただけの話。
ヨーロッパ/アフリカ戦線の実情には全く合わないので、装甲を強化していった結果、何と14t戦車のはずが完成してみたら25t戦車になっていたのです。
要するに、最初考えていたような軽戦車自体が非現実的もいいところだったのでした。
Public Domain, Link
ともかく戦訓を取り入れて希望通りの戦車ができた! というわけで最終試作車が完成した1942年8月に晴れて制式化の運びとなりましたが、これだけ重いと軽戦車でも何でもなくなっていたので、正式名は『M7中戦車』となってしまいました。
しかし、今度は中戦車として考えるとM4シャーマンより装甲は薄く、車内容積は小さいので使いにくくて居住性最悪、弾薬も積めません。
しかも火力と装甲を追加したのにサスペンションやエンジンはそのままだったので、本来は軽戦車のはずなのに機動力はM4シャーマンに劣る始末です。
そこでエンジンとサスペンションを改良した発展型の試作が始まりますが、今さらそんなものを作るより、既に十分な性能を発揮して生産性も良好なシャーマンに加えてもう1種類中戦車を作るのは無駄だと計画そのものが放棄されてしまいました。
結局部隊配備されなかったM7ですが、太平洋戦線ならどうせ日本軍の火力は大したことはありませんし、小型軽量のM7でもどうにかなっただけでなく輸送にも便利だった気もしますが、生産効率が悪いし輸送船を大きくすればいいじゃないと言われれば、もう立つ瀬がありません。
こうしてあえなくM7中戦車はあえなく消滅……した一方、途中から放ったらかしになっていたM3後継軽戦車は「もう火力と機動性だけあればいいや」と割り切ったオーダーを出されたM24軽戦車の開発に成功したので、M7を回りくどく開発させられた関係者の努力は全くの無駄で終わったのでした。
あるいはT7/M7で苦労したから、M24はスムーズにうまくいったのさと言われれば、そうかもしれませんが。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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