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2018/02/16

菅野 直人

「201103111446」被災者の見た、震災直後の自衛隊


もうすぐ、日本の歴史において屈指の大災害となった東日本大震災から、7年が経とうとしています。いつまでもあの時の暗い記憶ばかりを引きずるばかりではいけませんが、一時期の「震災はもうおなかいっぱい」という世論もあって、まだまだ伝えきれていない事実がたくさんあるのではないでしょうか。それはまた、太平洋戦争の思い出が個人レベルだとなかなか後世に伝わらない事とも似ています。今回は被災地で筆者が実際に見た、「震災直後の自衛隊」の姿をご紹介します。

被災直後、吹雪をついて飛来した陸自ヘリ

2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0ものエネルギーを持つ巨大地震、「東北地方太平洋地震」が発生、派生した災害や事故も含め、猛烈な大災害をもたらす「東日本大震災」の始まりです。

その時、筆者は仕事で宮城県利府町の「しらかし台工業団地」にある某工場建屋内にいましたが、広範囲の震源から次々に発生する大地震で建屋が崩落する恐怖に駆られ、揺れが一時的に弱まった隙をつき、建屋内から走って外に脱出しました。

直後、地殻変動による広範囲での急速な地盤沈下の影響か、外に出て間もなく、軽く吹雪を伴う猛烈な雪にまで襲われます。
上空から爆音が聞こえたのは、その時です。

見上げると、吹雪をついて現れたのは陸上自衛他のUH-1汎用ヘリコプター
激しい揺れで建屋には入れず、さりとて猛烈な雪の中で外でも凍えていた自分たちにとって、それはそれは勇気づけられる姿でした。

もちろんそのヘリが自分たちを助けに来たものだとは思いませんでしたが、山の上の団地で下界の状況がほとんど不明な中、少なくとも自衛隊に無事な部隊がいる、とわかっただけでも心強く感じたものです。

渋滞に巻き込まれながら現れた災害派遣部隊

やがて、吹雪をつき強行偵察に現れたヘリの目的が明らかになります。
工場の前の道路を、「災害派遣」の札を貼った陸上自衛隊のトラックが次々に通過しつつあったからです。

その時点で大地震発生から感覚的には1時間も経っていないくらいでしょうか。
距離と走ってきた方角からして、おそらくは第6戦車大隊(第6師団)などが駐屯する、大和駐屯地(宮城県黒川郡大和町)からの派遣部隊でしょう。

距離を考えると、地震発生直後におそらく通行止めになった高速道路を使い、東北道大和ICから南下、仙台北部道路に入ってしらかし台ICから出てきたものと思われます。
迅速な機動に目を見張りましたが、筆者はその頃までに、カーナビのTV画面で津波の第1波が既に三陸海岸沿岸部を飲み込もうとしているのを見ており、その救出に向かったのだろうと考えました。

しかし、その時点で停電や大規模な余震が続く中、とても操業などできない工場から次々と従業員が帰路についており、工業団地の中を通る幹線道路は渋滞しています。

おそらく上空を飛ぶUH-1は、派遣部隊との連絡と渋滞回避路の指示を出すための偵察飛行を行っていたのです。
当時筆者はそこまで考えていたわけではありませんでしたが、自衛隊の車列の後ろで愛車を帰路につかせながら、頑張れ、どこかの誰かを助けてあげてくれ、と応援したい気持ちでした。

唯一生き残った航空拠点、霞の目飛行場

その後、筆者は信号は停電で機能喪失、何が原因か交差点で事故をおこした車がいても、警察がいつ来るのか見当もつかない状況の中、渋滞でノロノロ運転の幹線道路に見切りをつけ、記憶とカーナビを頼りに裏道をひた走ります。

途中、海沿いから仙台市中心部へ通じる国道45号を横切る時には、1945年の東プロイセンでソ連軍から逃げてきたような難民の列に出会いました。
海から一歩でも離れようと、毛布やら当面必要な最低限の生活用具だけを持ち出して先を急ぐ……というより、疲れきった人々。
その一方で、途中で見かけたコンビニには、次はいつ買えるかわからない食料品などを求める人々が列をなしていました。

極力、裏道だけを通る渋滞回避ルートを選んだおかげで比較的スムーズにひた走る筆者の車でしたが、ついに仙台市宮城野区荒浜近くで、対向して向かってきた泥まみれのオフロード車が「戻れ、戻れ!」と手を振るのを見て、これ以上海岸近くのルートの通行不可を悟ります。

余震は激しく、運転しながらシートから振り落とされそうになり、路面に亀裂が入り水路上の橋が崩壊しかける中、筆者はとにかく車を走らせました。

ラジオからは、福島第一原発に深刻な事態が発生したことを伝えるアナウンサーの声が響いてきます。
もしかして日本はこのまま終わるのか畜生、魔女の婆さんの呪いだ

その時いたのは、東北方面ヘリコプター隊が配備された霞の目飛行場の目の前でしたが、空が晴れて夕焼け空の中、多数のヘリが上空を舞っているのに気づきました。
離発着するヘリ、その順番を待つかのように上空待機するヘリの群れからは、ベトナム戦争の映画を思い起こさせます。

周り中から集まってきたかと思えるヘリの数でしたが、それもそのはず、その頃航空自衛隊松島基地仙台空港仙台市荒浜防災ヘリポートといった周辺の航空基地は全て津波で水没していました。
霞の目飛行場は、文字通り仙台地区で“陥落”していなかった、最後の航空拠点だったのです。

米軍現る

どうにか帰宅して落ち着くと、次はガソリンの確保です。
どうにか営業再開にこぎつけそうなスタンドの情報を仕入れては並んだのですが、あるスタンドでは並び始めてから実際に営業するまで16時間という時もあり、開店待ちで手持ち無沙汰の人々は自然発生的に集まって、ラジオの音に耳を寄せました。

3月13日未明、放送局もアンテナが被災したようで、補助アンテナから弱々しい電波で送られる放送は、非常事態を淡々と伝え続けています。
米軍が来るんだってよ?」
誰かがボソリと呟きました。

太平洋上で演習に向かっていた原子力空母ロナルド・レーガンを基幹とする機動部隊が東北太平洋岸沖に到達したとラジオは伝えており、凍えながらガソリンを待っていた人々の顔も明るくなります。
米軍も来てくれたか!」
空母だからヘリも積んでるし、松島基地も仙台空港も沈没したから、沖合で航空基地にはうってつけですよ!」
こうなったらもう、アメちゃんでも誰でもいいから助けて欲しいわ!」

実際には原発事故の放射能で被爆するなど、かなりの苦境の中で活動したようですが、自衛隊や全国各地の消防救助隊、その他民間も含めて多数の救援部隊が東北に向かう中でも、ロナルド・レーガンの来航はビッグニュースでした。

さらに数日すると米海兵隊か、白く塗られてまるで国連仕様のようなハンヴィー(汎用高機動車)も見かけるようになります。
米軍は仙台市街ではそれほど見なかったように思いますが、仙台空港の復旧などにも携わる心強い存在でした。

後に筆者は石巻市の某所で「米軍は震災直後、特に治安の悪かった石巻市に投入されたんだ。この意味……わかるよね?」と言われましたが、そこで何があったのかは伝えた本人でも定かでは無いようで、噂の域を出ません。

ただ、警察組織は意外というべきか奮闘したようで、いわゆる火事場泥棒の類(言われてみれば当たり前ですが、地理に明るい日本人の地元民だったようです)の多くは後に検挙されたようでした。
逆に言えば、それらを防ぐため警察以外の組織が治安維持活動を行ったわけでも無さそうです。

気仙沼の夕闇に浮かぶ海自の多用途支援艦

震災から3ヶ月後、どうにか交通事情もいくらか改善したということで、筆者は被災地巡りを始めました。
と言っても物見遊山ではなく、被災地の多くに昔の仕事で携わったため、お世話になった先の現状把握と、可能であれば何らかの支援活動を行うためです。

しかし、被災状況は筆者の想像をはるかに超え、昔お世話になった人々や会社がどうなったのか、そもそも元々あった場所を把握するのも容易ではありません。
記憶をたどって道を走ろうにも、その「記憶」と「現実」とのズレが激しすぎて、現在地を理解できないのです。

原爆に吹き飛ばされたかのように、何も残っていない町がありました。
南三陸町では、中心部の志津川に入るのに、陸上自衛隊が81式自走架柱橋で架橋した橋を渡るという貴重な体験をします。

関連記事:「災害派遣に架ける橋」陸上自衛隊の自走架橋装備

宮城県北部の気仙沼市にたどり着いた頃は、もう日が暮れかけていましたが、ガレキ撤去なのか、陸自施設科のショベルカーがまだ作業を続けています。
大型漁船も建造していた造船所は重油火災で焼けただれ、干物を軒先に干していた漁師の集落も土台だけを残し、震災前の姿は残っていません。
かつてお世話になった人々は、どこへ行ったのか、それ以前に生きているのか見当もつかず。

途方に暮れる筆者の目の前には、夕暮れの中、海上保安庁の庁舎前に接岸する海上自衛隊の「すおう」の姿がありました。

ひうち級多用途支援艦は、気仙沼市とその沖合の大島(当時はまだ大島大橋が無く、交通手段は海路のみ)を結ぶ物資輸送に携わっていたので、その一コマだったかもしれません。

筆者が住んでいた仙台市では見る機会の少なかった自衛隊ですが、甚大な被害を受けた地域では、施設科多用途支援艦など普段は注目されない支援部隊の活躍が目立ちました。
どんな強力な武装を持つより、災害派遣の現場ではそれら「縁の下の力持ち」の姿が、何よりも力強く感じ、一丸となって災害派遣をやり遂げようという気概を感じたものです。

その後1ヶ月ほどで自衛隊の「災統合任務部隊」は解散、急速に撤収していきますが、震災発生直後から全力で任務についた自衛隊や米軍の姿を、忘れることは無いでしょう。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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