- コラム
日本海軍航空隊・対艦攻撃のプロBEST5
2017/07/22
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/01/31
菅野 直人
太平洋戦争敗戦直後の日本でもっとも大きな影響力を与えた軍人といえば、もちろんダグラス・マッカーサー。しかしそのキャリアの中で、まるで小林源文の漫画における中村のような苦労人がいたことはあまり知られていません。とにかくマッカーサーがイヤでイヤでたまらなくて毛嫌いしていた末に、その元を離れてから出世街道を全力で駆け上がって大統領にまでなった男、ドワイト・D・アイゼンハワーとは?
By White House – [1], パブリック・ドメイン, Link
ドワイト・D・アイゼンハワー、通称“アイク”が生まれたのは1890年のテキサスで、2歳の時にカンザス州へと移住。ドイツ系ともスウェーデン系ユダヤ人とも言われるアイゼンハワー家はアイクが生まれた当時それほど裕福では無かったようで、高校を卒業すると兄と交代で大学に通う取り決めを結び、まず兄エドガーが進学、その学費をアイクがバター工場で稼ぎます。
しかし、1年後にアイクの順番が回ってきてもエドガーは引き続き大学での勉強を望み、困ったところで州上院議員のコネを得て軍の士官への道が開け、1911年にウエストポイント(陸軍士官学校)へと入学しました。それが後に大統領職にあった8年を除き、50年にもおよぶアイクの軍歴の始まりです。
By unknown [Army Signal Corps] – https://arcweb.archives.gov/arc/arch_results_detail.jsp?&pg=2&si=0&st=b&rp=digital&nh=27, パブリック・ドメイン, Link
1915年にウエストポイントを卒業、少尉に任官したアイクはアメリカ陸軍最初期の戦車隊に所属、1920年までには少佐に昇進するなど、キャリアを重ねます。しかし順調だったのはそこまでで、ピカピカの新米士官だったアイクはアメリカも参戦した第1次世界大戦への従軍を認められず、特に華の無い青年士官時代を過ごしました。
1922年から2年ほど、パナマ地区でフォックス・コナー将軍の副官として管理能力を学び、1925年からの1年間はカンザス州で参謀学校に学ぶと、1927年には大隊を率いる士官にまで上り詰めます。しかし、戦間期に平和を謳歌し、かつ世界大恐慌の影響で軍事費を削減された軍人ならば大なり小なり同じ思いをしたように、アイクもまた、いくらキャリアを積んでも、部隊指揮官になっても、さほど意味はありませんでした。
何しろ戦争も無い上に予算も無いので、それ以上上り詰めようが無いのです。おかげで、閑職にも等しい陸軍戦争大学での勤務、将軍の副官といった退屈な任務についている間、実に1936年まで16年もの間、少佐のまま昇進のキッカケも無く不遇のまま。
ジョ-ジ・パットンのような戦争大好き軍人と違ってアル中で困るようなことはありませんでしたが、とにかく地味なキャリアをコツコツと勤め上げる、どこにでもいた軍人だったのです。
関連記事:戦間期はダメ人間だった典型的な戦争大好き将軍、ジョージ・スミス・パットン・ジュニア
By From: U.S. Naval Historical Center
Source: http://www.history.navy.mil/photos/images/ac00001/ac02413c.htm, パブリック・ドメイン, Link
しかし、その不遇のキャリアに1933年、ちょっとした変化が訪れます。当時、アメリカ陸軍史上最年少で参謀総長の座にあった天才、ダグラス・マッカーサーの主任補佐武官に任命されたのです。
アイクは43歳で少佐、マッカーサーは53歳と10歳しか違わないのに大将で参謀総長。しかも尊大な性格で知られたマッカーサーでしたから、アイクの言うことなど聞かず、不況下で困窮した退役軍人が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る「ボーナスアーミー事件」が起きた時など、アイクの静止を無視して退役軍人のテント村を焼き払う始末。
「アイクッ! このボケッツ!(BLAM!!)」
「ヒィッ! (畜生、いつか殺してやる……)」
というやり取りがあったのかは不明ですが、1935年に参謀総長を退任、1946年に独立が決まって独自の軍備育成を必要としていたフィリピンに、軍事顧問として少将に戻ったマッカーサー(アメリカにおける階級とは、昇進や降格というより「任命」されるもの)に、無理やりアイクも付き合わされます。
アイク自身はフィリピンになど興味も無ければ、まだありもしないフィリピン陸軍元帥に任命されたマッカーサーの副官など御免こうむるという気分だったようですが、小林源文の漫画における佐藤大輔に中村が絶対服従なごとく、ズルズルとフィリピンへ。
一応アイクはそれなりに真面目に仕事をして「フィリピンの軍備には2,500万ドル無いと日本軍からの防衛は困難」とレポートを出すものの、フィリピン大統領ケソンと結託して現地での財テクに励んでいたマッカーサーは、それを100万ドルに減らしてしまいました。
おまけに1938年、そんな軍事費がどこにあるのかと引き止めるのも聞かずに、マッカーサーが独断でマニラ市内での軍事パレードを計画、それがケソン大統領にバレると
「総員傾注! アイクが独断で軍事パレードを計画しているぞ?」
「えェっ?! そ、そんな……(畜生、いつか略)」
という光景だったか定かではありませんが、ともかく責任転嫁して、アメリカ軍軍事顧問団との関係もこじれたマッカーサーはサッサと米本土に帰ってしまいました。
とにかくこのマッカーサー副官時代は、1936年に中佐へ昇進できたのを除けば、アイクにとって地獄のような数年間であり、後にマッカーサーを極度に毛嫌いすることになります。まあ当然といえば当然でしょう。
ともかくマッカーサーの米本土帰還で、晴れて地獄の数年間を脱した苦労人のアイク。1940年1月には彼も米本土に還り、気まぐれで尊大な上司もいなければ持ち前の管理能力をフルに発揮可能な才能を活かして、1941年9月、第3軍参謀長時代に准将にまで5年でトントン拍子に出世します。
中村が佐藤大輔さえいなければ特A級射手として優れたスナイパーとして描かれることがあることでもわかるように、才能を持ちつつ上司に恵まれない人間もいるものです(中村の場合はその個人にも問題がありましたが)。1941年12月に太平洋戦争が勃発、アメリカも第2次世界大戦の参戦すると、アイクはそれまでの苦労が一気に報われるがごとく、出世していきます。
参戦直後に参謀本部戦争計画局次長に任命されると、マーシャル参謀総長の新任を得て作戦部初代部長に任命、少将に昇進。ここでアメリカの生産力と潜在的軍事力をフル活用して大量の航空機や上陸戦力を準備すれば、反攻開始後すぐに西ヨーロッパに平和をもたらすことが可能と計画、承認を受けた計画の実行までまかされ、中将に昇進するとともにヨーロッパ戦域連合軍最高司令官になります。
そこでもアイクは優れた調整能力を発揮して、寄せ集め所帯だった連合軍をまとめると1943年9月にはイタリアを打倒、1944年3月には大将へ昇進。1944年6月には連合国遠征軍最高司令官として“史上最大の作戦”ノルマンディー上陸作戦を指揮して成功させると、同年12月には元帥に昇進しました。
第2次世界大戦勃発時(1939年9月)には一介の中佐に過ぎず、アメリカ参戦時にさえ准将に過ぎなかった不遇の士官は、わずか5年で中佐から元帥へとスピード出世を成し遂げたのです。ヨーロッパ解放のために尽力したアイクは一介の兵士から各国の最高指導者に至るまで絶大な人気と信頼を誇り、その中にはなんとソ連のスターリンまで含まれ、しかもイギリスのチャーチル首相やモンゴメリ-将軍と決裂することもありませんでした。
ヨーロッパはフィリピンと違って居心地がよかったようで、陸軍参謀総長を経て1950年にはNATO(北大西洋条約機構)軍の最高司令官になり、引き続きヨーロッパを守っています。
その時点で政治的野心をもっていなかったアイクは、民主党と共和党、どっち寄りの姿勢かすらハッキリしない軍人だったため、1952年の大統領選挙では双方から出馬を要請されます。
あまりに尊大でライバルに対する舌戦ばかりがひどいため、米国民から人気の無く1948年、1952年の大統領選挙でもはかばかしい成果を得られなかったマッカーサーとは違い、アイクはあらゆる軍人、つまり軍人から市民へ戻った国民に大人気だったのです。
結局、「民主党政権が続いたし、別にどっちでやっても同じ」という理屈で共和党から立候補したアイクは、1952年の大統領選挙で共和党候補同士の会談でかつての上司マッカーサーと再会します。ここでも尊大だったマッカーサーは「ドイツや朝鮮を統一するためスターリンと会談し、嫌がるようなら北朝鮮を核攻撃せよ」などと過激な持論を展開した結果、敗北後はアイクも含め誰ひとりとしてマッカーサーに助言を求めなくなりました。
これでついにかつての中村は佐藤を……いえ、アイクはマッカーサーを完全に逆転して大統領に当選、1953年からの2期8年の期間は、「核兵器を使った大量報復戦略で挑む」という姿勢で戦争を抑止する平和な期間が続き、1961年に大統領の座を降りると、再び終身陸軍元帥として、1969年3月に逝去するまで陸軍軍人としての人生を歩んだのでした。
第2次世界大戦で「シンデレラストーリー」と呼ぶべき奇跡的昇進を続け、戦後は大腸料まで上り詰めたドワイト・D・アイゼンハワー。
しかし、その家庭では1920年からのうだつの上がらない少佐時代とマッカーサー副幹事大を含む1938年まで18年もの「暗黒期間」があったことを考えると、若い時の苦労はするもんだ、というのはこういうことを言うのかもしれません。
30歳から48歳までという働き盛りにひたすら苦しく報われない時代を乗り越えたと思えば、現在40代に差し掛かって苦しむ「失われた10年世代」にも、まだチャンスはあるのかも?そう希望を持ちたいですね。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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