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2017/12/18

菅野 直人

戦間期はダメ人間だった典型的な戦争大好き将軍、ジョージ・スミス・パットン・ジュニア

パットンシリーズのアメリカ製戦車(M46/47/48/60)や映画「パットン大戦車軍団」(原題:Patton)にその名を残す米軍の猛将、ジョージ・スミス・パットン・ジュニア。アメリカ建国以来の軍人の家系で、ひとたび戦争となれば水を得た魚のように暴れまわり、戦争終結とともに交通事故で死んだほどの、大の戦争好きというより「戦争に魅入られた男」を紹介します。

軍人一家に生まれた「生まれつきの将軍」ジョージ・スミス・パットン・ジュニア

George S. Patton 01.jpg
By no data – https://www.warhistoryonline.com/war-articles/27-fantastic-quotes-by-old-blood-and-guts-general-patton.html/2, パブリック・ドメイン, Link

1885年にカリフォルニアで生まれたジョージ・スミス・パットン・ジュニア(以下、パットン)は筋金入りの軍人家系。
何しろパットン家そのものは南北戦争で活躍したパットンの祖父、ジョージ・スミス・パットン・シニアから台頭したとはいえ、その血統をさかのぼればアメリカ独立戦争で活躍したヒュー・マーサー准将に行きつきます。

つまりアメリカ建国時から代々軍人を輩出してきた家系で、父親のジョージ・ウィリアム・パットンこそ軍人にはならなかったものの、パットン自身は持恩心着いた時には自分は将軍になると決意、「パットン中将」を名乗っていました。

そこで何で元帥や大将じゃないんだ? と誰もが思うところですが、あまり出世しすぎると前線に出られなくなるのを知っていたとしたら、あくまで「戦う将軍じゃないとダメ」だったのかもしれません。

騎兵将校として機動戦の信者に

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By 不明http://allstarpics.famousfix.com/pictures/george-s-patton/p12839702, パブリック・ドメイン, Link

目標通りウェストポイント(米陸軍士官学校)を卒業、騎兵将校となったパットンは、1912年のストックホルムオリンピックへの出場や1913年型騎兵サーベルのデザインを経て、1916年のメキシコ国境戦役で初陣を迎えます。

1917年にアメリカが第1次世界大戦に参戦すると、メキシコ国境戦役以来の上官、パーシング将軍とともにヨーロッパに渡り、当時の最新兵器だった戦車部隊に配属され、その戦功で大佐まで戦時昇進。
(ただしアメリカ軍における「戦時昇進」は「その階級への一時的な配置」を意味するので、正式な昇進とはまた別で、配置されている間は大佐として振る舞えるにすぎない)

ここでパットンは敵味方のヨーロッパ諸国軍が固執していた塹壕戦を否定し、機動戦こそが勝敗を決めるという持論を得ます。

これは戦車部隊の指揮官になった影響というより、アメリカ陸軍が独立戦争以来、騎兵を中心とした後方への迂回機動と中枢への攻撃を好む軍隊だったことや、ドイツ軍で少数に分割された歩兵による後方への浸透突破戦術が一部で効果を上げていた影響でしょう。
何しろ当時の戦車では速度が遅すぎ、歩兵に追従しての援護が関の山でした。

戦争大好き人間の定番「戦争が無いとダメ人間」

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By U.S. Army – http://www.ftmeade.army.mil/museum/archive_patton.html, パブリック・ドメイン, Link

第1世界大戦から復員、正式階級の少佐に戻ったパットンは、新兵器の戦車で機甲部隊を設立すべく予算獲得運動を始めますが、平時の緊縮財政や1920年代末の世界恐慌で頓挫。
それどころか緊縮財政下で縮小する軍の中で昇進もままなりません。

一般社会でも景気が悪くて新卒採用が少なかったり、リストラして部署ごと人員縮小されるような会社では、管理職のポストが空かずに昇進できないようなものですね。

おまけに戦争も無くて平和なのでパットンはすっかり腐ってしまい、ヒステリー持ちのアルコール中毒、家庭は崩壊寸前というダメ人間になってしまいます。
戦争で思わぬ大活躍により脚光を浴びる人間が平時に何をしているかと言えば、大抵はこうしてダメ人間になっているか何の役に立つかわからず閑職に置かれているものです。

あなたも「俺だって戦争が起きればガンダムを動かしてザクの1機や2機くらい……」と夢を見たことがあるかもしれませんが、日本では残念活躍の場が無い、というのと一緒。

しかし、そうして生まれる数多のダメ人間と違ってパットンには運河あり、1938年に20年近くかかってようやく大佐に昇進した時、いよいよヨーロッパで戦争が起こりそう、という気配が濃厚になり、パットンの活力は日に日にみなぎってきます。

これは戦場が近づくと高熱など体調不良を起こし、遠のくと途端にピンピンする戦争神経症とは逆パターンで、何のことは無い、パットンは「戦争中毒」だったのです。

北アフリカからイタリアを転戦、文字通り兵士に闘魂を注入したパットン

アメリカが1941年12月に第2次世界大戦へ参戦してからすぐパットンの出番があったわけでもありませんが、その間に機動力による電撃戦でヨーロッパを席捲したドイツ軍を参考に機甲部隊が創設、少将に昇進したパットンは第2機甲師団長に就任します。

1942年11月のトーチ作戦で北アフリカのモロッコに上陸した時点でパットンは第1機甲軍団を率いていましたが、ふがいない戦いぶりで「連合軍版のイタリア軍」とバカにされ、指揮官が更迭された第2軍団の指揮官に転任。
そこでパットンは鉄の規律や猛訓練を兵士に課し、自ら先頭切って突撃しては、後方に留まりがちな部下指揮官を更迭するなど、現地のアメリカ軍を弱兵から精強な軍団へと成長させます。

猛将パットン率いるアメリカ軍は、イギリス軍とともに北アフリカからドイツ軍を叩き出すと1943年7月にイタリア本土に間近いシチリア島上陸作戦を決行。
イギリス軍のモントゴメリー将軍がドイツ軍を攻めあぐねている間に猛烈な勢いで進撃し、予定外ながらイギリス軍担当地域まで占領する勢いを見せました。

この頃のパットンはまさに「前線の将軍」で、象牙のピストルグリップに「自ら射殺した敵兵の数」を刻んでいるほどでしたが、その熱血ぶりがある事件を起こします。

ある時、野戦病院を視察したパットンは砲弾神経症(猛烈な砲撃の心理的衝撃、今でいうPTSDの一種)で身体的負傷が無いのにベッドにいた兵士に激怒して殴り倒してしまい、それが犬猿の仲だったアイゼンハワー将軍のリークで報道されてしまったのです。
非難を浴びたパットンは後に兵士やその場にいた関係者に謝罪したものの、前線指揮官を解任され、閑職に回されてしまいました。

猛将、前線に帰り「パットン大戦車軍団」を率いる

1944年6月に「史上最大の作戦ノルマンディー上陸作戦が開始された時、パットンはアメリカ第1軍集団の指揮官へ任ぜられていました。

ただし、この部隊はドイツ軍へ真の上陸地点を偽装するために仕立て上げられた情報戦上の囮、つまり実在しないも同然のペーパー・アーミーであり、戦争大好き、戦場にいないと耐えられないパットンにとっては、イジメにあっているも等しい配置でした。

それでも上陸作戦が成功すると、かつての部下、ブラッドレー将軍の傘下ながら第3軍の指揮官に復帰します。
ここで発動された戦果拡張「コブラ作戦」末期において、パットンは打撃を受けて弱体化したドイツ軍の後方へと第3軍を突進させ、ノルマンディー戦線正面のドイツ軍を完全に包囲、「ファレーズポケット」を完成させ、ドイツ軍の殲滅に成功しました。

しかも、1944年12月に西部戦線のドイツ軍が一発逆転を図った最後の大反撃作戦「バルジの戦い」では、アメリカ第101空挺師団がバストーニュで包囲されかけているのを察知するやただちに第3軍を同地に向けて進撃させます。

指揮官会議でアイゼンハワー将軍に「バストーニュの包囲はどのくらいで始められる?」と聞かれた時、「48時間以内に可能」と答えて「無茶をするな!」と叱責されますが、無茶どころかその時既に第3軍の一部部隊はドイツ軍との接触を始めていました。

このドイツ軍の電撃戦もかくやと言うべき疾風迅雷の機動戦により、第101空挺師団は包囲殲滅を免れ、要衝バストーニュを守り抜いてドイツ軍を撃退したことで、「バルジ大戦車戦」とも言われた西部戦線最後の決戦での勝利に大きく貢献しています。

戦争終結とともにこの世を去る

その後は大きな戦いも無くドイツは1945年5月に降伏、8月には日本も降伏したので太平洋戦線に回ることも無くパットンの戦いは終わりを告げました。

その後は一時的にバイエルンで軍政を指揮しますが、あくまで戦争大好き軍人で政治的素養の無かったパットンは「ナチスっていってもアメリカの民主党や共和党と同じ政党でしょ?」と言って、ナチス党員をそのまま現地の公務に従事させ続けます。
しかしこれが「民主主義の政党をナチスと同列に語るとは何事か!」と、反ファシスト派からの猛烈な非難を浴びて失脚してしまいました。

パットンは共産主義が嫌いだったのでむしろ反ファシスト、反ナチというより反ソ的人物で、戦場で勇敢だったナチスドイツ兵や武装親衛隊にはむしろ好感を持っていたほどでしたが、将軍としてはあまりにも政治に無頓着すぎたと言えます。

結局、戦史編纂を担当する第15軍司令官に左遷されますが、休暇中に狩猟に出かける途中に遭った交通事故で、1945年12月21日、あえなくこの世を去りました

自分はあまりにも軍人過ぎる」と自覚もしており、しかし自身でそれを修正することも無かった筋金入りの戦争大好き将軍、パットンにとって戦後は生きやすい世界では無かったはずです。
それを思えば、戦争終結から間もなくこの世を去ったのは、「最後の世界大戦終結とともにその役目を終えた」という運命だったのかもしれません。

なお、1949年にアメリカ陸軍で採用された新型戦車M46には「パットン」と名付けられ、かつての猛将の名誉を称えられました。
M46は改良を受けてM47、M48と発展しても愛称は「パットン」のままで、最終発展型M60も非公式ながら「パットン」または「スーパーパットン」と呼ばれています

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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