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2017/05/25

菅野 直人

軍人偉人伝「捕虜になっても戦いをやめなかった男~不死身の分隊長、船坂弘軍曹」

もしも、不屈の闘志のみならず、不死身とも言える強靭な肉体を持った兵士がいれば。漫画の中ではありがちな話ではありますが、何万人何十万人と兵士がいれば、そのうち1人や2人くらいはそうした「兵士の中の兵士」が出てきます。

日本で言えばその代表は、舩坂弘軍曹ではないでしょうか。

銃剣術と射撃名人の舩坂軍曹、南方に発つ

Funasaka hiroshi (retouched).jpg
By The Japanese book『Senshi Sōshō』 – File:Funasaka_hiroshi.jpg, パブリック・ドメイン, Link

第219部隊伍長だった頃の舩坂弘
 

田舎のガキ大将の三男坊、舩坂弘が栃木県で生まれたのは1920年。
1941年3月、太平洋戦争が始まった年に20歳で陸軍に入営(入隊)し、満州の斉斉哈爾(チチハル)に駐屯していた第219部隊(宇都宮歩兵第59連隊基幹)に配属されました。

その当初から銃剣術と射撃の達人として知られており、その技量に秀でていることを示す「射撃徽章」「銃剣術徽章」を両方持っていましたが、どちらか1つならともかく両方というのは極めて異例で、舩坂は満州時代からその頭角を現していたのです。

しかも配置は小銃ではなく、小型の榴弾で歩兵の近接火力支援を行う擲弾筒分隊で分隊長という立場でしたから、こと近距離の歩兵戦闘であればできないものは無さそうなほど、強力な兵士だったと言えます。

戦争末期にソ連が攻めて来るまでの満州ではその腕を存分に発揮する機会もありませんでしたが、1944年3月、ついに部隊に南方への移動が命じられます。

行き先はパラオ諸島(現在のパラオ共和国)のアンガウル島。

ここで舩坂は後に公刊戦史「戦史叢書(せんしそうしょ)」に個人として唯一その名が記された、文字通り歴史にその名を残す破天荒な活躍を見せます。

孤立無援の舩坂軍曹、アンガウル守備隊壊滅す

Bombardment of Anguar.jpg
By USN – Downloaded from thewarpage.com. First uploaded to en.wikipedia by user Gdr
22:12, 3 November 2004 Gdr 744×514 (47348 bytes) (Bombardment of [[:en:Anguar]]{{PD-USGov-Military-Navy}}Downloaded from [http://www.thewarpage.com/ww2/pacnaval/naval13.jpg]), パブリック・ドメイン, Link

アメリカ海軍によるアンガウル島への上陸準備艦砲射撃
 

歩兵第59連隊はその当初、全力でアンガウル島に到着(1944年4月28日)したものの、兵力の大部分を他の島へ増援として抽出され、わずか1個大隊1,250名のみで島を守る羽目に陥ります。

しかも同年9月17日に米軍が上陸した時には、それに先立つ砲爆撃で通信機を破壊され、外部と連絡が取れない全く孤立無援の状態で迎撃を強いられました。

この戦いで船坂は擲弾筒分隊を率いて撃ちまくり米兵多数を吹き飛ばすものの、多勢に無勢で大隊は短時間で大打撃を受け、翌日未明に切り込み夜襲で海岸まで突撃したのを最後に壊滅します。

舩坂は一連の攻撃を生き延びたものの、翌日には瀕死の重傷を負い、駆けつけた軍医も処置無しで手榴弾を渡すだけで去り、舩坂もこうして自決する日本兵の1人になると思われました。

超回復の舩坂軍曹、接近戦の鬼


しかし、舩坂弘軍曹一世一代の大活躍が始まるのはここからです。
何とか自力で止血して味方陣地に帰りつくや翌日には回復、その後幾度も瀕死の重傷を負うも、なぜか翌日には回復して元気に出撃します。

「生まれつき傷が治りやすい体質だから」

とはいうものの、マンガでもあるまいし、そんな馬鹿な話があるでしょうか?

全身血まみれ傷まみれになり多数の米軍に囲まれながら、拳銃や短機関銃を撃ちまくり、弾が切れれば銃剣で突き、しまいにはそれを投げ槍のように投げて米兵を倒す船坂は、接近戦では文字通り無敵の強さを発揮したのです。

しかし、不死身の分隊長と言われた舩坂もついに腹部に重傷を負い、傷口に湧いた虫を見て死期を悟って手榴弾自決を決意します。
鬼の分隊長、舩坂軍曹もついに最後の時を迎えようとしていました。

不死身の舩坂軍曹、単身突撃す


しかし伝説はまだまだ終わりません!!
手榴弾の不発で自決未遂に終わった舩坂は、這うことしかできないほどの重症で自決を決意したはずが、またもや奇跡を起こします。

もはや部隊は全滅、こうなったら1人でも米軍に目にもの見せてやるとばかりに手榴弾6発と拳銃1丁だけを持って敵陣まで這っていったのです。

手榴弾で再度自決せず、敵陣で自爆しようという、何たる執念!
あまりの重症で思うように動けなかったのが幸いしたのか、米軍の前線を突破するのみならず敵司令部まで到達し、指揮官集合のかかったタイミングで拳銃と手榴弾を持って立ち上がります。

いきなり現れたボロボロの日本兵に呆然とする米軍の将兵のど真ん中、舩坂は最後の突撃をかけましたが、さすがに息切れしたのか銃撃を浴びて倒れました。
押し寄せた米軍に日本兵の意地を、サムライの勇敢さを見せた壮烈な最期…のはずでしたが。

蘇る舩坂軍曹、米軍弾薬庫を爆破する


なんと舩坂はまだ死んでいませんでした。
そのあまりに勇敢な突撃に感動した米軍は、無駄と思いながらも最期を看取るかのように野戦病院に入院させていましたが、なんと3日目には蘇生して「情けをかけられた!」と怒りながら周りの医療機器を叩き壊したのです。

全身の傷と火傷や砲弾の破片は全て致命傷のはずでしたが、舩坂にとっては「1日では回復しない程度の傷」に過ぎなかったのでしょうか?

駆けつけたMP(憲兵)の銃口に身を晒し、撃て!殺せ!と叫ぶ舩坂を何とかなだめ、同じく米軍が攻略した近くのペリリュー島に送ります。
しかし、そこで瀕死の重傷を負った日本兵と油断する米軍が監視の目を緩めた隙に病院から脱走し、小銃弾の火薬を抜き、米軍の弾薬庫に火をつけました。猛然たる轟音とともに吹き飛ぶ、大量の弾薬!

しかも舩坂はそのまま病院に戻って翌日も何食わぬ顔で病院の点呼を受けたため、公式には「原因不明の弾薬庫爆発事故」で処理されました。それに味をしめ、その後も2回に渡り飛行場に忍び込み爆破を目論みますが失敗し、その後は収容所を転々として米本土で終戦を迎えています。

帰還した舩坂「元」軍曹、自分の墓を抜き本屋の主になる


戦後1946年に復員(帰還)した舩坂「元」軍曹は、当然ながらアンガウル島守備隊の一員として玉砕、戦死したと思われていました。

故郷に帰って先祖に帰還報告を行おうと仏壇に合掌すると自分の位牌があったのです。日本に戻っての初仕事は、自分の墓標を抜くことから始まりました。

その後、アメリカの先進性を学んで日本を豊かにすることで社会に貢献しようと、養父が持っていた一坪の土地を使って渋谷駅前に書店経営を始めます。

日本版ランボーかコマンドーか、それとも実写版江田島平八かと思うような波乱万丈の兵隊稼業から最後に行き着いたのは本屋の主でしたが、それでも最後まで剣道に打ち込み、教士六段まで昇格しました。

舩坂の開いた「大盛堂書店 本店」は規模を拡大して「日本初の本のデパート」となり2005年まで存続、現在も渋谷駅前店にその名残を残しています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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