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2017/05/1

菅野 直人

あの日、彼らは戦場に向かった~戦後日本初の「実戦」朝鮮戦争の特別掃海隊

太平洋戦争の終結から2017年で72年。その間日本は戦争をしてこなかった、参加しなかったという認識の人も多いと思いますが、それは正しくありません。現実には、1950年からの朝鮮戦争は「対岸の火事」どころではなく、日本もしっかり巻き込まれ、参加させられています。

5年ぶりに鳴り響いた「警戒警報」

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1950年6月25日、突如として南進してきた北朝鮮軍によって朝鮮戦争は始まりました。緒戦でその勢いを止められなかった韓国軍と在韓米軍、そしてそれらに各国からの増援を加えて急遽編成された国連軍は後退に後退を重ね、8月には釜山とその周辺の地域に押し込まれ、朝鮮半島が北朝鮮によって統一されてしまう危機が目前に迫っていたのです。

その頃の日本は太平洋戦争での敗北から5年、独立を保っているとは言っても、現実にはGHQ(連合軍総司令部)占領下での独立であり、まだ国家主権を回復していません。つまり、事実上アメリカによる保護国のような状態にあったわけですが、そんな日本のすぐ対岸での出来事でもあり、朝鮮半島の国連軍にとっては重要な後方拠点であると同時に、戦火が及ぶ可能性もありました。

実際、朝鮮戦争が始まった直後に1機の国籍不明機が北九州に接近したため、1950年6月29日22時15分をもって、小倉、戸畑、八幡、門司の4都市で、実に5年ぶりとなる警戒警報が発令されます。警戒警報は「空襲警報」の一段階前で、空襲に備えた準備を始めるための警報ですが、1945年8月の戦争終結以降、鳴るはずの無いものでした。わずか40分で解除されたとはいえ、警報の鳴った地域では灯火管制が実施され、再び「戦時」がやってきたのです。

横浜など、朝鮮戦争から遠く離れた日本各地でも報復爆撃を恐れた高射砲陣地が設置され、最悪の可能性に備えていました。

「朝鮮特需」だけではない、官民による直接協力

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朝鮮戦争が日本に与えた影響として一番紹介されるのは、後方基地として国連軍からさまざまな物資の注文を受け、大量供給を行ったことによる「朝鮮特需」でしょう。それによって沈滞していた戦後経済の復興に役立ったという側面は知っている人も多いと思いますが、その一方で、物資供給という間接的な協力だけでなく、直接的な戦争参加についてはあまり語られることはありません。

後述する特別掃海隊のほかにも、反撃のための上陸作戦後、確保した拠点に物資を陸揚げするため、日本からも民間船舶が数多く徴用されました。アメリカ軍の在日兵站司令部「JLC(Japan Logistical Command)」との契約を結び、門司港に集結した民間船は122隻(120隻は小型沿岸用の機帆船で、それらの母船と修理用の工作船が各1隻)。

釜山を経由して仁川に向かい、仁川上陸作戦で確保された国連軍の橋頭堡(拠点)へ、沖合の輸送船から海岸へのピストン輸送を実施しています。上陸作戦そのものはともかく、その後の兵站(軍需物資の補給)維持は日本の民間船舶の助力あってこそでした。

海上保安庁日本特別掃海隊出撃せよ

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一方、国連軍の要求による直接協力は民間船舶の傭船に留まらず、日本の国家組織にも及びました。海上保安庁の掃海部隊に対し、GHQを通して仁川上陸作戦への出撃が命じられたのです。当時の日本は国そのものがGHQの管理下でしたから、日本が参戦したというより参戦命令に従わなければいけない立場でしたから、有無を言わさず出撃しました。

太平洋戦争末期、日本はB-29などが投下した機雷によって港湾や航路が封鎖されており、戦争が終わってからも、否むしろ戦争が終わったからこそ、それを除去する掃海作業は続けなければいけません。最初は許可を受けた日本海軍艦艇が、海軍省と海軍組織が解体されると、その後処理機関である第2復員省、次いで第2復員庁が継承し、1950年当時は1948年に発足した海上保安庁が掃海部隊を引き継いでいます。

その掃海部隊、と言っても旧海軍から引き継いだ駆潜特務艇や哨戒特務艇、その他雑役船など木造小型艇がほとんどで、機雷除去のための掃海具を除けば武装は機雷を直接射撃処分するための小銃程度。このような戦闘力を持たない部隊でしたが、それゆえ水深の浅い上陸予定海岸近くの掃海には向いているとされて、指名されたのです。

海上保安庁は法的には非軍事組織であるため、掃海船は日章旗ではなく国際信号旗で本来は「進路を右に変えている」を意味する「E旗」を掲げて、朝鮮半島沿岸に向いました。

「戦死者」を出しながらの掃海作業

10月10日に元山沖に到着した部隊をはじめとして、数隊の海保掃海船が元山、仁川、鎮南裏、群山で米軍や韓国軍の掃海艇とともに掃海作業に従事しました。10月17日に元山沖でMS14号艇(旧駆潜特務艇第202号)が触雷(機雷の作動・爆発)沈没して19名の負傷者、行方不明者を出す惨事となり、より小型艇での先行掃海を要望します。

しかし、国連軍現地指揮官の回答は、「掃海を続行するか日本に帰れ。しからば砲撃す。」で、元山沖の第1次掃海隊は作業続行不可と判断して帰国しました。このように「占領下の日本国組織」への扱いは散々なものでしたが、他に損失したのは群山沖で座礁沈没したMS30号艇(旧哨戒特務艇第191号)くらいで、12月15日をもって「日本特別掃海隊」は解隊、本来の日本沿岸部の掃海作業に戻っています。

まとめ

日本特別掃海隊は「日本の朝鮮戦争参戦」とみなした北朝鮮やソ連から非難を受け、日本国内でも共産党や社会党から国会で攻撃材料にされます。おまけに韓国の李承晩大統領(当時)まで「もし本当に日本が韓国に出兵しているなら、共産軍に向けている銃身を回して、日本軍と戦う」と言い出す始末で、苦労した割には報われることが少なかったと言えるでしょう。

ただ、元山に上陸した掃海隊員が韓国兵に出会うと「おーご苦労さんです! 一杯やりますか?」と現場レベルでは感謝されたのが、数少ない救いだったと言われています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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