- コラム
陸の珍兵器「世界でもっとも見た目がアレな自走砲、ベスパ 150 TAP」
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菅野 直人
すごいー! たーのしー!
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菅野 直人
現在でもロシア軍など旧ソ連軍からの伝統で空挺戦車(あるいは空挺装甲戦闘車)に積極的な軍隊が存在しますが、「空挺部隊とともに空から降ってきて戦線後方から蹂躙する戦車」とは、誰もが理想的な兵器として一度は考えたものでした。大抵は輸送機やグライダーで運ぶものですが、諸事情により戦車そのものを飛ばす『飛行戦車』を作ってしまったのが日本軍とソ連軍です。
1903年にライト兄弟が史上初の動力飛行に成功、「飛行機はどうやら商業的にも軍事的にもモノになりそうだ」とわかってから数年、早くも飛行機は偵察に爆撃にと戦争で多彩な活躍を見せるようになりました。
同時に人や物を運ぶ輸送機や旅客機の発展も始まり、そんなに積めるなら爆弾もたくさん積めるだろうと爆撃機が登場、空中で止まることもできず、何かあったら落ちるしかない飛行機からの脱出手段としてパラシュートも発展します。
それらを組み合わせて、「じゃあ爆弾を落とせるなら、武装した兵隊をたくさん載せてパラシュートで落とせばいいんじゃない? 何機も投入すれば降下した先で部隊として活動可能な規模の兵員になるし、これを空挺部隊と名付けよう!」と考えられました。
最初に考えられたのは第1次世界大戦時、その後1920年代から1930年代に熱心に研究されて空挺部隊も編成され、1939年からの第2次世界大戦では連合軍・枢軸軍ともに大々的に運用します。
どれだけ塹壕を掘って戦線を作り敵地上部隊や上陸部隊を食い止めても、その後方へ降下して戦線後方から防衛計画をシッチャカメッチャカにされる空挺部隊は防衛側にとって厄介な存在でしたが、空挺部隊にも弱点がありました。
それが『防衛側が戦車や装甲車を持ってくると、どうしても火力不足で大苦戦』というもので、いかに対戦車用の個人携行火器があっても弾が少ないので、よほど考えて使わないと肝心な時に弾切れになりかねません。
中には日本軍のように、兵員と武器弾薬を別々の場所に投下するミスを犯したので拳銃と手榴弾だけで戦うハメになった空挺部隊がオランダ軍の装甲車に取り付いて数を頼みに人力でひっくり返すなんて荒業で勝ってしまう例もありましたが、それは特例中の特例。
根本的な解決策は「じゃあ空挺部隊にも戦車を配備して、一緒に降下させればいいじゃん?」なのでした。
第2次世界大戦の頃ともなると、双発や4発で搭載量の大きい大型爆撃機や輸送機の実用化が始まり、機体規模の問題で中にそのまま戦車を格納して着陸までは実現しなかったものの、代わりに強行着陸するグライダーならどうだろう? と考えられました。
グライダーなら曳航する飛行機自体はそう大きくなくともハイパワーなら良いですし、グライダー自体を頑丈に作りつつエンジンその他が無いので軽く作れて戦車も積めます。
使い捨てと考えれば離陸のことを考えず、単にちょっとばかり平地があれば強行着陸して戦車も下ろせて、という考え方で作られたグライダーの代表格がイギリスのハミルカーで、実際に国産の『テトラーク』やアメリカ製の『ローカスト』空挺戦車を積んで空挺作戦を行いました。
さらにドイツ軍も、本格的な空挺戦車こそ持たなかったものの、メッサーシュミットMe321『ギガント』大型グライダーなら戦車を運ぶこともできたので、小規模な機甲部隊の空中展開には便利だと思われたのです(実際そういう使われ方だったかは別として)。
日本でも『ク-7』グライダーやク-7を動力化したキ-105輸送機で二式軽戦車を運ぼうとした計画はあったので、戦後に荒地でも離発着可能な戦術輸送機で戦車を運んだり、パラシュートつきのパレットで空挺戦車を落とすようになる以前、第2次世界大戦中の空挺戦車はグライダー降下がトレンドでした。
しかし、イギリスのハミルカーが『世界初、戦車も運べる空挺部隊用グライダー』だったように、搭載量の大きなグライダーや、それを戦場まで引っ張る曳航母機は誰にでも作れるわけでもなく、開発は難航しました。
特に低コストで使い捨て可能な大搭載量輸送グライダーはノウハウが少なく、ついにイライラして奇想天外アイデアをぶちかましたのが、二式軽戦車を作ったものの輸送グライダー・ク-7がサッパリ完成しなかった日本軍です。
「ええい! 戦車を積めるグライダーなんてもう待ってられない! 戦車に翼つけてグライダーとして飛ばし、降下したら翼を捨てて戦う飛行戦車でいいじゃん!」
そう考えたものの、そもそも履帯(キャタピラ)で離着陸するのはちょっとばかり衝撃が大きすぎる上に離着陸速度も早すぎて、既存の戦車ではすぐ壊れそうです。
さらに空気抵抗が大きい、重すぎるので思い切って装甲すらほとんど無くして軽量化とイジリ倒した結果、できたのが『離着陸時はソリを使い、グライダーとして飛んで着陸後は翼を外して戦う、37mm戦車砲と7.7mm重機関銃を搭載する九八式軽戦車の形をしたハリボテ』でした。
『特三号戦車クロ』として制式採用された飛行戦車は文字通り『翼の生えた戦車』で、非現実的な姿の割に操縦は難しいながらもちゃんと飛んだのは大したものです。
ただし問題は飛行可能なために車両本体重量2.9tまでダイエットした軽量化にあり、小銃弾さえ防げるか怪しいペラペラ装甲に、重い空冷ディーゼルエンジンに代わって搭載した軽量なガソリンエンジンにありました。
戦場に降下して戦車砲や機関銃での火力支援はソコソコ助かりそうですが、常に隠れて待ち伏せ程度にしか使えなければ、戦車としての意味はあまりありませんし、被弾してすぐ炎上するガソリンエンジンも問題。
ましてや制空権が無い中でノソノソと曳航がうまくいくとは思えず、うまく降下に成功しても戦力として頼り無さすぎるのでは、もはや何のために作ったのやら?
こうしてアッサリとボツになった特三号戦車は量産されることも無く開発中止、「日本軍が途中で放り出したビックリドッキリメカ」の仲間入りしてしまいました。
一方、1920年代から空挺部隊の編成に熱心で、爆撃機の翼の上によじのぼった兵員を滑り落とすように降下させたり、「柔らかい雪の上ならパラシュート無しでも大丈夫じゃね?」と実験してものの見事に全滅という奇天烈な経歴を持っていたソ連軍。
当然空挺戦車も早くから思いついた上に発想は豪快で、1930年代から試された初期の空挺戦車とは『超低空から軽戦車を落っことす』と単純明快でしたが、驚くべきことに1940年、ソ連によるルーマニア・ベッサラビア割譲に際して実戦投入されたと言われます。
しかしさすがに落とした戦車がアチコチ壊れたりひっくり返る損害がバカにならなかったのか、中に兵員を乗せたまま落とすわけにもいかず、敵に奪われた時のリスクも考えたのか、乗員ともども降下できる、もっと本格的な空挺戦車を考え始めました。
そこで後にアントノフ設計局を率いることになるオリェーク・アントノフに軽戦車を搭載可能なグライダーの設計を命じますが、何を考えたのか「そんなことするより、戦車をグライダーにすればいいんじゃないの?」と、飛行戦車を作ってしまいます。
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こうして1942年にT-60軽戦車を翼をつけたアントノフA-40飛行戦車は軍の審査を受け、これまた何とか飛んだ上に着陸にも成功、翼を外したT-60は自力で基地まで帰ったと言われますが、問題はその実用性でした。
テストで使われた旧式のツポレフTB-3重爆撃機は車体重量5.8t、グライダーとして主翼装着時は7.8tに達するA-40を曳航するには著しくパワー不足で、近代的4発爆撃機のペトリャコフPe-8は生産数が少なかったため、グライダー曳航に回す余地がありません。
おまけにT-60自体も特三式戦車クロほどでは無かったもののしょせんは軽戦車、ドイツ軍を相手にして本気で役に立つ代物では無かったので、ほどなく開発は中止されてしまいます。
結局第2次世界大戦中のソ連軍は「小細工するより数で押して地の果てまでドイツ軍を追った方が早い」という結論に達してさっさとベルリンを占領、後に乗員を乗せたまま空挺降下が可能なBMD-1空挺戦闘車を実戦配備したのは、1969年の事。
近頃話題の『空飛ぶ自動車』もそうですが、空を飛ぶものと地面を走る乗り物では求められる要素があまりに相反しており、大抵は『地面を走るマトモな乗り物を、マトモな飛行機で運んだ方が結局は効率的だよね』という結論に達するもので、飛行戦車もその好例でした。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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