- コラム
ミリタリー偉人伝「加藤隼戦闘機隊・加藤建夫」
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菅野 直人
すごいー! たーのしー!
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菅野 直人
1945年8月15日の玉音放送、そして同9月2日の降伏文書調印で、日本にとっての第2次世界大戦は終わったはずでした。しかし、戦後も戦い続けた日本軍がいたのです。そう、各地の独立戦争に加わるのではなく、連合軍の命令で独立しようとする旧植民地を鎮圧する側として。その中でも最大規模と言えるのが、現在のベトナムで戦われた『マスタードム作戦』でした。
1940年6月、第2次世界大戦でフランスがドイツに敗北、フランスに休戦後のヴィシー政権が誕生すると、フランスが世界各地に持っていた植民地はそれぞれの選択を迫られました。
ヴィシー・フランスに従って枢軸国側につくか、イギリスに亡命した自由フランスに加わって連合国側につくか、それともとりあえず中立を宣言して日和見を決め込むか。
アジアでフランス最大の植民地だったインドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)も例外ではなかったのですが、仏領インドシナの特殊事情として、中国(中華民国)と戦争をしていた日本から、仏領インドシナを通過する中国への補給ルート遮断を要求されていたのです。
本国から遠く離れた仏領インドシナ植民地政府は、本国は元より自由フランスから増援を受けられるわけでもなく、さりとてマレー半島やシンガポールを制するイギリス、フィリピンを保持するアメリカも日本と戦争しているわけではありません。
もし日本の要求を拒否するなら植民地独自で戦わねばなりませんが、誰の助けを得られるわけも無いなら、日本の要求を呑むしかありませんでした。
さらに日本はヴィシー・フランスとこうしょうして1940年9月には北部仏印(インドシナ北部)へ日本軍を進駐させ、1941年6月には南部仏印にも進駐を許し、同年12月からの太平洋戦争で仏領インドシナに駐留するフランス軍は中立を保つ中、同地は日本軍の重要拠点として機能し続けます。
やがて自由フランスがフランス本土を回復、日本の敗色が濃くなった1945年3月に日本軍は『明号作戦』を発動して仏領インドシナのフランス軍を武装解除して捕虜とし、名実ともにインドシナを支配するようになりました。
こうしてインドシナのフランス勢力は一掃され、ベトナム、ラオス、カンボジアは独立宣言を発して植民地支配から『解放』されたはずでしたが、1945年8月15日の玉音放送による『日本の敗戦』で全てはご破算になったのです。
インドシナに駐留していた日本軍も日本本土の大本営から停戦命令は受けたものの、本土のように『さあ戦争が終わったので解散! 退職金をもらって帰れ!』というわけにはいきません。
まずはしかるべき連合軍部隊へ降伏して武装解除を受け、海路日本へ帰還しなければならないのですが、明号作戦でフランス軍は解体されて捕虜にしてしまっていましたし、連合軍では代わりにインドシナ北部は中国軍、南部はイギリス軍が進駐して、日本軍の処理を行うはずでした。
しかし、8月17日にベトナムでベトミン(ベトナム独立同盟)がクーデターを起こしてバオダイ朝ベトナム帝国を滅ぼしてしまい、9月2日にはハノイで『ベトナム民主共和国』の建国を宣言してしまったのです。
その時点でインドシナ改め『ベトナム』での当事者ではなくなっていた日本軍は、武装解除を連合軍から受けるまでと自らの武装は保持したものの、明号作戦で接収したフランス軍の武器引き渡しに応じ、脱走兵の一部がベトミン軍に加わった程度で何もできませんでした。
一方、連合軍の動きも緩やかなもので、台風の影響で上陸の遅れたイギリス軍(英印軍)が南部のサイゴン(現在のホー・チ・ミン市)へ進駐したのは9月6日、陸路で北部へ入った中華民国軍がハノイに進駐したのはそれより遅れた9日。
もちろんイギリス軍と中華民国軍の駐留が始まった時にはベトナム全土で『革命』の嵐が巻き起こっており、マズイ事にはベトミンですら全土を掌握できていない状態で大混乱の極みにありました。
おまけに日本軍も降伏相手を待ちつつまだ武装解除できていない状態であり、ベトナムは不安定要因の塊だったのです。
ここで南部のイギリス軍はまず日本軍の降伏と武装解除に手を付け、フランス植民地軍の捕虜を解放して再武装させ、21日にはさらにイギリス軍と同行する形でフランス軍部隊も上陸、以降フランス軍は続々増援を受け、ベトナム全土の掌握に動いてしまいます。
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当然ベトミンは「また植民地を支配しに来たぞ」と言わんばかりのフランス軍へ反発し、進駐したイギリス軍や英印軍(インド軍)を巻き込んだ戦闘に発展、10月に至りベトミン軍がサイゴン奪還を目指して攻撃を始めると、戦力不足の連合軍は治安維持にすら支障をきたす有り様。
ついにベトナム南部の連合軍指揮官、英印軍のグレイシー少々は日本軍の投入を決意、同地にまだ留まっていた日本陸軍第38軍などに、ベトミン軍との戦闘を命令したのです。
その段階で日本軍は既に『降伏して捕虜の身』であり、本来なら戦う意志の無い集団として連合軍が保護すべき存在でしたが、連合軍はそんな事も言っていられないほど追い詰められ、日本軍も自身を監督する連合軍の命令とあらば、否応もありません。
かくして、戦力を増強した連合軍は『マスタードム作戦』を発動、サイゴンからベトミン軍を撃退することに成功しますが、インド軍と日本軍の混成歩兵部隊をイギリス軍の機甲戦力や砲兵、航空機が支援してベトミン軍と戦うという奇妙な光景が現出します。
戦争が終わって帰国できるはずの日本軍将兵の気持ちはどんなものだったのでしょうか。
さらには、脱走した日本兵がベトミン軍部隊の指揮を執っていたケースもあり、かの地では日本人が連合軍とベトミン軍に分かれて相討つ戦場となっていたのです。
日本軍まで動員してベトミン軍と戦ったとはいえ、本来イギリス軍や英印軍の任務は『フランスが治安を回復するまで、日本軍に代わって占領地の治安を維持する』に過ぎません。
従ってフランス軍部隊が増強されるに従ってその役割も縮小していき、1946年3月には一部象徴的な小部隊を残してベトナムから北部・南部ともに撤収、その頃には日本軍もフランス軍から武装解除を受け、ようやく本土へ帰還できたと言われています。
もちろん戦闘では日本軍にも死者が出ており、『戦後日本の軍事作戦による死者』など、後の朝鮮戦争での特別掃海隊も含め、連合国の都合でとっくの昔に発生していたわけで、ある意味では戦後日本とは連合軍にやらされた戦争で始まったとも言えるかもしれません。
なお、フランスとベトミンは『ベトナムはフランス連合の一員として高度な自治権を与える』関係になるはずでしたが、植民地支配を捨てようとしないフランスは約束を反故にしたため、ベトミンは1946年12月にフランスへの全面戦争を開始、正式に第一次インドシナ戦争が勃発しました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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