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2018/09/21

菅野 直人

意外な傑作機「本当に駄作機なら13,738機も作りません!カーチスP-40ウォーホーク」

戦後に日本語で紹介された時は『日本軍機に全く歯が立たなかったダメ飛行機』のような評価がされながら、戦争後半まで13,738機も生産されたアメリカ陸軍の戦闘機、カーチスP-40ウォーホーク』。いくら最新鋭機の配備に時間がかかったとはいえ、本当にただのダメ飛行機ならそれほど生産されて世界中の連合国に供与されて使われるわけも無いのです。







P-51以前に実質的な主力戦闘機だったカーチスP-40『ウォーホーク』

アメリカ陸軍航空軍第24戦闘飛行隊のP-40N
By United States Air Force – USAAF Photo via Hagdedorn, Dan (1995), Alae Supra Canalem: Wings Over the Canal, Turner Publishing, ISBN-10: 1563111535, パブリック・ドメイン, Link

1940年代の第2次世界大戦真っ只中、北アフリカ戦線やビルマ戦線ではイギリス空軍が、東部戦線ではソ連空軍が、太平洋戦線ではアメリカ陸軍航空隊やオーストラリア空軍が使用して縦横無尽の活躍を見せたカーチスP-40ウォーホーク』。

確かに大戦後半に登場し、枢軸軍戦闘機を圧倒した最新鋭戦闘機ほどの性能は持たなかったものの、世代差を考えれば当たり前の話で、むしろそれら最新鋭機登場前は、事実上主力戦闘機のひとつとして迎撃や制空戦闘、戦闘爆撃機として連合軍戦線を支えました。

そんな活躍ができた理由は、頑丈で急降下での離脱など荒っぽい戦闘飛行によく耐え、防弾装備を施せるだけのエンジンパワーを持つので生残率が高く、大火力で爆弾を搭載するなど幅広い任務に適応するだけの柔軟性を持っていたからです。
そして何より、『手に入るエンジンや武装を使ってすぐに大量生産が可能な完成度と量産性を持ち、整備もしやすい』ことが、性能面で尖ったところは無くてもP-40が広く大量に使われた理由でもありました。

アメリカで大量に生産されたP-40は世界各国で戦闘機不足に悩む戦闘機隊に配備され、日本・ドイツ・イタリアを中心とした枢軸国の航空攻撃に対して勇敢に立ち向かい、決してひけをとらなかったのです。

傑作P-36の液冷エンジン搭載リファイン版がP-40

Curtiss P-36 060908-F-1234P-009.jpg
By USAF – USAF, パブリック・ドメイン, Link

P-40を語る上で欠かせないのが、その前身であるカーチスP-36ホーク』です。
1920年代から1930年代前半のアメリカ陸軍航空隊主力戦闘機、ボーイングP-26の後継機として開発されたもので、試作機はエンジン不調もあってライバルのセバスキーP-35に敗れはしたものの、エンジン換装でさらなる高性能を発揮した近代的な低翼単葉引き込み脚戦闘機でした。

結果、P-36は先に制式採用はされたものの設計の古かったP-35よりも大量の発注を受け、引き込み脚を固定脚に換装した輸出向け簡易型も含めれば世界各国から注文を受けていて、第2次世界大戦初期はもちろん、太平洋戦線初期にも活躍しています。

特に低空での機動性は高かったため、フランス空軍への輸出型はドイツ空軍の主力戦闘機メッサーシュミットBf109Eでも容易ならざる相手でしたが、それほど大馬力では無い空冷エンジン搭載機だったため、速度性能や防弾性能に余裕をもたせた大出力エンジン版が開発されました。

それが液冷エンジンのアリソンV1710に換装したXP-37/XP-40で、後に日本で生産体制が整わず手を焼いた末に液冷から空冷エンジンに換装した陸海軍機とは逆コース、ドイツ空軍のFw190Aに液冷エンジン化したFw190D/Ta152Hと同じパターンです。

ただ、1937年からテストの始まったXP-37/YP-37はターボチャージャーが不調で、ターボ無し、スーパーチャージャーのみのV1710に換装したXP-40を開発。
これは高高度性能を除けばパワーや速度性能に申し分無く、P-40として1939年4月に制式採用が決まりました。

よく『アメリカは戦前からターボチャージャー(排気タービン)をモノにしていて、日本とはその差は歴然』という話がありますが、1930年代のアメリカでもターボチャージャーはまだまだ技術的に厄介な代物だったことがわかるエピソードです。

アメリカ中立時代はイギリスやソ連などで活躍、『フライング・タイガース』も装備

Flying Tiger P-40 Kunming.jpg
By USAF – U.S. Air Force photo 050406-F-1234P-067, パブリック・ドメイン, Link

アメリカ陸軍航空隊に採用されたP-40ですが、P-35やP-36の後継機として配備が進む一方でP-40をもっとも求めていたのは1939年9月に第2次世界大戦が勃発、ドイツ軍と実際に対峙していたフランス空軍やイギリス空軍でした。
そこで両国はP-40を大量に発注、カーチスの工場で生産ラインがフル稼動状態になると、他のアメリカ航空機メーカーでもP-40を生産してくれないか交渉を始めます。

そこで『ウチに任せてくれればもっと高性能機を作るよ』と請け負って、後にレシプロ戦闘機史上最高傑作と言われるP-51ムスタング』を作ったのがノースアメリカン社でしたが、それはともかく今すぐ作れるP-40は連合軍への増援戦闘機として貴重でした。

何しろP-47P-51はもちろん、P-38ですらまだ大量生産という段階ではありませんでしたし、P-39エアラコブラ』も発注はしたものの、性能不足としてソ連へのレンドリース(供与)に回してしまったくらいです。
数を揃えるのにP-40は最適だったので大量に大西洋を超える船便に積み込まれましたが、残念ながら到着前にフランスはドイツ軍の侵攻で降伏(1940年6月)してしまっており、イギリス空軍が使用したり、あるいは1941年6月にドイツから攻め込まれたソ連に送られました。

イギリス本土航空決戦『バトル・オブ・ブリテン』には間に合わず、スーパーマリン・スピットファイアやホーカー・ハリケーンで戦ったイギリス空軍でしたが、その危機を乗り越えて北フランス戦線でのドイツ・イタリア合同の北アフリカ軍団へ立ち向かったのがP-40です。

P-36ほど低空での機動性は高くなかったので対戦闘機戦闘が得意とまでは言えませんでしたが、中期型以降12.7mm機関銃6丁の大火力と爆弾搭載可能なのを活かして戦闘爆撃機として活躍、東部戦線でもソ連軍が同様に活用しました。

まだ中立だったアメリカ軍での実戦参加はもう少し先になりますが、中国(中華民国)へ送られた義勇戦闘機隊フライング・タイガース』がP-40を装備しており、到着が太平洋戦線の開始直前(1941年11月)になったので、日本との戦争が始まるとすぐビルマ戦線に投入されています。

太平洋戦線では『打たれ強さ』を発揮、戦線を支える

1941年12月に始まった太平洋戦争では、ヨーロッパ戦線と異なりまだまだP-35やP-36が多く、これら低空での格闘戦に優れた戦闘機が日本軍を苦しめたのに対し、P-40はやはり旋回性能や上昇力の面で日本の一式戦闘機『』(陸軍)や『零戦』(海軍)に劣ると評価されました。

実際にP-40を飛ばして日本軍と戦うアメリカ、イギリス、オーストラリア空軍の戦闘機パイロットもそれは認めなければいけない事実でしたが、頑丈さと防弾性能を活かしていざとなれば華奢な日本軍機を振り切ることは可能だったので、生還率の高い戦闘機でもあります。

そこが、攻撃はともかく受けに回ると弱いバッファローやP-36など旧式戦闘機との違いで、連合軍のP-40パイロットは背後からの一方的な攻撃に怯え、日本軍機が得意とする旋回戦に持ち込まれないよう注意しながら一撃離脱戦法と編隊空戦で立ち向かいました。

特にガダルカナル戦以降、ソロモンやニューギニアでP-40は米海軍/海兵隊のグラマンF4Fワイルドキャット』や、同じアメリカ陸軍航空隊のベルP-39エアラコブラ』と共に、最新鋭機が大量配備される戦争終盤まで戦い抜いたのです。

もしP-40が無ければ、より性能に劣る旧式のP-36ヴァルティーP-66ヴァンガード』のような輸出用戦闘機で戦わなければいけなかったところで、それに比べればP-40は日本軍機を駆逐するとまで言わないものの、はるかにマシな戦闘機なのでした。

軽量版P-40Nや高高度性能向上型P-40Fは侮りがたい相手として戦争終盤まで活躍

戦争中盤に入ると1942年あたりからP-47P-51の初期型がチラホラ戦場に現れるようになりますが、まだまだ生産は少なくヨーロッパ戦線が中心だったので、太平洋戦線では1944年に入る頃まで、ヨーロッパ戦線でも1943年中はまだまだP-40が主力の一翼を担います。

そのため、最新鋭機へのつなぎとして性能向上型が開発され、レシプロ時代の名エンジンとして名高いロールスロイスマーリン』を搭載して高高度性能や速度性能、上昇性能を改善したP-40Fや、軽量型P-40Nが配備されるようになりました。

空力的にリファインされた上にエンジン性能向上で高性能化され、対する枢軸軍機も高性能化はしたものの損害を埋めきれずパイロットの質が低下してくると、P-40でも勝てるようになってきます。
何ならP-40のままでも戦争に勝てた可能性は無いでもないのですが、やはり最新鋭戦闘機の方が楽に勝ててありがたいのは変わりないので、ドイツや日本を無条件降伏に追い込んだ時に空を飛んでいたのは、ほとんどがP-47やP-51でした。

とはいえ、P-40が『飛び抜けた高性能機でなくとも扱いやすい名機』というのを一番よく知っていたのは現場のパイロットたちです。
戦後のエアレーサーとしての出番はあまり無く、P-51ほど派手な扱いはされないものの、ヴィンテージ軍用機の定番機、あるいは入門編の戦闘機として、アメリカではその後も現在に至るまで民間登録機が盛んに飛んでいます。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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