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2018/08/10

菅野 直人

1945日本降伏せず~南部九州決戦予測『オリンピック作戦』

よく知られているように、日本(大日本帝国)は1945年8月15日に無条件降伏を迫る連合軍からの『ポツダム宣言』受諾を昭和天皇の『玉音放送』という形で内外に表明、同9月2日に東京湾上の米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印して、第2次世界大戦の敗北を認めました。しかし、仮にその降伏が無ければどうなっていたか? 『終わりの始まり』は、もうすぐそこに迫っていたのです。







1945年11月・南部九州占領『オリンピック作戦』

Operation Downfall - Map.jpg
パブリック・ドメイン, Link

第2次世界大戦が歴史通りに集結していなければ、連合軍はどうする予定だったのか?
答えは簡単、「降伏するまで攻め続ける」で、そのため最終的にはドイツでそうなったように、本土へ攻め込み首都を占領し、形はどうあれ最高司令部と称するものが降伏するまで戦争をやめる気は無かったのです。

そのためにマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン島など)を占領してB-29爆撃機により本土を爆撃するとともに大量の機雷を撒いて海上封鎖も行いました。

フィリピン奪回作戦はフィリピン軍陸軍元帥でもあったマッカーサーの名誉挽回という一面もありましたが、同時に現在のインドネシアやブルネイに当時からあった石油など資源の輸送ルート(シーレーン)を切断するものでもあります。
そして硫黄島はB-29の護衛戦闘機(主にP-51ムスタング)のため、沖縄は日本本土進攻作戦の基地として、多大な犠牲を出して占領したのです。

その一方、日本は連合軍に対して小さな島や密林など大部隊の行動に向かない戦場ではともかく、大規模な地上戦で中国を除く連合軍と雌雄を決したことが無かったため、本土決戦がそれを実現し、少しでも有利な条件で戦争をやめるチャンスと考えていました。
その決戦開始時期は、1945年11月

オリンピック作戦発動の条件・ソ連参戦せず

President Truman announces Japan's surrender.jpg
By Abbie Rowe, U.S. National Park Service – This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 520054., パブリック・ドメイン, Link

もっとも、よく知られているように日本は1945年8月15日に昭和天皇が自らの声を放送した『玉音放送』によってポツダム宣言の受諾を表明、その後も完全に組織的な戦闘が終わるまで少々時間はかかりましたが、同年9月2日に降伏文書へ調印、第2次世界大戦は終わります

それまで本土決戦を目指していた日本の方針転換に大きな影響を与えたのは、同年8月6日に広島へ、同9日に長崎へ投下された原子爆弾よりも、長崎への原子爆弾投下と同日に始まったソ連による対日参戦による影響が大です。

第2次世界大戦のほとんどの期間、日ソ中立条約によって、そしてドイツとソ連の独ソ戦もあり、日本とソ連は戦火を開くことが無かったため、戦争末期に世界中の国から宣戦布告されていた日本にとって、ソ連は和平仲介を期待できる『最後の希望』でした。
要は本土決戦で連合軍に一撃を与え、ソ連に仲介してもらい条件付きなら降伏もやむなし……と虫の良い事を考えていたわけです。

原子爆弾は確かに日本の都市を2つ、たった2発の爆弾で壊滅はさせましたが、B-29が数百機でやるか1機でやるかの違いであって、ショックは大きいものの現実として戦略に大きな影響を与えるとは思えません。
何しろ、地形が変わり多数の死傷者を出す本土決戦を行おうとしていたわけで、それに比べると純粋に戦術的な観点からすれば、大被害とまでは言えなかったことになります。

しかし、ソ連が参戦してきた以上は有利な条件を引き出そうと粘る意味が消滅してしまったわけですから、原爆以上に致命的な打撃でした。
逆に言えば、ソ連が参戦しなければ原子爆弾が何発投下されれば日本は降伏したのか、あるいはしなかったのかは、もはや誰にもわかりません。

そのため、『日本本土決戦が必ず行われる予想』を行うには、少なくともオリンピック作戦以前のソ連参戦が無い、というのは絶対条件です。

本土決戦までの戦況予想

日本は1945年8月時点で既に本土決戦準備のため積極的な反撃を控えるようになっており、1945年6月までの沖縄戦で見られたような大規模出撃は行われなくなっていました。

その結果、7月から8月中旬にかけて米英の空母機動部隊が日本本土各地を攻撃し、戦艦や巡洋艦など水上艦による艦砲射撃が行われても反撃は少数の特攻機のみで、連合軍が大規模な基地化を進める沖縄へも少数機での夜間攻撃が続いていた程度です。
防空体制の方も迎撃より戦力温存に重きが置かれ、広島への原爆投下の際も、偵察機と誤認したことで迎撃機は無理に上がらない状況でした。

一方の連合軍側も、日本がポツダム宣言を受諾すると情報が入った8月10日以降、機動部隊がその意思に念を押すように予定を延長して艦載機による攻撃を続けましたが、その情報が無ければ一旦は沖縄やそれより後方の根拠地へ帰還していたはずでした。
そのため、8月~9月頃の日本ではB-29により引き続き都市爆撃と機雷投下が行われていたものの、空母艦載機や戦艦による攻撃は一時的に静まっていた可能性が高くなります。

その一方、日本側の反撃としては、潜水空母2隻(伊400、402)が搭載する特殊攻撃機『晴嵐(せいらん)』によるウルシー環礁(連合軍艦隊根拠地)への攻撃、そしてマリアナ諸島のB-29や原爆を銃撃や空挺部隊で破壊する『剣号作戦』が8月下旬に発動予定でした。

10月以降はマリアナ以外に沖縄も基地とした爆撃が強化され、B-29や戦争末期に沖縄から作戦開始していたB-24爆撃機に加え、B-32爆撃機やイギリス空軍のランカスター爆撃機などによる作戦も始まっていたはずです。
特にイギリス空軍のランカスターは、ダム攻撃爆弾『アップキープ』や5t爆弾『トールボーイ』、10t爆弾『グランドスラム』などを使う特殊爆撃隊、第617中隊が出撃予定で、超大型爆弾により関門トンネルを破壊する予定だったと言われます。

1945年11月1日、連合軍が九州南部に上陸

10月下旬になると、沖縄からの爆撃機に加え、多数の護衛空母を飛び立った艦載機が防衛陣地や飛行場など軍事施設への直接的な攻撃を繰り返し、九州地方南部では徒歩ですら昼間の移動が困難になると思われます。

種子島や屋久島など全身拠点となりうる九州近海の島は5日前までに占領する予定で上陸作戦が行われ、沖縄本島に比べれば小兵力しか無い小島では守備隊が短期間で玉砕するのが確実。
艦砲射撃は熾烈を極め、特に上陸地点付近の自然環境は壊滅的な打撃を受けると思われ、南部九州を防衛する第40軍(鹿児島・熊本)、第57軍(鹿児島・宮崎)の『はりつけ師団』こと沿岸配備師団4個および、陸海軍の飛行場も壊滅します。

それに対し日本軍は『決号作戦』(九州)を発動、九州各地および四国・中国地方で温存されていた航空隊や小型潜航艇、特攻艇などが一斉に攻撃を開始、瀬戸内海に残る駆逐艦など水上艦艇も最後の出撃を行いたいところですが、燃料欠乏や機雷封鎖で無理かもしれません。

11月1日にはいよいよ連合軍(といってもほとんど米軍)の上陸が始まり、上陸地点での直接航空支援に重点が置かれた影響で復旧した飛行場からも特攻機が引き続き出撃。
それまで迎撃戦闘や反復攻撃のため特攻に加わらなかった飛行機も、飛行そのものが困難になるため全て特攻出撃になって、故障した上に敵機から逃れられたわずかな生き残り以外は還ることも無いでしょう。

そして、『はりつけ師団』の残余と陸海軍飛行場の地上員や乗る飛行機の無くなった搭乗員、地元住民による国民義勇戦闘隊が、それぞれ連絡も取れないまま生き残った最上級者に従い突撃、あるいは進撃してきた連合軍との遭遇戦を始めます。

1945年内の九州南部制圧を目指し、連合軍北上す

ありとあらゆる戦力が軍民問わず連合軍上陸部隊によって叩きつけられる修羅場の中、最前線の第40、第57軍司令部による戦況把握は困難を極めるはずです。
上部組織の第16方面軍(九州防衛担当・司令部は福岡県二日市村)は偵察機やあらゆる通信手段の確保に努め、方面軍直轄の機動防御師団3個などを前進させ、これに呼応した各軍の残存部隊や国民義勇戦闘隊と共に、内陸部での遅滞防御戦闘に移ります。

これに対し、連合軍はアメリカ陸軍およびアメリカ海兵隊だけでも合計16個師団に達し、オーストラリア、ニュージーランド、インドを含むイギリス連邦諸国軍も加わって、日本軍の戦線は各所で分断、『線』ではなく『』の維持が精一杯。
』である陣地や山間部に立てこもる日本軍側からは、軍民混成の遊撃隊が爆薬と竹槍で突撃し、次第に数を減らしつつも連合軍地上部隊に安易な全身を許さない事が期待されます。

連合軍側も九州南部の占領はあくまでその後の関東侵攻(コロネット作戦)のため飛行場や艦船の泊地を確保したいだけなので、この時点では無理押しをせず、必要な飛行場が確保できれば後はその周辺の防御を固め、遠距離攻撃の可能な砲兵制圧が重点に。
その後も南下してくる第16方面軍残余(九州北部防衛担当の第56軍はほとんどが『はりつけ師団』や要塞部隊なので動かない)や、南部で抗戦を続ける部隊を消極的に迎撃しつつ、基地機能の強化を図っていくでしょう。

日本側も11月中はあらゆる戦力を叩きつけますが、おおむね年内一杯を境として『自活持久戦による可能な限りの兵力拘束』に移ると思われます。
弾薬燃料の欠乏、交通手段破壊による部隊移動困難もありますが、日本側では傍受した通信内容の分析から連合軍側の予定をおおむね正確に予想しており、真の決戦は1946年3月、関東平野で帝都・東京を中心に行われるものと了解しているからです。

兵力や物資の移動を阻止すべく投下され続ける原子爆弾

そのため、九州南部だけでなく九州北部も現地自活が求められ、最後の海外航路となる朝鮮半島からの物資輸送は山陰地方の港に陸揚げされ、鉄道輸送による必死の努力で関東地方に送られるようになるでしょう。
もっとも、その途上にある交通の結節点となる都市が、3発目以降の原子爆弾でもまだその機能を維持できればの話であり、関西・東海・新潟にある各大都市は8月下旬以降に原子爆弾で壊滅した可能性が高くなります。

問題は九州南部の戦場で原子爆弾が使われたかどうかですが、威力過大なため上陸後よりその直前に使用、進撃した連合軍兵士も含めた調査で放射性物質による被害が短期間で明らかとわかれば、以後は防護戦闘服や除染方法が確立しない限り戦場で使われないかもしれません。

ただし、その前に何発目かの原子爆弾で日本側もいよいよ戦争継続が無意味と考える可能性がありますし、あるいはオリンピック作戦・コロネット作戦が行われる状況では、原子爆弾の開発が失敗または遅延している世界かもしれない、と付記しておきます。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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