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2018/04/2

菅野 直人

まだ飛んでた!?第2次世界大戦で活躍した複葉機

第2次世界大戦で活躍した飛行機といえば? 全金属製単葉機。中にはジェットだのロケットだので飛ぶやつが既に実戦で登場していましたね。

関連記事:第2次大戦に間に合った!?最初期のジェット戦闘機

2枚羽根の複葉機なんかはしょせん第1次世界大戦の産物、そんな旧式機はあったとしてもせいぜい後方任務で……え? 第一線で活躍してた? 今回はそんな“第2次世界大戦の第一線で活躍した複葉機”をご紹介します。

“マルタの英雄”グロスター グラディエーター(英)

Gloster Gladiator 1.jpg
By Kogo – photo taken by Kogo, CC 表示-継承 3.0, Link

第2次世界大戦が始まった1939年9月、イギリス空軍はドイツとの戦争近しと見て大急ぎで近代化を進めていました。
その甲斐あって、構造的にはやや旧式ながら立派な単葉引き込み脚戦闘機ホーカー ハリケーンや、もっと近代的で高性能なスーパーマリン スピットファイアといった新型機が戦闘機隊の大多数を占め、翌年の英本土防空戦で大活躍します。

しかし、それ以前にはフランス戦でもかなりの消耗を強いられたイギリス空軍は、世界中どこでも最新鋭とはいきません。
ましてや、ハリケーン(1935年初飛行)よりちょっと早く飛んだだけのグロスター グラディエーター(1934年初飛行)なら、性能は確かに劣るものの武装は7.7mm機銃が4丁あるし、ちゃんとキャノピー(天蓋)のついた密閉式風防だし……と、それなりには近代的。

ならばというわけで、大戦初期にはヨーロッパを中心に世界のアチコチでグラディエーターや、その艦載機型シーグラディエーターが使われておりました。

ハリケーンやスピットファイア登場後はイギリス空軍で旧式機扱いになったもんで、輸出にも精を出しており、中には日中戦争中に中華民国空軍機が日本海軍機を撃墜した記録すら残っています。
イギリス空軍でも1940年7月にバトル・オブ・ブリテン(英本土航空決戦)が始まると、最新鋭機の消耗は激しい上にドイツ軍機が工場まで爆撃していくので全く余裕が無くなったので、ますますグラディエーターのような複葉機も頑張らなければならなくなりました。

特に地中海の要衝、マルタ島では同年6月に参戦したイタリアが攻めて来るのをたった3機のシーグラディエーターが迎撃して守りきった! という英雄的エピソードも残しています。
(3機しか無かったわけではなく、戦闘機パイロットも不足してマルタ島には3人しかいなかった)

“ゲタ履き万能機”零式水上観測機(日)

佐世保航空隊の零式観測機
By Imperial Japanese Navy – http://www.go2war2.nl/picture.asp?pictureid=303, パブリック・ドメイン, Link

戦艦や重巡洋艦が遠距離砲戦を行う際、あまり遠いと天候や砲煙で視界は悪いですし、敵艦の手前に砲弾が落ちれば、当然その水柱でその向こうが見えなくなります。
そこで、艦上からではなく空中から砲撃戦の弾着を観測し、その結果を送信して砲撃精度を高めよう、空母がいるとは限らないから砲戦を行う艦が自ら搭載し、カタパルトで発進して帰りは海上に着水させてクレーンで収容……というのが、水上観測機です。

これだけ聞くとそれほど尖った性能は求められませんし、大事なのは一定の速度で安定して長時間飛行する能力と、弾着観測のための良好な視界くらいに思われます。

しかし、日本海軍で1940年に採用された零式水上観測機、通称“零観(ゼロカン)”は、零戦(零式艦上戦闘機)と同期なことからもわかるように近代的な構造やエンジンを持っており、空中戦や爆撃までこなすことから、複葉で速度がやや遅いのを除けば一種の万能機でした。

太平洋戦争では戦艦どころか重巡洋艦の遠距離砲戦すらほとんど行われなかったことや、飛行場設営能力のあまり高くなかった日本軍にとって、静かな水面さえあればそこから発着できる水上機は戦力として有効だったので、零観も多数が実戦投入されます。

空中戦では戦闘機並とはいかないまでも、爆撃機や偵察機を迎撃、あるいは妨害するくらいはできたので、二式水上戦闘機とともにアリューシャン列島のキスカ島や、南方のソロモン戦線で輸送船の上空援護や、時には敵地への爆撃まで活躍しました。

戦争末期になっても生き残った機体は日本本土で使われましたが、中には3号対空爆弾を搭載してB-29の迎撃に参加した機体すらあったと言われます。
遠く敵地を爆撃に来て、複葉ゲタ履き機を目撃した最新鋭爆撃機の乗員は、どんな気持ちだったでしょうか?

“真面目に再生産を検討”ヘンシェルHs123(独)

飛行中のHs 123
By 不明 – British Air Ministry file “AIR 40/122”, scanned from Staerk, Christopher; Sinnott, Paul: Luftwaffe. The Allied Inteligence Files. Potomac Books, Washington D.C., 2002. p. 115. ISBN 1574885375, パブリック・ドメイン, Link

第2次世界大戦で活躍したドイツ空軍の急降下爆撃機と言えば、主翼に装備したサイレンを鳴らしながら降ってくるユンカースJu87“スツーカ”ですが、その1世代前の機体がヘンシェルHs123です。

1936年に採用されたものの、翌年にはJu87も登場したため1938年までの短期間のみ生産、大戦開始時には既に旧式の訓練機扱いでしたが、1941年に対ソ戦が始まると、信頼性の高い攻撃機としてHs123が再評価されます。

フランス戦やバトル・オブ・ブリテンまでドイツ軍が戦った戦場とは異なり、設備は貧弱、荒れた短距離の滑走路しか無い前線飛行場ばかりが多い東部戦線では、旧式とはいえいつでも近くから飛んできて、銃撃や爆撃してくれるHs123が非常に重宝されたのです。

いわば今で言うCAS(近接航空支援機)、あるいは対ゲリラ戦用のCOIN機、攻撃ヘリなどの先駆的存在したが、何しろ戦前のわずかな期間のみ生産しただけの“レアもの”でしたから、戦争が進むに従って損耗してくると戦力不足に悩まされます。

そのため、「なんでこんないい飛行機を生産終了したんだ今からでもいいから再生産しろ!」という前線からの悲鳴が上がり、深刻さを認識した空軍上層部もヘンシェル社に再生産を打診したのですが、残念そのための治具は既に廃棄済み。

仕方が無いので新型機やJu87改造型などで対応することになりますが、残り少なくなったHs123はその後も重宝されつつ実戦で使われ続け、1944年春頃まで運用、というより損耗しきったそうです。
戦争を始める時には、何が役に立つかわからないので多少古い兵器でも再生産の準備くらいしておいた方がいいという好例ですね。

“1940年に攻めてきちゃダメ”フィアットCR42ファルコ(伊)

Fiat CR.42 aka J11.jpg
CC 表示-継承 3.0, Link

単葉(一枚羽根)の戦闘機が新世代の戦闘機として続々登場した頃、複葉(二枚羽根)の戦闘機は第1次世界大戦の頃より速度や格闘戦能力が向上しており、最新技術を投じればまだ高性能化の余地はありながら、信頼性や実績も豊富で頼りになる存在でした。

とはいえ、将来性を考えれば単葉機を真面目に開発して主力戦闘機に育てた方がよく、実際そうした国の方が多かったのですが、もうひと押しとばかりに1939年に最新鋭複葉戦闘機CR.42を初飛行させてしまったのが、イタリアのフィアット社です。

もちろん性能は良く、運動性能も高かったのでアクロバット飛行……否! 格闘戦能力マニアのイタリア空軍パイロットはCR.42を歓迎し、1940年6月にイタリアが枢軸国側で参戦するや、CR.42も勇んで出撃していきます。
驚いたのはイギリス空軍で、地中海の田舎、例えばマルタ島あたりに飛んでくるならともかく、7月に始まった最新鋭機の激戦区、バトル・オブ・ブリテンにまでCR.42が飛んできたものですから、目を丸くしました

もっとも、ハリケーンやスピットファイアで連日最新鋭ドイツ戦闘機、メッサーシュミットBf109と戦っていたジョンブルや各国の亡命空軍、義勇飛行隊などのパイロット達にとっては、CR.42などフワフワ浮かんでいるカモに過ぎません。
たちまち蹴散らされたCR.42はさすがに2~3度の出撃で英本土上空からは引っ込められましたが、北アフリカなど田舎の戦場ではその後も長らく使われ続けました。

それどころか、ドイツのダイムラー・ベンツ社製高性能エンジンDB601を入手したフィアットは、それを新型機ではなくCR.42へウキウキしながら搭載、改良型CR.42Bは最高速度520km/hを記録して“世界最速級の複葉機”となります。

しかしそこでさすがのイタリア人も「だから何なんだ?」という事実に気づいたのか新型機を真面目に作るようになりましたが、その後も戦争を生き延びて練習機に改造されたCR.42は1950年まで使われていたそうです。

“タラントの栄光よ永遠に”フェアリー ソードフィッシュ(英)

ダックスフォード 2002 航空ショーにて
By Mr. Peter Noble from UK Flying Displays and Museums[1], CC 表示-継承 3.0, Link

第2次世界大戦で活躍した水上機はあまたあれど、それが世界の戦争史上空前の成果を上げたとなると、おそらくイギリス海軍のフェアリー ソードフィッシュの右に出るものは無いでしょう。

1934年に初飛行したこの複葉艦上攻撃機は、第2次世界大戦が始まった時でさえ既に旧式機であり、その後も使われ続けたのはアルバコア(これも複葉機)やバラクーダ(これは変な飛行機)といった後継機が失敗作、いわゆる駄作だったからにほかなりません。

しかし戦争しているからには敵がおり、敵がいるからには出撃しなくてはならないのが世の定め。
1940年11月、最新鋭空母イラストリアスから飛び立った21機のアークロイアルは2波に分かれ、イタリアのタラント軍港を夜間に奇襲攻撃、雷撃と爆撃を加えて戦艦3隻に魚雷が命中、1隻は沈没しかけて浅瀬に座礁、他の2隻も大破させる大戦果を上げました!

いかに練度未熟なイタリア海軍、それも油断しきっていた夜間の停泊中とはいえ、飛行機が実戦で戦艦を撃沈(実際には座礁させて沈没を防ぎましたが)したのはこれが史上初です。
翌年、日本海軍が行った真珠湾攻撃もこのタラント空襲を参考にしたと言われたほどの冒険的攻撃によって、ソードフィッシュの名は戦史に深く刻まれました。

その後もソードフィッシュは戦い続け、1941年5月にドイツ戦艦ビスマルクが出撃した際の戦いでは、追撃戦で空母アークロイヤルの搭載機が魚雷でビスマルクの舵を破壊することに成功し、同艦の運命を決める大活躍をしています。

さすがに敵の強力な対空砲火や戦闘機が待ち受ける戦場向きでは無かったものの、それ以外では小型低速の護衛空母や、商船の船上に飛行甲板を貼っただけのMACシップでも容易に運用でき、海が大荒れでも発着できたので、大西洋航路の護衛では大いに役立ちました。

戦争末期にはなんとレーダーを搭載、探知したUボート(ドイツ潜水艦)をロケット弾で攻撃するなど複葉機らしからぬ運用が行われ、終戦まで第一線機として活躍。
現在でもイギリスの航空ショーではユニオンジャックの旗をなびかせるソードフィッシュがスピットファイアやハリケーンなどとともにデモフライトを行っており、旧式複葉機でありながら“イギリスの誇り”として飛び続けています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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