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2017/10/15

菅野 直人

早くしないと戦争終わっちゃう! 日本軍最後の「五式」兵器5選

1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ日本の敗戦が決定します。しかし、そこまでの8か月間、全力で戦うべく開発が続けられ、最後の最後に実戦投入された兵器がありました。戦局には影響を及ぼさなかったものの、皇紀2605年に制式化されたことを示すこれら「五式」兵器は、日本が最後まで戦った日々の証人でもあるのです。

五式四十粍高射機関砲(陸軍・海軍)

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パブリック・ドメイン, Link

五式四十粍高射機関砲のベースとなったボフォース40mm機関砲

主にアメリカ海軍の艦艇に装備され、その射程や威力から日本軍の攻撃隊や特攻隊を防ぐ弾幕を張るのに大きな役割を果たした、ボフォース40mm機関砲。戦争初期には既にイギリス軍がマレー半島で使用したものを日本陸軍が鹵獲しており、非常に優れた能力を持つことは認識されており、早速コピー生産することになりました。

しかし、当時の日本の生産技術力では国産化が難しく、ようやく国産砲が完成したのは1945年と終戦直前。「五式」四十粍高射機関砲として採用はされたものの、陸軍用として完成したのは同年5月にわずか2門のみ

そもそも調達予定がわずか110門、1945年中の生産予定は35門でしたから焼け石に水もいいところで、そもそも優先度が低かったのかもしれません。一方、海軍でも採用されてこちらはもう少し真剣だったのか、艦艇用および陸上拠点防衛用として35門を生産、神島級敷設艇に搭載されました。

ただし同級の完成は1番艇の神島が同年7月、2番艇の粟島に至っては戦後1946年4月に復員輸送艦として非武装で完成したため結局実際に装備したのは神島のみで、実戦には一度も使われず終わっています。
終戦直前に計画され、一部は起工された海上戦闘艇「海防艇第一号型」「同第百一号型」へも搭載予定でしたが、こちらも一隻も完成することなく終わりました。

五式雷撃艇 / 五式砲撃艇(陸軍)

雷撃艇とはすなわち魚雷艇で、一見海軍が作りそうでもあり実際作っていたのですが、実は海上高速艇の研究は陸軍の方が熱心で、優れた高速舟艇を生産しており、こうした小型艇を使って陸軍独自の魚雷艇「五式雷撃艇」が作られました。

武装は水面上をロケット推進で滑走する「簡易魚雷」と称する滑走兵器で「魚雷」というよりロケット弾に近い者でしたが、これを2門装備。

ほかに20mm自動砲1門と20連装ロケット弾発射機を装備した五式砲撃艇があり、自動車用エンジン(詳細不明)3基で22~24ノットを出す予定でしたから、わずか3トン足らずの小艇としてはまずまずの高速です。

本土決戦の時には上陸部隊をこれで襲撃する予定だったと思われますが、1945年6月に試作艇が完成したのみで、量産まではされませんでした。

五式三十粍固定機銃(海軍)

Navy Type 99-1 fixed.JPG
By R.C.Mikesh. Japanese Aircraft Equipment. — Schiffer Military History, 2004. ISBN 0-7643-2097-1, パブリック・ドメイン, Link

九九式二〇粍機銃
防弾装備が強力かつ頑丈で、特に爆撃機など大型機は零戦などが装備する20mm機銃(九九式二〇粍機銃)でもなかなか撃墜困難なことに手を焼いた日本海軍では、機銃(機関砲)の大口径化に着手します。

まずは単純に九九式二〇粍機銃のサイズアップで30mm機銃化した「二式三十粍固定機銃」を開発してラバウル航空隊の零戦に装備されて一撃で敵機を四散させるなど好結果を出しました。

それを踏まえてより大威力化したものが五式三十粍固定機銃で、対爆撃機用大型機の斜銃(機体前方斜め上に向け、敵機下方から並行に飛びながら連続射撃を可能にした銃)としては反動が大きすぎたものの、小型戦闘機の主翼に固定する機銃として実用化されています。

局地戦闘機(迎撃戦闘機)「雷電」のエンジンを高高度ように換装、視界を改善した決定版「雷電三三型」の一部に五式三十粍固定機銃が2門装備され、厚木基地で東京防空を担当した第三◯二航空隊などへ配備されました。

ただし、その配備が始まった1945年5月には硫黄島から飛来する米陸軍のP-51戦闘機や、米海軍機動部隊のF6F戦闘機との空戦も頻繁に起きてB-29の相手ばかりもしておれず、対戦闘機戦闘では重要や発射速度の面で不利な五式三十粍はあまり歓迎されなかったようです。

川崎キ-100 五式戦闘機(陸軍)

イギリス空軍博物館に展示されている五式戦一型(キ100-I)
パブリック・ドメイン, Link

川崎航空機(現在の川崎重工業航空宇宙カンパニー)が開発したキ-61 三式戦闘機「飛燕」はドイツのダイムラー・ベンツ製液冷エンジンDB601の国産版ハ40、およびその発展型ハ140を搭載していました。
 
しかし、ドイツと比べて生産技術、整備技術に劣る日本ではこのエンジンを扱いかね、特に生産能力の不足で機体が完成してもエンジンが間に合わない「首無し機」が多数生まれてしまいます

そこで余った機体を有効活用すべく量産体制が整い在庫も多数あった空冷エンジンハ112IIに換装したところ、冷却関係の装備が無くなった分だけ軽量化されてむしろ最高速度以上の性能は飛躍的に向上

急増戦闘機でありながら上昇力や空戦性能は日本屈指、しかも信頼性は高いと言う事なしで1945年2月の初飛行直後に量産が決定され、急速生産で部隊配備されたそばから実戦投入されて大活躍しました。

それだけに最初から三式戦がこの形であれば、と惜しむ声が多かったほどの「遅すぎた名機」とも言われています。なお、戦争末期の混乱で実際に「五式戦闘機」として制式採用されたかは定かではなく、現場では「キ-100」と呼ばれていたそうです。

また、排気タービン(ターボチャージャー)を装備したキ-100IIも開発され、日本の排気タービン装備機としては例外的に大きな問題が生じず、これも試作で終わったことが惜しまれています。

五式十五糎高射砲(陸軍)

五式15cm高射砲.jpg
パブリック・ドメイン, Link

B-29による本土爆撃に対し、高高度爆撃には高高度性能不足、夜間低空無差別爆撃にはレーダーの欠如で戦闘機隊が大きな戦果を上げられない中、陸海軍の高射砲はドイツなどより数が少ない割に善戦しました。

しかし、より正確で大威力な高射砲を求めた陸軍は、国産化に成功したドイツの「ウルツブルグ」射撃管制レーダーと連動した大型高射砲の開発に着手
「五式十五糎高射砲」として1945年に採用され、生産されたのはわずか2門でしたが、久我山高射砲陣地(現在の杉並区久我山)に配備されました。

目標捕捉から射撃まで全て地下指揮所から操作可能な、当時としては非常に高度な技術を持つ完全レーダー管制射撃が可能な高射砲で、1945年8月1日(または2日)に最初で最後の対空射撃を行っています。

この時期に米側では川崎を爆撃した2機のB-29が対空砲火で大破、硫黄島に不時着した記録が残っており、これが五式十五糎高射砲の戦果であれば、唯一の射撃で2機のB-29を撃破したことになりますが、日本側記録とは日時が異なっており、真偽は定かではありません。

終戦前後の混乱期に日本が残した「伝説」のひとつに過ぎないとも言われていますが、1945年8月という終戦直前の最後の最後、高高度飛行するB-29にも有効な高射砲を実戦配備していたことだけは、事実です。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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