• TOP
  • 忘れられた兵士・遊兵はどう生き延びたかエピソード5選

2017/08/22

菅野 直人

忘れられた兵士・遊兵はどう生き延びたかエピソード5選


太平洋戦争中の日本軍は圧倒的な連合軍の戦力で「玉砕」してしまう部隊が多かったのですが、そうした部隊でもわずかに生き残った兵士がたくましく生き延びて戦後内地に帰還、戦死したと思っていた「遺族」を驚かせることもわずかですがありました。

そうした兵士たちは、どうやって生き残ったのでしょうか?

1.煮炊きは基本的にローソクで


戦場における個人用炊事用具の定番と言えば「飯盒(はんごう)」で、現在でもアウトドアなどで活用している人は多いと思いますが、太平洋戦争当時に使われていたものも、現在の鉄製飯盒と基本的には変わりません

これで部隊単位で食事の配給があれば食器替わり、部隊全滅で散り散りになった後は個人的に煮炊きをするための炊事用具になりましたが、問題は「火」です。

平時ならともかく戦時、しかも周囲に敵がウヨウヨいるような状況ですから、何かを燃やして高々と煙を上げるわけにはいきません。

そのため多用されたのが何本もローソクを立てた「ローソク炊飯」で、残された物資からローソクを確保していた兵士なら、虫眼鏡や双眼鏡などのレンズを使ってローソクに火を点け、それでタロイモ(山芋の一種)などを煮て食べることが多かったようです。

2.畑は見つかるので主に狩猟


さて、煮炊きはできるとして食材ですが、ちょっとここには書けないような、極限状態でも無ければ食べないようなものばかり食していたわけではありません。

そうした「食べられるもの」は栄養分の摂取はともかく空腹感を満たしませんし、ある程度バラエティが無ければメンタル面にも影響します。そこで動植物も可能な限り食べていたのですが、小さな島ならヤシの木から実を取ろうにも艦砲射撃や爆撃であらかた吹き飛んでいますし、ニューギニアのような大きな島には畑がありますが、大抵は住民のものですから、いらぬ恨みを買って連合軍に通報されたりします。

そのため自力で開墾して畑を作るようなケースもありましたが、個人や少人数レベルで分散してしまうと、畑を自力で維持するのも大変ですし、せっかく作った畑も敵に見つかれば逃げてしまい水の泡。

そのため多用されたのが狩猟で、島の沿岸部の場合は爆薬があれば爆発時の衝撃波で、敵が近くて使えない場合は釣りなどで魚介類を獲っていました
山中などでも同様に罠を仕掛けたり、あるいは動物相手に巧妙なトラップを仕掛け、通りかかった猪などを自動で発砲する小銃で仕留めています。

その後は最初に煮炊きするものを除けば干物にするところですが、中には独自でハムの製造に成功し、かなり栄養状態が良好だったために他のゲッソリとやつれた友軍と会っても、あまりに元気すぎて幽霊と間違われ、逃げられることもあったそうです。

3.毎日やり投げの特訓


そうやって食料の確保が何とかなれば、次はどうするかと言えば特にすることが無かったりします

何しろ部隊は壊滅、命令を出す上官はいませんし、個人や少人数で武器を取ったとしても、どこの何を攻撃するべきかわかりませんし、だからと言って降伏してはいけないと言われていますし、実際捕虜になったら何をされるかわかりません。

そこで「生活」に張りを持たせるべく行われたのが鍛錬で、ある兵士はやり投げに挑戦、特に目的も無かったので日課の運動のつもりでやっていたのですが、最終的には50m以上先の的に百発百中の腕前になったとか

4.敵基地に泥棒に入る


ここまでは比較的「自活」に成功した兵士のケースですが、そこまで自活が可能な環境が無いケースもありました。

まだ組織としての部隊が残っているうちは、武器を使って敵基地に夜襲をかけたついでに食料も強奪する場合もありましたが、個人や少人数、それも武器もロクに無いとなればそこまで大胆にはなれません。そこである兵士の場合、夜襲ではなく普通に泥棒に入るようになりました。

「敵基地」とはいっても既に当地の日本軍部隊は壊滅、夜襲に怯えていた日々も過ぎてすっかり後方のノンビリした駐屯地のようになり、警備などもおざなりです。そうした基地にまんまとハマれば缶詰などは盗み放題で、それでコンビーフやパイン缶など結構食いつなげたと言われます。

もっとも、あまり派手に盗み過ぎるといつかバレるもので、せっかくの「飯場」を去らねばならないことも珍しくは無かったそうですが。

5.映画は敵基地で鑑賞


敵の基地に泥棒に入って盗めるものは食料ばかりと限りません。

さすがに武器弾薬の類は警備が厳重だったようですが、衣服の類はそうでも無く、頭からつま先まで連合軍(米軍やオーストラリア軍)の衣服で身を固めることすら不可能ではありませんでした

そこまでいくと「どうせ一度は死んだ身だし」と大胆になるのか、もはや慣れと言うべきなのか、ある日本陸軍の兵士はよほど米陸軍航空軍の被服で体に合う組み合わせを見つけたようで、パイロット姿で敵基地に正門から堂々と潜入していたとも言われます

しかも、その基地で夜間に上映していた映画も米兵の列の後ろから堂々と鑑賞してきたそうで、終わればまた密林の中に消えていくとはいえ、何とも文明的な「生活」でした。

上映されていたニュース映画などで戦争の行く末をある程度理解していた兵士もいたようですが、それでもさすがに日本が無条件降伏するとまでは考えていなかったようです。

1945年8月15日(玉音放送が流れて事実上第2次世界大戦が終わった日)に基地や停泊していた艦艇から花火のように高射砲などが打ち上げられ歓声が上がった時には、「たぶんドイツでも降伏したのだろう」と日記に書き記していた日本兵もいました

もちろん悲惨な末路をたどった日本兵も多い中、太くたくましく生きていた日本兵もいたという今回のお話ですが、あくまで自伝や伝聞の類ですから、ある程度は誇張があったかもしれません。

しかし、全滅したはずの戦場から戦後何年も、場合によっては何十年も経ってから帰還した日本兵がいたのは、事実です。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

この記事を友達にシェアしよう!

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

サバゲーアーカイブの最新情報を
お届けします

関連タグ

東京サバゲーナビ フィールド・定例会検索はこちら
東京サバゲーナビ フィールド・定例会検索はこちら

アクセス数ランキング