- コラム
なかなか終わらなかった「戦後」陸自61式戦車
2017/02/20
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/08/1
菅野 直人
地上における力の象徴、戦車。その中でも圧倒的な巨大さで相手を威圧する存在が「超重戦車」です。もっとも、あらゆる敵の攻撃を跳ね返し、大火力で敵をなぎ倒す目的で施された装甲や火力が逆に弱点となり、大抵はロクに走れもせず役に立たないのですが……
By my late grandfather – original negative of image taken by my late grandfather, CC 表示-継承 3.0, Link
第1次世界大戦中に開発されながら、現在でも世界最大の超重戦車。
69tもの重量は第2次世界大戦中にドイツのティーガーIIがそれを上回りましたが、塹壕を超えるための尾ソリを加えれば12.2m(無くても10.185m)に達する全長は、後の重戦車群でそれに匹敵するものがありません。
主砲の75mmカノン砲と4丁の8mm機関銃による当時としては大火力を誇り、250馬力のガソリンエンジン2基で発電した電気を使いモーターで駆動するハイブリッド動力でしたが、最高速度が15km/hという鈍足では図体がでかいだけの移動トーチカにしかならず。
開発中からさすがに用途があるのか疑問視され、10両しか作られませんでした。
しかし、第2次世界大戦時にもまだ使われており、ドイツ軍のフランス侵攻に際しても引っ張り出されて出撃します。しかしデカイ重い遅いと扱いにくい上に、列車輸送にモタついている間に線路を破壊されて列車が走行不能、移動も列車から降ろすこともできずに最後は自爆して終わったのでした。
一応原型の残っていた車両がドイツに捕獲されて修理の上で展示され、その後対戦車兵器の実験標的として使われたそうです。
By Photographer not identified. “Official photograph”. –
This is photograph KID 109 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 6000-02)
, パブリック・ドメイン, Link
「主砲の他に副武装で周囲を掃射しまくると、敵は手も足も出ないよね?」
というわけで一時期流行った「多砲塔戦車」の先駆け。
主砲の3ポンド砲(47mm砲)を全周旋回可能な「主砲塔」に収め、その周囲に7.7mm機関銃を収めた「副砲塔」4基をグルリ取り囲むように配置したのでした。
47mm砲で敵の戦車やトーチカなどを破壊しつつ、歩兵の類は機銃で撃ち倒そうという、それだけ聞くとうまくいきそうなコンセプトですが、複数の砲塔を積むとそれだけ重くなるうえに十分な装甲も施せないのが玉にキズ。
結局、戦間期(第1次と第2次世界大戦の間)で予算も無かったこともあり、試作止まりで終わったものの、何か強そうだったので同種の戦車がいくつかの国で作られるキッカケとなりました。
インディペンデント重戦車の影響を受けた各国の多砲塔戦車の中で、戦間期の不景気から影響を受けなかったので唯一マトモに開発続行、量産や配備までしたのがソ連。
T-35重戦車はT-28中戦車とともに開発され、76.2mm戦車砲を搭載した主砲塔1基、45mm戦車砲を搭載した副砲塔2基、7.62mm機関銃塔2基の計5基を搭載。
しかし、機動力や防御力、乗員数が多すぎる上に視界が限られる各砲塔の連携も取りにくいと多砲塔戦車の欠点は変わらず、しまいには同志スターリン書記長からまで「キミたちはいつまで、戦車の上に百貨店を作るのかね?」と嫌味を言われる始末。
それでも独ソ戦初期に投入されたT-35はT-28ともども大損害を出しながらもモスクワの戦いまで生き残って戦い、一応「大祖国戦争の勝利に貢献」した形にはなりました。名戦車T-34やKV-1の数が充実するまで、ソ連も戦車はずいぶん試行錯誤したものです。
By derivative work: Fangz (talk)
Munster_Maus_Modell_(dark1).jpg: Darkone – Munster_Maus_Modell_(dark1).jpg, CC 表示-継承 2.5, Link
おそらく超重戦車でもっとも有名かつ、その欠点の典型的なま例を示したのがナチスドイツのマウス。
「とにかく敵のあらゆる装甲を食い破る大口径砲と、敵のあらゆる攻撃を跳ね返す重装甲を施せば、絶対勝てる!」
という非常にわかりやすいコンセプト、というかヒトラーの好みで開発され、モックアップ(実物大模型)を見たヒトラー総統に「これだけ立派な戦車には128mm砲でも小さいくらいだ!」と、もっとデカイ大砲を積めと無茶を言われました。
軍部としてはさすがに「そんなの作ってるくらいなら、普通の戦車をよりたくさん配備した方がマシ」と総統を説得することにして、たった2両で生産中止。
ただし1945年になって敗戦目前、ヤケクソになったヒトラーから生産再開が命じられましたが、180トン以上の重量でどのみちマトモに走らないことですし、移動トーチカとしてなら使いでがあると思ったのでしょうか。
もちろん再生産など実現せず、唯一砲塔を搭載して完成状態にあった2号車はベルリン防衛戦のため出撃したものの故障して爆破放棄。
その後、無傷だった車体のみの1号車に、2号車の原型をとどめていた砲塔もソ連軍に捕獲され、両者を組み合わせて完全体の1号車が現在もクビンカ(ロシア)の戦車博物館に展示されています。
By Staff Writer – Militaryfactory.com, CC 表示-継承 4.0, Link
従来説のオイ車の想像図
極秘に近い開発体制とも私命で開発されたとも、開発時期も1930年代末から1945年まで諸説ある謎の超重戦車。
実在して走行試験も行われ、満州に送られるか本土決戦のため埋めて使われる予定だったなどと言われており、総重量も100トンから120トン、最大で150トン説まであり。
主砲は105mmカノン砲か150mm榴弾砲を搭載する予定だったとも言われています。
いずれにせよ重すぎて走行性能は劣悪、鈍速なだけでなく履帯幅が狭いので接地圧が非常に高く、動かすと地面にメリこんでいき、最後は腹がつっかえて動かない、転輪の作りが重量に耐え切れず次々に脱落するなど、戦車としてどうこうという以前の代物だった模様。
「日本軍が全力を投じて作ったコントの大道具」のような戦車ですが、そんな戦車を作っている手間暇や資源があれば、マトモな戦車をもっと作れたのでは……?
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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