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2017/06/3

菅野 直人

キスカ島奇跡の撤退(完)「本日ノ天佑我ニアリト信ズ」

米本土に近い北の最果て最前線、キスカ島。背後のアッツ島を占領されて退路も補給路も絶たれ、絶体絶命に陥ります。間もなく行われるであろう米軍の上陸作戦でアッツ同様全兵玉砕必至の中、日本海軍第五艦隊による最後の救出作戦が始まりました。

全般状況

「ケ号作戦」を発動し、まずは潜水艦によるキスカ守備隊へ最低限の補給と傷病者後送から始まりましたが、既に同島海域の制海権・制空権を失っている中で数隻の潜水艦を失い、一旦作戦を打ち切ります。

しかし、アッツ救出を断念する見返りにキスカ撤退を約束していた日本海軍はあきらめず、ついに北方警備担当の第五艦隊全力で一気に守備隊を撤収する作戦に切り替えたのでした。

しかし、1回目の作戦は天候が良すぎ、突入条件である濃霧が発生しなかったため断念。内地に残る燃料は少なく、救出部隊の全力出動が許されるのはあと1回こっきり。

気象予報を睨みつつ、いよいよ1943年7月22日、最後の救出艦隊が出撃しました。

米軍のキスカ上陸予定日は8月15日。
既にキスカ島周辺の海域は封鎖され、7月23日には日本艦隊発見の報を受けた米軍は戦艦2隻、重巡洋艦3隻を基幹とする艦隊を出撃させています。

対する日本側第五艦隊は軽巡3隻、駆逐艦11隻。
キスカ島でひたすら救出を待つ、5,200名の残留守備隊員の運命や、いかに。

濃霧の中、幻の海戦


幌延の気象台が出した予報の通り、7月25日には濃霧が発生、日本側救出艦隊はこれに乗じてキスカ島に接近、霧中標識すら見えない中での艦隊行動は困難を極め、衝突事故で駆逐艦1隻が脱落したものの、進撃を続けました。

一方、翌26日には米戦艦ミシシッピのレーダーが目標を探知、夜間濃霧の中でただちにレーダー射撃で砲戦を開始。

キスカ島守備隊も、夜中にいきなり近海で猛烈な砲声を聞き発砲炎を目撃、海戦の発生を知りましたが、それが終わっても救出艦隊が現れません。

海戦後に漂着した残骸などはどもう全て米軍のもので、海戦自体は日本が勝ったと思われたものの、救出艦隊が来ないのはどうしたものかと首をひねっていました。

それもそのはず、この「海戦」は米艦隊が誤探知した目標に仕掛けたもので、何も無い海域に向かって砲撃および突撃、無駄に燃料弾薬を浪費しただけだったのです。

晴れ、のち濃霧

その頃、救出艦隊たる一水戦(第五艦隊第一水雷戦隊)はまだキスカに到達していませんでした。
それどころか、周辺海域に到着した7月28日は快晴で、このままでは濃霧に紛れて突入できません。

やむなく待機していたものの、一水戦司令部気象班、キスカ守備隊、周辺を哨戒していた潜水艦いずれからも「29日は間違いなく濃霧」と連絡が入り、一水戦司令官の木村昌福司令官も「本日ノ天佑我ニアリト信ズ」と腹を固めます。

いよいよ29日1200時、キスカ湾へ突入。
しかし、今度は霧が深すぎ、なかなか湾内に入っていけません。

艦影に気づいていたキスカ守備隊は誘導のためビーコン波を送るなど必死になりますが、その時、守備隊の電探(レーダー)から探知報告が上がるとともに、爆発音が2度轟きました。

すわ?敵艦による襲撃か?!

キスカの奇跡


これは小島を敵艦と誤認した一水戦旗艦・軽巡「阿武隈」と駆逐艦「島風」が魚雷を発射したもので、そのうち2発が起爆したものでした。

しかし、その時奇跡が起こります。

爆発の直後、気圧の変化によるものか濃霧が上空に向かって移動、キスカ湾のみ見事に晴れ渡ったのです。爆発後の海域は静寂、「島風」の逆探(レーダー波探知機)でも異常無し。

26日の「海戦」で燃料弾薬を浪費していた米艦隊は、その後補給のため後退、島の周囲には一時的に敵影が消えていました。

まさに天佑!

キスカ守備隊の見張り所からは弾んだ声が上がります。
「一番艦見ゆ、阿武隈らしい!…二番、三番艦見ゆ!一番艦入港。大発、艦へ発進しました!」

彼らは来たのです。

最後の試練

こうなれば、もはや一刻も早く乗艦し、雲を霞と逃げ去るのみです。
「各砲台、機銃の残存者は兵器を破壊し、速やかに海岸に集結!」

しかし、海岸で大発(ダイハツ。上陸用や雑用の大型発動艇)がピストン輸送を続ける中、律儀に最後まで任務を続けていた電探から「敵哨戒機接近!」と急報が入ります。
敵機の監視を続けるため、電探員と司令部要員はその場を動けません。

一水戦各艦は出港を始め、このまま自分たちだけ取り残されるのでは…とジリジリと焦りが広がりましたが、やがて「敵機遠ざかります!」と報告が入るやいなや「電探員引き上げ!戦闘指揮所爆破せよ!」の号令が飛びました。

電探および司令部要員が脱兎のごとく駆け出した直後、轟音を立てて吹き飛ぶ指揮所。
エンジンをかけたまま待機していた最後の大発は彼らが飛び乗るなり海岸を離れ、最後に残っていた1隻に守備隊員と大発の乗員が移乗すると、すぐに出港しました。

時間短縮のため、守備隊の大発は撤収が終わったらそのまま放棄されたのです。

陸海軍のキスカ守備隊、約5,200名全員が乗艦するまでわずか55分という早業で、ただちに再び濃霧を突っ切り全速力で離脱を図った救出艦隊は、敵空襲圏内からの離脱に成功。
突入時に濃霧を晴らす「奇跡」を起こした誤射を除けば一発も放つことなく、ここに奇跡の撤退作戦は完了したのでした。

その後、後日談と生き証人

この「キスカの奇跡」には、2010年代に至るまで影響した、ある後日談があります。

救出艦隊が全速で逃げ去った翌30日から米軍はキスカの周辺封鎖を再開、8月15日に100隻以上の大艦隊でキスカ島へ押し寄せ、猛烈な艦砲射撃の後に34,000名もの兵士が上陸しましたが、全て誤射による激戦で死傷者百数十名を出す、壮大な1人芝居を演じます。

そして、その最中に通訳として従軍していた一人の軍属が、遺棄された兵舎の看板を見て仰天!

「ペスト患者収容所」

仰天した上陸部隊は本国にペスト(伝染病)のワクチンを大量に要請するなど最後まで大混乱に陥りましたが、これは撤退前にイタズラをしようとした、ある日本軍軍医による「戦果」でした。

なお、その看板を通訳した軍属は感染を疑われて本国に後送、そのまま終戦を迎えます。
戦後は学者となり熱心な日本文学・日本文化研究、文芸評論家として活躍、2011年に発生した東日本大震災を契機に日本国籍を取得して永住を決意。

その人物の日本での通称名は「鬼怒鳴門」(きーん どなるど)。

Donald Keene.jpg
By Aurelio Asiain from Hirakata-shi, Osaka, Japan – Flickr photo Donald Keene at his Tokyo home, CC 表示-継承 2.0, Link

キスカ撤退が失敗し激戦となっていれば、あるいは失われていたやもしれない「日米友好の架け橋」の1人、キーン・ドナルド氏は2017年4月現在、いまだ存命です。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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