- コラム
傑作兵器「驚異の命中率!九九式艦上爆撃機~帝国海軍急降下爆撃隊」
2017/04/19
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/04/25
菅野 直人
古今東西の兵器から、「傑作」と呼べる兵器をメジャーどころから紹介していく傑作兵器シリーズ。第2回は日本が誇るチハたん! こと中戦車チハ、正式名称「九七式中戦車」です。ブリキ缶だのやられメカのように扱われますが、同時代の戦車との比較なら傑作と言えないことも無いんです!
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最近では「チハ」名で定着してその名で呼ばれることが多い九七式中戦車ですが、この「チハ」は「中戦車(チ)で3番目(イロハのハ)に開発された」ことを意味します。
(この記事でも「チハ」および改良型の「チハ改」で以後表記します)
「チイ」は八九式中戦車甲型(水冷ガソリンエンジン)、「チロ」は八九式中戦車乙型(空冷ディーゼルエンジン)だったと言われ、実際には両方まとめて「チイ」とされていた説もありますが、その場合チロ相当の戦車が何かあったのかもしれません。
1937年(昭和12年)にその八九式中戦車チイ(チロ)の後継として制式化されたチハですが、チロで採用された空冷ディーゼルエンジンの。機動性に優れた歩兵支援用中戦車として、当時の戦車としては標準的な武装と装甲を持つ戦車でした。
その4年後、太平洋戦争に突入した頃にはすでにヨーロッパ東部戦線でT34やKV1の初期型にドイツ軍が四苦八苦していた頃ですが、逆に言えばその当時はまだ「装甲・火力・走行性能の3拍子揃った戦車なんてほとんど無い」という時期です。
しかも太平洋戦線での南方戦線ではイギリス軍も植民地警備戦力でコト足りると考えていて、ロクに戦車も装備していませんでした。
そのため、当時としてはマトモな性能を持ったチハはティーガー戦車ばりの活躍で時々現れるイギリス軍装甲車両を撃破し、陣地を乗り越えあるいは迂回し、さらにはヘッドライトのみで当時不可能に近いと言われた戦車による夜襲までやってのけて大活躍したのです。
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しかし技術革新のスピードが猛烈に早かった当時、デビューから4年経っていたチハは早くも「米軍のM3軽戦車にあらゆる性能で劣る」と旧式戦車の烙印を押されてしまいます。
しかし、デビュー当時の三号戦車初期型(ドイツ)、M2中戦車(米)、BT-7(ソ連)、A10巡航戦車(イギリス)と比べた場合、主砲の短砲身57mm戦車砲の弾道直進性や貫徹力にやや問題はあったものの、装甲防御力や走行性能ではそう劣ったものでは無かったのです。
結局のところ、主な相手を考えた場合、イギリス軍はどうせ東洋の猿がロクな戦車なんてあるわけないとタカをくくってたので問題無く、米軍に対しても戦車戦に持ち込まず火力戦で押し切ったので、そう問題にはなりませんでした。
T-34ショックを受けた時期のドイツ軍や、ティーガーどころか長砲身型IV号戦車にも苦戦した米英軍が「戦車で勝てなくても、航空支援や火力支援で吹き飛ばせば問題無し」とばかりに火力勝負に持ち込んだのと、対して変わりありません。
それを考えると、「ティーガー1台に3台で対抗すれば勝てる(かも)」と言われた米軍のシャーマン戦車をブリキだなんだと批判しないのは、いささか不公平な感があります。
マトモな戦車を敵が繰り出してきた時、マトモな航空支援も火力支援も無かったのがチハの不幸で、たぶんどんな重戦車を繰り出しても負けるような戦場で頑張らなければいけなかったために、何か日本陸軍戦車隊の汚名を一身に受けているような気も?
By 不明 – http://www.ww2incolor.com/japan/C__pia+de+d+Malaya+_19_.html, パブリック・ドメイン, Link
しかしチハは負けません。
戦車単体の性能で負けるなら、チームプレイで何とかしてやろうじゃないか!と、ヨーロッパ戦線でのシャーマンさながらの団体戦に活路を見出します。
チハの57mm戦車砲は歩兵支援用の火力重視で対戦車用としては装甲貫徹力が不足していましたが、それなら火力を活かして装甲を割ればいいじゃない!と考えられたのです。
そこで採用されたのが、徹甲弾では無く榴弾を小隊単位で1両の戦車に集中射撃を行う戦法で、硬いだけで粘度の足りない装甲ならば、表面で榴弾を多数炸裂させればパカーンと割れます。実際、ビルマ戦線ではそれでM3軽戦車を撃破していますし、チハも無力では無かったのです。
まあ、相手が軽戦車ではありましたが……
By Item is held by John Oxley Library, State Library of Queensland., パブリック・ドメイン, Link
そして、列強の新戦車開発に追従すべく、日本陸軍技術本部も無為無策だったわけではありません。
1942年春には新開発で高初速、装甲貫徹力に優れた一式47mm戦車砲を搭載した新砲塔チハ(チハ改)が完成し、早速フィリピンに送られてM3軽戦車を撃破します。やっぱり中戦車なので、軽戦車くらいは余裕じゃないと!
一式機動47mm対戦車砲同様、コンパクトな割に優れていた一式47mm戦車砲ですが、その後のM3、M4中戦車には格の違いを見せつけられてまたまた苦戦します。
それでも待ち伏せして側面装甲さえ狙えば、M3やM4の側面装甲は大したことが無かったので、全く無力だったわけではありません。
日本軍の戦車としてチハ最後の戦いになったのは1945年8月18日(※停戦後です)にソ連が千島列島最東端の占守島(しゅむしゅとう)に攻めて来た時。
停戦したのに攻撃してくるとは何ごとぞ! 自衛戦闘に移った戦車第11連隊のチハ、チハ改が九五式軽戦車ともども怒り狂ってソ連軍に殴り込みます。
随伴歩兵の不足で小口径対戦車砲や対戦車ライフル程度しか持たなかったソ連軍相手に苦戦したものの、他部隊も駆けつけたこともあって、最終的には散々に撃破したのでした。
By Mills Baker – Flickr: Chinese Military History museum, CC 表示 2.0, Link
太平洋戦争終結でその役目を終えたかに見えたチハですが、ほかの日本軍兵器同様に中国では引き続き戦い続けました。
国民党(現在の中華民国・台湾)と共産党(現在の中華人民共和国・中国)の国共内戦が再開すると、主に共産党側の人民解放軍でチハは活躍し、その中の「功臣号」と呼ばれるチハ改は、なんと1949年の中華人民共和国建国記念パレードに先頭車として登場。
1959年に退役後は、2017年現在も北京の中国人民革命軍事博物館に展示されているそうです。
ほかに日本でもブルドーザーや警察用装甲車、雪上車やクレーン車などに改造されて、戦後の復興を支えました。
チハを今でも日本で見ようと思った場合は、靖国神社の遊就館と、静岡県富士宮市の若獅子神社に展示されています。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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