- コラム
帝国海軍の残照-戦争後生き残った艦艇たち-
2017/02/11
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/03/18
菅野 直人
「帝国海軍の残照」として戦後も生き残って実際に運用された日本海軍の艦艇を紹介しましたが、他にもまだあります。続編として、その事例を引き続き紹介しましょう。
By 不明 – Japanese book:The History of auxiliary vessels of the Imparial Japanese Navy(日本海軍特務艦船史)p44, パブリック・ドメイン, Link
写真は同型1番艇「初島」
「電纜敷設(でんらんふせつ)」を行う船というのは、海底に通信ケーブルなどを敷設するのがその役目です。
戦後その任につく釣島丸(つるしままる)が、日本海軍の電纜敷設艇「釣島」だった頃も基本的にその役目は同じで海底にケーブルを張っていました。
ただし、そのケーブルの先には有線指令で爆破するタイプの機雷や、潜入する潜水艦などを探知する水中聴音機があり、釣島も含む「初島級電纜敷設艇」は重要な泊地や基地を警備するための設備を敷設する、重要な役目を持っていたのです。
初島級の2番艇として1941年(昭和16年)に就役した釣島は本来の電纜敷設任務のほか、武装してそこそこの速力が出るフネであれば何でも投入された輸送船団護衛にも参加し、末期で戦力不足だった日本海軍の中で酷使されます。
それでも終戦時には同級艇の中で唯一残存、その電纜敷設能力は通信ケーブルや海底電線の敷設にも向いていたので、民生転用されることになりました。
武装を撤去した上で逓信省、後に郵政省に移管され、海底電纜敷設船「釣島丸」として就役。1951年(昭和26年)日本電電公社(現在のNTT)に移管され、1968年まで運用されていました。
前回紹介した海上レストラン「シーホース」(旧飛行機救難船930号)と同じく、日本海軍の飛行機救難船の残存船です。
飛行機救難船は戦闘艦艇では無く、海面に不時着水した飛行機を釣り上げるデリック(クレーン)があるため動力に余裕があり、飛行機の収容スペースもあることから使い勝手が良いので、戦後もさまざまな形で使われました。
1536号も海上保安庁の巡視船「ゆうちどり」となりましたが、実際には掃海船、あるいは掃海船の母船となって、戦争末期にB29が撒いた機雷を除去する、航路啓開任務についています。
同任務が保安庁海上警備隊、ついで海上自衛隊の創設とともに移管されると同船も海上自衛隊の掃海艇「ゆうちどり」となりました。
さらに転機となったのは東京オリンピックで、1964年(昭和39年)に要人など貴賓(きひん)を招待してヨット競技などを観戦してもらう目的の迎賓艇(げいひんてい)に改造。
以後、海上で国賓(こくひん)や貴賓をもてなす迎賓艇任務に、1977年(昭和52年)まで横須賀地方隊所属で従事し、翌1978年にようやく除籍されたことで、海上自衛隊から日本海軍出身の艦艇が消滅しました。
なお、同任務はその後「はやぶさ」(駆潜艇を改造)、「ひよどり」(同)と歴代改造艇を経て、現在は新造された「はしだて」がその任についています。
参考ページ:http://military.sakura.ne.jp/navy2/asy_yutidori.htm
ソロモンでの消耗戦での教訓から、輸送船より高速で駆逐艦より大量に輸送可能な高速強行輸送艦として建造されたのが第一号型一等輸送艦。
その任務の性質上、就役するそばから実戦投入されてはあっという間に撃沈されるため、1944年5月以降21隻も就役しながら、5隻しか生き残れませんでした。
その5隻は戦後に外地から将兵を帰国させる復員輸送につき、事故で1隻を喪失したものの、4隻がさらに生き延びて連合国に賠償艦として引き渡されることになります。
しかし引き渡し待ちの保管中、戦時中の軍に徴用されて喪失した捕鯨母船の代用を求めていた水産会社に乗組員ごと貸与され、大洋漁業や極洋捕鯨の船として出漁。
当時の回想によれば、出漁時には会社の旗だけでなく軍艦旗まで揚げ、軍艦マーチを鳴らしながら意気揚々と出港したそうです。
戦後のちょっとした鬱憤晴らしもあったかと思いますが、困窮していた国民の胃袋を何としても満たすため、士気高揚も必要だったのでしょう。
1946年(昭和21年)から3年ほどそうした任務?についた後、順次賠償艦として予定の国に引き渡されていきました。
参考ページ:http://npn.co.jp/article/detail/37797432/
By 不明 – 吉備津丸 – 全日本海員組合, パブリック・ドメイン, Link
写真は準同型艦「吉備津丸」
特殊船とは日本陸軍が独自に保有していた揚陸艦で、厳密には「帝国海軍の残照」ではありませんが、番外編ということで。
一見、普通の貨客船に見えるものの内部は大発動艇(大発。揚陸艇)の格納庫となっており、船尾のハッチから発進させることができる仕組みでした。
1945年(昭和20年)に就役して戦争を生き延び、戦後その構造を活かし、日本水産の捕鯨母船として再就役しています。
1948年には捕獲した鯨を遠洋捕鯨でも品質劣化しないよう冷凍処理が必要とされたため、冷凍工船に改装されて、南極海に出漁しました。
しかし、1953年に南極海で操業中、不慣れな見習い船員が船底のキングストン弁(船内への注水弁)を誤って分解・開放してしまい、大量の浸水を起こす事故で沈没してしまいます。
せっかく戦火を生き延びた船でしたが、その最後はあっけないものでした。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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