- コラム
映画ダンケルクのヒロイン? スーパーマリン・スピットファイア
2017/11/14
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2017/03/14
菅野 直人
日本でも2017年9月から公開が予定されている映画「ダンケルク」楽しみに待っている人もいるのではないでしょうか? 第2次世界大戦前半のフランス戦終盤に成し遂げられた「ダンケルクの奇跡」がどのようなものであったか、一度おさらいしておきましょう。
1939年9月にドイツ軍によるポーランド侵攻で幕を開けた第2次世界大戦。
イギリスとフランスはただちにドイツに宣戦布告し、これまでのように極力戦火を拡大することなく領域拡大を狙っていたドイツのヒトラー総統を困惑させます。
結果的に、イギリス・フランス・ドイツのいずれもが正面衝突するには準備不足だったこともあり、連合軍とドイツ軍の間で本格的な武力衝突がなかなか起こらない「奇妙な戦争」あるいは「まやかし戦争」と呼ばれる状態が続きました。
結局、イギリスによるBEF(海外派遣軍)をフランスに展開させたほか、連合軍はさしたる対策も取れぬまま時は過ぎ、その間にポーランド、デンマーク、ノルウェーを占領したドイツは、十分な準備をして1940年5月にフランス侵攻を開始します。
中立国ベルギーを蹴散らし、オランダを屈服させてフランスへと突破、フランス北部海岸沿いを進撃するドイツB軍集団と、内陸の森林地帯を奇襲突破したドイツA軍集団に対し、イギリス・フランスを中心とした連合軍は有効な反撃も防衛戦も行えず、次々に突破、あるいは殲滅されていくのでした。
5月10日に始まったフランス侵攻で総崩れとなった連合軍を尻目に、ドイツA軍集団の先頭(第2装甲師団)はドーバー海峡に到達、フランス軍とBEFのイギリス軍、それに祖国を追われたポーランド軍などは、イギリスとの連絡線を絶たれて壊滅する危機に陥ったのです。
By Frank Capra (film) – Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department): http://www.archive.org/details/DivideAndConquer, パブリック・ドメイン, Link
ダンケルクから撤退するイギリス軍
これは数十万のイギリス軍兵力を失うだけでなく、5月10日(フランス戦開始日)にイギリス首相へ就任したばかりのウィンストン・チャーチルも、その政権が早々に危機に陥ったことを意味しました。
これを受け、チャーチルはイギリス海軍によって立案されたBEF救出計画をただちに承認。
ドーバー城地下のダイナモ・ルーム(発電機室)がある海軍指揮所で作戦の説明が行われたことから「ダイナモ作戦」と名付けられた撤退計画は始動します。
ドイツ軍に包囲された連合軍が押し込められたフランス北部の港町、ダンケルクの桟橋や防波堤に接岸可能な駆逐艦などの軍用艦艇や、それ以外にもドーバー海峡を渡れるあらゆる船舶に「ダンケルクへ向かえ!」と大号令がかけられますが、問題はドイツ軍の進撃でした。
またたく間に連合軍を撃破したドイツ軍が、撤退が終わるより前にダンケルクになだれこむのは必然であり、そこで起こる悲劇を予想したチャーチルは、議会で「重く、厳しい知らせがくるかもしれない」と悲観的な見通しを伝えていたのです。
しかし、5月21日にフランス北部のアラスを中心に行われた連合軍の反撃が、思わぬ効果を発揮しました。
このアラス戦自体はイギリスとフランスの連絡線を確保するための限定的な攻勢であり、しかも各所で調整が取れない中、タイミングも合わず兵力が段階的に投入されるという有様です。
しかし、その調整の取れない攻勢が行われた先は、たまたま「戦車隊の進撃が早すぎて取り残された」ドイツ第7機甲師団の歩兵部隊や砲兵部隊であり、そこに数は少ないながらも、重装甲を誇る「マチルダII」などイギリス戦車隊が突っ込みました。
前述の通り連合軍は足並みが全く揃っておらず、一時的勝利を決定的なものにはできませんでしたが、それでもドイツ軍に「ちょっと進撃が早すぎた」と思わせるには十分だったのです。
これを受けて進撃の先頭を切っていたドイツ第4軍を率いるクルーゲ、およびその上位組織であるA軍集団を率いるルントシュテットといった将軍が5月24日朝に進撃を停止させてしまいます。
その後ヒトラー総統やドイツ軍上層部も巻き込む激論の末に、ダンケルクに孤立した連合軍は、救出に来た艦船もろともゲーリングの率いるルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)が壊滅させることになったのでした。
なぜか進撃を止めたドイツ軍地上部隊の動きを不審に思いつつ、5月26日にダイナモ作戦は始動しました。
最初はBEFのうち45,000名を救出する計画だったのが、より規模を拡大され、フランス軍などを含む大部分の救出に変わります。
5月29日からルフトヴァッフェの空襲が本格化し、救出に駆けつけた艦船を次々と沈め、また海岸を血で染め上げていきますが、それでも地上部隊さえ食い止めれば作戦遂行は可能と撤退は粘り強く強行されていったのです。
RAF(イギリス王立空軍)はBoB(バトル・オブ・ブリテン・本土防空戦)に備えて温存されていた最新鋭戦闘機スピットファイアも出撃させ、後にBoBでドイツ戦闘機に太刀打ちできずに大損害を受ける複座戦闘機デファイアントまで投入します。
制空権を得ようと奮闘するRAFとルフトヴァッフェの戦いは天気の悪い雲上で行われ、爆音から上空の様子を想像するしか無いダンケルクの兵士たちは、時おり激戦を突っ切って爆弾を落としてくる急降下爆撃機などに怯えるしかありません。
しかし、進撃を再開したドイツ軍地上部隊が6月5日にようやくダンケルクに到達した時、BEFを中心に約34万人の連合軍将兵が脱出に成功していたのでした。
そのうち8割は駆逐艦など海軍艦艇や大型船舶によるものでしたが、残り2割はなりふり構わず投入された、大きいものは海峡横断フェリー、小さいものは手こぎボートや個人のヨットに至る民間船舶、それに王立救命艇協会の救命艇で、彼らの献身的行為も含め「ダンケルクの奇跡」と呼ばれます。
もっとも、フランス戦はダンケルクで終結したわけではありません。
「ダイナモ作戦」そのものはあくまでダンケルクからの包囲脱出戦であり、イギリス、フランス軍ともに再びフランスに送り込まれた兵力もあります。
最終的にはフランスの敗戦が明確になった時点で「サイクル作戦」などフランス北西部からの脱出作戦が行われ、最後の「エアリアル作戦」が終了したのは、フランス降伏の翌日、6月22日のことでした。
これら一連の撤退作戦、ことに「ダイナモ作戦」が行われたダンケルクから撤退した兵力は兵器など装備のほとんどを失っており、アメリカからの援助(レンドリース)でそれを補充するまで、戦力回復に苦労することとなります。
しかし、1944年6月のノルマンディー上陸作戦以降、ヨーロッパ西部戦線で反攻に転じた時の戦力にはダンケルク脱出組も多く、人的戦力を保持できたという意味で、連合軍にとって非常に意義の高い撤退作戦だったと言えるでしょう。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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