- コラム
ステルス機発展史「ステルスボマー1940年代に現わる?ノースロップB-35/B-49」
2018/11/26
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2019/03/20
菅野 直人
第1次世界大戦で飛行機が戦争に役に立つことが証明されてからすぐ始まった『見えない飛行機』への挑戦は、機体そのものを透明にしたり、相手に向けた光源で視覚的に見えなくする光学ステルスや、第2次世界大戦末期にはレーダー波を逸らしたり乱反射させたり吸収する対電波ステルスも始まります。さらにベトナム戦争で静粛性や対赤外線センサー対策も試行された後、あらゆるステルス化の努力の集大成として、いよいよ1970年には現在のステルス機の原型が実際に飛び始めました。
第2次世界大戦や朝鮮戦争の頃まで対空兵器の主力だった対空砲や制空戦闘機の機関砲は、1950年代末期に本格的なSAM(地対空ミサイル)やAAM(空対空ミサイル)の登場で、急激に陳腐化していきました。
それはまた高高度を超音速巡航して核攻撃を行うタイプの爆撃機や、格闘戦能力に優れた機動性の高い戦闘機を急速に無意味にしていき、超低空侵攻を行う爆撃機や戦闘爆撃機に変わっていったものの、ミサイルの発達はそれらを上回っていったのです。
By Edward L. Cooper, commissioned for the US Army – Defense Intelligence Agency, http://www.dia.mil/history/military-art/1980s-series2/, Public Domain, Link
特に、1960年代から始まっていたベトナム戦争で認識されていたSAMの優位性は1970年代になると揺るがないものとなり、1973年に起こった第4次中東戦争では、攻め寄せるアラブ連合軍へ阻止攻撃のため出撃したイスラエル空軍機がSAMによって大被害を受けます。
結局イスラエルは敗北せずに済んだものの、基本的にアメリカ製航空機が多いイスラエル空軍が、当時のソ連製SAMに大苦戦した結果を見た西側軍事関係者、ことにアメリカ軍関係者は衝撃を受けました。
同様にアメリカ製航空機を主力とする西ヨーロッパのNATO(北大西洋条約)空軍と、ソ連製SAMを大量装備したWTO(ワルシャワ条約機構)軍が戦った場合、NATO空軍は2週間で壊滅するだろうと予測されたからです。
By Service Depicted: Air Force – ID:DFSC8302078, パブリック・ドメイン, Link
そこでアメリカではベトナム戦争時代に考案されたレーダーやSAM発射機を掃討する『ワイルド・ウィーゼル』任務へ投入できる戦力を増強する一方、光学/赤外線/電波などあらゆるセンサーから『見えない飛行機』の実現を決断しました。
By US Air Force Photo – http://www.darpa.mil/WorkArea/DownloadAsset.aspx?id=2580, パブリック・ドメイン, Link
DARPA(アメリカ国防高等研究計画局)は1974年に国内航空機メーカー各社に『見えない飛行機』の可能性について回答を求め、当初マグドネル・ダグラスとノースロップが、後にロッキードを加えた3社がこの至上命題に挑戦しました。
結果、1975年にDARPAから実験機XSTの試作開始をオーダーされたのはノースロップとロッキードで、モックアップ(実物大模型)での試験結果により低いRCS(レーダー反射断面積)を実現したロッキード案が採用、『ハブ・ブルー』と名付けられた実験機は1977年12月に初飛行します。
ハブ・ブルーは垂直尾翼が内側に傾斜しているほかは後のF-117ステルス戦闘爆撃機によく似た形をしており、電波を乱反射させる平面の組み合わせ、エンジンの静粛性や低い赤外線放射などを既に実現していました。
実際にはF-117より後退角が鋭い矢じりのような形をしており、エンジンもT-2Bバックアイ練習機用のアフターバーナーなし版J85ターボジェットエンジンを使い、機体も一回り小型ではありましたが、ハブ・ブルーがF-117の原型機なのはひと目でわかります。
2機製作されたハブ・ブルーは1978年5月に1号機が、1979年11月に機械的トラブルからいずれも墜落して失われましたが、ステルス性に関しては全く問題ないとされていました。
実際、ハブ・ブルー1号機が初飛行する前からロッキードはF-117の開発指示を受けており、2号機が墜落して2年と経たずにF-117の1号機は初飛行していたのです。
ただ、2機とも失われたハブ・ブルーは後述するタシット・ブルーのように博物館で展示などされず、情報公開も限定的なため、その全貌は今でも明らかになっていません。
後にハブ・ブルーとなるXSTの競作ではモックアップ段階で敗れたノースロップでしたが、ロッキードとは別なプロジェクトのため開発継続をオーダーされます。
ロッキード案より次世代のステルス機、そして全く別任務をこなす航空機の実験機として計画されていた『BSAX(戦術航空監視実験機)』へノースロップ案は転用され、『見えない偵察機』の実験機となったのです。
By DoD photo – Downloaded from U.S. Department of Defense DefenseLink publication: http://www.defenselink.mil/photos/newsphoto.aspx?newsphotoid=186, パブリック・ドメイン, Link
F-117の1号機が初飛行した翌年、1982年2月に初飛行して『タシット・ブルー』と名付けられた実験機は、平面の組み合わせだったハブ・ブルーとは大きく異なり、かつて誰もが『最新鋭ステルス機はこんな形に違いない』と予想した曲面的形状でした。
先端へいくに従いすぼまる主翼形状やV時型尾翼、胴体形状などは現在の『グローバル・ホーク』無人偵察ドローンなどとの類似性が見られますが、タシット・ブルーはより大きな有人機です。
曲面を多用した機体形状は後にステルス爆撃機B-2へ、もうひとつ重要なリアルタイム戦場監視システムもE-8『ジョイント・スター』戦場監視機へ発展し、アメリカ空軍の将来軍用機構想へ大きな貢献をしました。
また、後に米空軍から次期主力戦闘機となるステルス戦闘機の競作を指示された時、ノースロップ・グラマンがマグドネル・ダグラスと組んでYF-23を開発、惜しくもロッキード・マーティンF-22へ敗れて採用されなかったものの、やはりタシット・ブルーの延長線上にある曲面多用のステルス機です。
こうして後のステルス機にも大きな影響を残したタシット・ブルーでしたが、飛行特性はハブ・ブルーよりよほど素直だったそうで、1機しか作られなかった実験機は無事に飛行プラグラムを全うし、ライト・パターソン空軍基地の国立アメリカ空軍博物館で展示されています。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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