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2019/01/28

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「治安維持出動を断り自衛隊を救った男、第11代防衛庁長官・赤城宗徳」


海外のニュース映像などで、デモ隊など市民の鎮圧に軍隊を投入した結果、最後は強力な武装で害意の有無に関係無く市民が殺戮されてしまう悲劇を見た事があると思います。幸い日本では自衛隊が自国民へ向け武力行使に至った事例はありませんが、危うくそのような悪しき前例を作りかけた事はありました。1960年の安保闘争で自衛隊の治安出動を辛うじて食い止めた男とは。







戦後の精算、旧安保条約から新安保条約へ

1945年8月、第2次世界大戦に敗北した日本はアメリカなど連合国からの占領(進駐)を受け入れ、フレンスブルク政府が全員逮捕されたドイツのように国家そのものが一旦廃止される事は無かったものの、その主権は大きく制限されました。

特に顕著だったのは軍事力の解体で、最終的に現在の厚生労働省へ移管されるまで存続した兵士を復員させる復員業務や、現在の海上自衛隊掃海部隊へ継承された掃海業務、海上保安庁へ移管された不法入国取り締まりや水路、灯台管理など非軍事任務を除き、陸海軍は完全に廃止されます。

もちろん丸裸となった占領下日本の防衛は占領軍が引き継ぎますが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると日本占領軍は前線へ向かい、その穴を埋めるべく同年8月に警察予備隊が発足、後に陸上・海上・航空の3自衛隊につながる日本独自の軍事力が復活しました。

さらにアメリカは既に冷戦で対立していたソ連や中国のブロックへ日本が引き込まれないよう、アメリカ主導での国家主権回復がなされ、サンフランシスコ平和条約を1951年9月4日に署名、1952年4月28日に発効し、戦後7年弱でようやく日本は独立国としての地位を回復したのです。

ただし、独立国として国際舞台へ復帰するという事は、同時に他国からの侵略や干渉に大して独力で対処せねばならないケースが生じる事も意味しますが、当時の日本にはソ連や中国が「その気」になった時の防衛力を持ちません。
そのため平和条約とセットのようについて来たのが『旧日米安保条約』で、当時の日本の軍事力を象徴するがごとく「日本がアメリカに要請して軍隊を駐留してもらっている」立場でした。

しかしこの旧日米安保条約は「確かにアメリカ軍は駐留しているが、日本の防衛まで義務化していない(援助できる、とあるのみ)」一方で「日本国内の反乱などに対しても援助を与えられる」、つまり日本国内の内覧へ在日米軍が介入できるというもの。

何しろ外敵排除どころか治安維持さえおぼつかない軍事力しか持たない当時の日本では致し方ないところでしたが、おかげで1952年1月の旧日米安保条約発行前、竹島(島根県)を韓国が占領した時はもとより、1957年に旧ソ連が北方領土の貝殻島(北海道)を占領した時でさえ、米軍に出動要請はできません。
いわば『ただ米軍が駐留しているだけで意味が無いどころか、独立すら危うい欠陥条約』だった旧日米安保条約を改正しようという動きは、発効直後から当然ありました。

1955年8月に外相の重光葵が訪米した際、ダレス国務長官に安保条約改定を求めて一蹴されたと言われますが、この時に日本民主党(現在の自由民主党の前身で、1990年代以降の民主党とは別)の幹事長として同行していたのが、後に新日米安保条約を結んだ際の首相・岸信介です。

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By 不明 – 時事画報社「フォト(1961年6月15日号)」より。, パブリック・ドメイン, Link

大荒れに荒れた安保改正、国会突入による負傷者や、デモでの犠牲者も

1957年、首相に就任した岸信介は、いよいよ安保条約の改定に乗り出します。
しかし当時は1956年の日ソ共同宣言で国交回復したソ連から多数の工作員が外交官や大使館職員として堂々と送り込まれ、日本にも浸透していた中華人民共和国と合わせた東側2大大国が日本を西側自由主義陣営から離脱させる『中立化工作』を行っていた時期です。

そのため、旧条約の不均衡かつ不条理な部分を是正するとはいえ、在日米軍の恒久的な駐留や、東西冷戦下で『西側自由主義陣営』へ日本を固定化させる新日米安保条約への改定は、慎重に慎重を極めなければいけませんでした。

日米間の秘密交渉で改定そのものは大筋で決まっていたものの、岸政権が本格的に安保改定を切り出さないまま安保改定反対運動のみが突出していき、1959年10月の『ベトナム国会』では安保反対派の大群衆、約1万2千人が国会へ突入して300人以上が負傷する大惨事となります。

1960年に入り、5月19日の国会でいよいよ新日米安保条約が衆議院で強行採決、社会党が審議拒否を貫く参議院での採決を待たずに30日後の自動成立を待つようになると、連日国会を取り囲んでいた群衆によるデモが過激化していきました。

6月10日にはアメリカのアイゼンハワー大統領訪日調整のため来日したハガチー大統領報道官の車が群衆に襲われ、アメリカ海兵隊のヘリで救出される『ハガチー事件』が発生。
さらに6月15日には国会を包囲するデモ隊と警察部隊の激突で、ついに女子学生1人が死亡する事態にまで至りました。
新安保条約の自動成立まで数日を残して日本は『革命前夜』の様相を呈し、NHK(日本放送協会)さえもデモ隊が押し寄せて革命放送など行わないよう、厳戒態勢に入ります。

しかし当時の日本は警察力も弱く、人員も半分程度。
誰もが疲れきっており、「このままでは国会内部への侵入を防ぐのが精一杯で、なだれ込んだ群衆が国会議事堂へ赤旗を上げようとしても、止められないかもしれない」と、絶望感が流れていたのです。

「もしここで出動させれば、すべてがおしまいだ!」

当時、既に警視庁および各道府県の機動隊は設置が進んでいたものの、警視庁機動隊すら1957年に『警視庁予備隊』から改名したばかりで、人員装備とも十分ではなく、実績もあまり芳しいものとは言えませんでした。
そこで政府の一部(当時の通産相・池田勇人や蔵相・佐藤栄作など)や自民党でも自衛隊の治安出動を真剣に検討し、呼ばれたのが当時の第11代防衛庁長官、赤城宗徳。

赤城は戦時中から岸派の政治家だった自民党議員で1957年に農相として初入閣、日ソ漁業交渉でソ連とやり合い、官房長官を経て当時は防衛庁長官というポストにいた人物です。
いわば戦中から岸首相の同志だった人物が国防の分かれ道となる時期にいたわけですが、それだけに自衛隊の最高指揮官である岸本人から命令があった場合は断れません。

一応首都防衛の第1師団司令部がある練馬区へ部隊を集結させつつも、防衛庁へ幹部を集めて意見を聞きました。
この時、戦前・戦中にかけて内務官僚や警察関係の役職を歴任していた今井久が「やっとここまで育ててきた自衛隊を国民に向けて出動させたら、全てがオシマイです!」と激烈な反対意見を述べたのを赤城が採用します。
わかった、もし命令されても俺が断わる。」

そして6月16日、岸首相の私邸に呼ばれて自衛隊出動を打診された赤城長官は、キッパリ「出せません。」と断ったのです。

岸首相としてはとにかく警備の頭数だけでも揃えたかったのか、非武装での出動すら打診しましたが、そもそも対暴徒用の訓練など受けていない自衛隊員が、非武装の肉弾戦などという全くアマチュアな分野でプロの警察以上のことができようはずもありません。
ましてや武器など持たせればそれは国民へ向けられる事となり、それこそ革命に利用されて何もかもおしまいになりかねない、と赤城長官に説得された岸は、ついに自衛隊の治安出動命令を断念しました。

国民に銃口を向けずに済んだ自衛隊

結局、60年安保闘争は激しさを極めたものの、安保反対派の中に存在したさまざまな思惑のせいかギリギリの線で統一感を欠き、『市民革命』はならず1960年6月18日夜に新日米安保条約が自動承認。
数日後に日米で批准書も交換され、2019年1月現在でも続く新・日米安保条約が始まりました。

その過程で警察と市民は激しく衝突して犠牲者も出ましたし、その後も国家と国民が対立した時に何度も繰り返されましたが、幸いにして自衛隊が治安出動して国民へ銃を向けたことだけは、一度も無し。
いえ、『何も無かった』というよりは、『自衛隊は国民へ銃を向けないという偉大なる前例を作った』と言った方が正しいかもしれません。

第11代防衛庁長官・赤城宗徳は新安保条約成立後に岸政権が退陣したので防衛庁長官から退き、その後も池田内閣や佐藤内閣で農林大臣を歴任して農林畑を歩んだので、二度と防衛庁長官へ就任する事はありませんでした。
特にその経歴の中で防衛問題に明るかったわけではないものの、たまたま必要な時代に必要な地位へ必要な人材がいてくれたおかげで、自衛隊は『少なくとも自国民へ銃を向けた事が無い組織』と言えるようになったという、大きな救いを得たのです。







菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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