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2019/01/11

菅野 直人

平成軍事メモリアル(1)「冷戦終結とソ連崩壊」~アフガニスタン撤退からソ連最後の日まで~

2019年、いよいよ平成時代が終わりを迎えます。どのような終わり方をするのか、新しい時代はどのような始まり方をするのかはまだ全てが決まったわけでは無いようですが、30年を超える平成の世でも日本を取り巻く世界は大きく変わっていきました。シリーズ『平成軍事メモリアル』として、平成時代に起きた変化を軍事的側面から紹介しましょう。第1回は世界的一大事『冷戦終結とソ連崩壊』。







かつて「いつかソ連が攻めてくる(かも)」と信じていた時代があった

人間が生まれて物心がつき、身の回りのことだけでなく世間のニュースなどもTVや新聞で気にかけるようになるのは、小学校という場で「自分より大人な先輩たち」と出会う6~7歳頃からでしょうか。
筆者もその頃には子供向けの軍事系『大百科』的な本を読んでいましたし、8歳の頃にはTVでフォークランド紛争のニュースを見ており、10歳の頃にはコロコロコミックより大人向けの軍事雑誌(『』や『航空ファン』、『世界の艦船』)が面白いという子供でした。

それは何も筆者が特別だったというわけではなく、小学校まで徒歩30分という山奥に住んでいたがゆえの集団登校で上級生と会話する時、B-29がどうだの第3次世界大戦がどうだのという話題が普通だったものです。
無邪気な子供でしたから、ジエータイ、ハンターイ! 人殺しの訓練をしているヤツはデテイケー!なんて話題になるはずもなく、「自衛隊ってソ連が攻めてきたら、最後は北海道の山奥で全滅するまで戦うんだって!」とか、そんな話。

筆者が単なる野外生活少年団(現代風に言えばアウトドア少年団?)だったボーイスカウトへ入隊した時も、「ソ連が攻めてきたら頑張ってくれ!」と妙な応援をされたものです。
つまり筆者がそんな話を日常的に学友や上級生と楽しんでいた1980年代とは、「戦争とはいつか起こるもので、その時はソ連が攻めてくる」と信じて疑いませんでした。

2019年(平成31年)1月現在で40歳以上の人ならば、程度の差こそあれ似たような認識ではなかったでしょうか。

我々の国は、冷戦で勝った側にいるのか?

RIAN archive 850809 General Secretary of the CPSU CC M. Gorbachev (crop).jpg
By RIAN_archive_850809_General_Secretary_of_the_CPSU_CC_M._Gorbachev.jpg: Vladimir Vyatkin / Владимир Вяткин
derivative work: Jbarta – このファイルの派生元: RIAN archive 850809 General Secretary of the CPSU CC M. Gorbachev.jpg, CC 表示-継承 3.0, Link

その状況が変わったのは1985年(昭和60年)、ソ連の最高指導者であるソ連共産党書記長に、赤い国の若きリーダー、ミハイル・ゴルバチョフが就任した時です。
それまでは長いブレジネフ時代を経てアンドロポフやチェルネンコといった爺さんどもは高齢過ぎて書記長就任後すぐポックリ逝ってしまい、その一方でアメリカには1981年に(昭和56年)就任したロナルド・レーガン大統領が「強いアメリカ復活」を公約に挙げてものすごい勢いで国威発揚を進めていました。

1982年(昭和57年)のフォークランド紛争でイギリスがアルゼンチンに勝利した時もソ連は目立った介入を行わず、1983年(昭和58年)にレーガン大統領がSDI計画(スター・ウォーズ計画・戦略防衛構想)を打ち出して宇宙戦争での勝利を目指し始めてもソ連は音沙汰無し。

赤い帝国』の割には何か地味だな、と思い始めた頃に登場したゴルバチョフ書記長は、アメリカに敵対心を燃やすのではなく、『ペレストロイカ(再建)』の名で改革策を打ち出し、対米強硬ではなく積極的な融和策を打ち出したのです。

もちろんその頃でも日本は「北方領土を返せー!」という領土問題がありましたし、第2次世界大戦末期のソ連参戦で生まれた『中国残留孤児』の一時帰国と『尋ね人』じみた親族捜索告知放送が毎年流れていた頃ですから、ソ連など信じていた人はいませんでした。

しかし、ソ連がアメリカをはじめとする西側各国へ積極的な融和を、より具体的には市場を開放して外資の導入による経済発展を目指そうという姿勢、すなわち共産主義や社会主義の放棄が公然と語られるようになっていったのは、事実です。

このままゴルバチョフ政権が続く限り(そして若い彼が前任者と違って簡単にこの世を去るとも思えなかったので)、第3次世界大戦は起きない! 日本には誰も攻めてこない! 日本が属する西側は冷戦に勝ったのだ! という雰囲気が、ジワジワと広まっていきます。

折しも日本は1980年代後半、バブル景気ですさまじく豊かになり、世界第2位から第1位のアメリカを抜き、世界最強の経済大国になる夢が語られ、「軍事力はともかく札束でビンタすればかなうものは無い世界最強の国ニッポン」という幻の中にありました。

アフガニスタン撤退と、東欧共産圏の崩壊、ソ連邦構成共和国の離反

昭和時代が終わりを告げた1989年(昭和64年)1月7日、そして平成時代が始まった1989年(平成元年)1月8日、ソ連は1979年以降の軍事介入でムジャヒディン(イスラム聖戦士)からの激しい抵抗を受け、泥沼化していたアフガニスタンから撤退しようとしていました。

同年2月15日で完了したアフガニスタン撤退により、『赤い帝国』もまた、ベトナム戦争で事実上敗北したアメリカ合衆国のように、強大な覇権国家をもってしても「ただの戦争」では国民の総力をあげた敵国に勝てないことが明らかとなります。
しかも「ただならぬ戦争」すなわち核戦争、第3次世界大戦の勃発とは真逆の平和路線、市場経済の導入による資本主義国家へ変貌しようとしていたソ連が、これ以上世界へ影響力を持たないのも明らかになりました。

さらに同年11月に起きた『ベルリンの壁の崩壊』や、同年12月にチャウシェスク政権の大統領警護隊に対し、市民に加勢した軍が短く、しかし激烈な市街戦を戦った上に独裁体制を打ち砕いたルーマニア革命などに代表される東欧革命でも、ソ連は傍観します。

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By Kremlin.ru, CC 表示 4.0, Link

ソ連自体も1990年(平成2年)、大統領制を導入したゴルバチョフが、自らソ連最初で最後の大統領に就任する一方、ロシア共和国最高会議議長へ民衆からの人気が高いボリス・エリツィンが就任。
外交では無力、内政でも選挙によって民意で選ばれたわけではないゴルバチョフは、急激な市場経済導入の副作用でソ連全体が貧困にあえぐ中、求心力を失っていき、かわってソヴィエト連邦を構成するエリツィンなど15共和国の指導者(あるいは反政府勢力)が台頭。

中でも第2次世界大戦中に無理やり併合されたバルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)はソ連離脱と独立回復への道を選びますが、1991年(平成3年)1月、ついにソ連軍がリトアニア革命に介入、リトアニアの首都ビリニュスに侵攻します(血の日曜日事件)。
それまでの『ペレストロイカ』路線から逆行した軍事介入へ世界各国は猛反発し、西側からの援助無しでは成り立たなくなっていたソ連とゴルバチョフ大統領はいよいよ窮地に追い込まれました。

ソ連ならぬ『ス連』ならず! 最後の転換点、ソ連8月クーデター

既にユーラシア大陸の過半を制する巨大連邦国家の盟主としての力を失ったソ連指導部とゴルバチョフ大統領は、ソ連そのものを発展的解消に導くべく、既に離脱を決定していた各共和国(バルト3国やグルジア、アルメニア、モルダビア共和国)を除き、新たな枠組みで連邦維持を図ろうとしました。

それが1990年(平成年)11月に提案され、1991年(平成3年)7月に残る9共和国による合意で同年8月20日に調印が予定されていた『新連邦条約』で、調印を前に日本のマスコミでは発音から「今後は『ソ連』ではなく『ス連』になるのか?」と見出しが踊ります。
しかし、ソ連改めス連誕生の機会は永遠に失われました。

新連邦条約調印を翌日に控えた同年8月19日、ヤナーエフソ連副大統領をはじめとするソ連指導部の守旧派がゴルバチョフ大統領を軟禁、守旧派の配下にある戦車部隊なども出動してモスクワ放送を占拠、『国家非常事態委員会が全県を掌握した』と宣言したのです。
その瞬間まで冷戦終結と平和の到来を確信していた全世界の人々は恐怖し、歴史の流れる力が勝つか、歴史を巻き戻そうとする力が勝つか、固唾を飲んで見守りました。

やがて現れたのはロシア共和国で選挙により大統領に就任していたボリス・エリツィンで、モスクワ市民に呼びかけて守旧派への抵抗を宣言、ロシア共和国最高会議ビルへ立てこもり、賛同したモスクワ市民も集結して守旧派側の軍隊とにらみ合いを始めます。

かつてのソ連なら市民に発砲して蹴散らしていたかもしれず、ロシア共和国最高会議ビルもすぐ制圧されたかもしれませんが、それを守旧派から命じられたKGBの最精鋭部隊は動こうとしませんでした。
さらに軍も守旧派を見限って市民につく部隊が続出、多少の小競り合いはあったものの、大勢は決して守旧派は敗北を認めて軍部隊も撤収、ソ連最後の政変『ソ連8月クーデター』は大失敗に終わります。

ゴルバチョフは軟禁されていた別荘から解放されたものの実権は失われており、勝利宣言を行ったのはロシアのエリツィン大統領です。
ソ連の最初で最後の大統領、ミハイル・ゴルバチョフ最後の仕事は、1991年(平成3年)12月25日、自らの辞任をもってソビエト社会主義共和国連邦の消滅を宣言することでした。

日本から見ていると『あれよあれよという間の出来事』

ソ連崩壊に至る経緯は、日本から見ていると「アフガニスタンを撤退して落ち目だと思っていたソ連が、気がついたら崩壊して無くなっていた」というほど、急激な出来事でしたが、あらゆる情報を即座に知り得る一握りの人間(当時インターネットなど普及していなかった)を除けば、世界中で同じ感想だったかもしれません。

ある日突然、頑丈な鉄の壁の向こうで何が起きているかわからなかったはずのソ連や衛星国からの情報が滝のように流れ落ちてきて、奴隷のようにあしらわれていると思っていた国民が抵抗し、独裁体制を引きずり下ろし、壁を破壊し、自由へ向かってなだれ込んできたのですから。

頂点にあったソ連も、ソ連指導部を残して各共和国へ離反されると、まさに砂上の楼閣がごとく消えてしまい、第3次世界大戦で世界を、日本をも丸呑みにしたり、アメリカと核ミサイルの応酬をするはずだったソ連軍は、ほとんど何の関与もしませんでした。
何もかも終わってみれば「ソ連とは一体何だったのか?」と呆然としながら、突如やってきた平和に対して、様々な解釈が乱れ飛ぶ有様で、その評価はソ連が崩壊して30年近くたった現在でも定まっていません。

実弾が飛ばない世界最大の戦争だった『冷戦』も一方が勝手に崩壊してあっけなく終わってしまい、勝ったはずの西側各国もアメリカはじめ、膨れ上がった軍備で今後は何をすべきか、どのような方向性を持たせるかでしばらく混乱が続きました。
もちろんアメリカの単独超大国による平和など長くは続かず、ソ連など世界史の流れで見れば短い1ページに過ぎなかったと人々が気づくには、そう時間はかかりませんでしたが。

また、ソ連自体も情報公開が進んでみると、世界征服を行うような強大な国家ではなく、むしろ自分たちの勢力圏を守るだけで汲々としていた、ハッタリだけの弱々しい連邦だったことも明らかとなっていきます。
かつて『ソ連こそ世界を戦火の渦へ巻き込む、最強の赤い帝国』と信じていた人々の思い出は、今や滑稽なジョークに過ぎなくなりました。

とはいえ、平成になる前の自分に「あと数年したらソ連なんて消えて無くなっているんだよ?」と言っても、にわかに信じないだろうと思いますが。

平成軍事メモリアルはこちらからどうぞ







菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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