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2018/12/14

菅野 直人

奇跡の海戦史『陸上雷撃機による唯一の戦艦撃沈・マレー沖海戦』

第2次世界大戦で航空機が戦艦に対して圧倒的に優位なことが証明され、その後戦艦は作られなくなった……とはいうものの、実は『飛行機が洋上で戦艦を沈めた例』というのはたったの4回、5隻が沈んだだけです。戦艦が無用の長物となったのはまた別な理由があるのですが、その数少ない事例、かつ陸上基地から発進した大型雷撃機が戦艦・巡洋戦艦各1隻を一度に仕留めた画期的な出来事が、日本海軍機とイギリス海軍東洋艦隊が戦ったマレー沖海戦でした。







航空機が戦艦を沈めるのって、実は結構難儀

日本では世界一の大戦艦『大和』と『武蔵』が両方とも飛行機の攻撃で沈められたため、「戦艦は飛行機にかなわないんだだから空母の時代なんだ!」という印象が強いのですが、実態はちょっとばかり異なります。
飛行機が戦艦を撃沈、または大破着底などに追い込んだ事例は、以下の通り。

1.タラント空襲(1940年11月):イギリス海軍艦載機の雷撃でイタリア海軍の戦艦3隻が大破着底。
2.真珠湾攻撃(1941年12月):日本海軍艦載機の雷撃や爆撃でアメリカ海軍の戦艦5隻が大破着底(うち全損2隻)。
3.マレー沖海戦(1941年12月):日本海軍陸上機の雷撃と爆撃でイギリス海軍の戦艦・巡洋戦艦各1隻が沈没。
4.戦艦ローマ撃沈(1943年9月):ドイツ空軍爆撃機の誘導爆弾でイタリア海軍の戦艦ローマが沈没。
5.シブヤン海海戦(1944年10月):アメリカ海軍艦載機の雷撃や爆撃で日本海軍の戦艦武蔵が沈没。
6.坊ノ岬沖海戦(1945年4月):アメリカ海軍艦載機の雷撃や爆撃で日本海軍の戦艦大和が沈没。
7.呉軍港空襲(1945年7月):アメリカ海軍艦載機の爆撃で日本海軍の戦艦1隻、航空戦艦2隻が大破着底。

 
上記7例のうちタラント、真珠湾、呉軍港は軍港に停泊していた戦艦への奇襲攻撃、あるいは燃料切れで動けない状態へのタコ殴りです。
戦艦ローマもイタリアが連合国へ無条件降伏、連合軍へ投降するための航行中で戦意は低く、しかも誘導爆弾『フリッツX』などと未知の兵器で攻撃されたので、奇襲攻撃に限りなく近いと言われています。

激しい対空砲火をものともせず突撃した航空機による戦艦撃沈となると意外と少なく、マレー沖海戦、シブヤン海海戦、坊ノ岬沖海戦のみで、特にアメリカ海軍は洋上で航行中の戦艦を撃沈されたことがありません。

シブヤン海の『武蔵』は回避運動より対空砲火に頼ったため多数の命中弾を浴び、坊ノ岬沖海戦での『大和』や、今回紹介するマレー沖海戦での『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』は護衛の数や対空砲火の信頼性に問題がありました。

つまり何らかの問題でも無いと飛行機で戦艦を撃沈するのは非常に困難なのですが、それほど強力な戦力を持つ戦艦がなぜ廃れたかと言えば、飛行機の方が遠くを攻撃できて補充も容易、搭載する兵器によって多彩な任務をこなせるコストパフォーマンスの良さが決定的だったのです。

艦隊決戦にも投入される予定だった日本海軍中攻隊

日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズとレパルス。
By
不明
– U.S. Navy photo 80-G-413520, パブリック・ドメイン, Link

数少ない『洋上を航行中の戦艦を撃沈した事例』の中でも大和と武蔵は空母艦載機に撃沈されましたが、唯一『陸上基地を発進した大型雷撃機で撃沈』したのがマレー沖海戦です。

戦艦の戦力を対米6割に制限され、巡洋艦以下の水上戦闘艦も空母もその数を大きく制約された日本海軍では、仮想敵国のアメリカ海軍とのギャップを埋めるべく陸上基地から発進する双発の中型攻撃機、通称『中攻』の整備に力を入れます。

初めて成功した九六式陸上攻撃機、太平洋戦争直前に配備の始まった一式陸上攻撃機はいずれも洋上を長距離進撃できる長大な航続距離を持ちつつ、大型魚雷を搭載して敵艦へ向かって超低空を突撃できる軽快な運動性を併せ持っていました。

日本の領域へ接近したアメリカ艦隊に対し、戦艦同士の艦隊決戦に先んじて戦力を大きく減じさせる作戦の一翼を担うべく、中攻で必殺の雷撃を行う航空隊も多数整備されていたのです。
双発とはいえ一式陸上攻撃機なら四発爆撃機並の図体を持つほどの大型機が、輸送船などではなく戦闘艦の艦隊へ向かって雷撃のため超低空突撃させるなど、日本海軍しか実行しない特殊な戦術でした。

マレー沖海戦でイギリス海軍と戦艦の時代を終わらせる

日本海軍中攻隊がもっとも華々しい活躍を見せたマレー沖海戦は、イギリスが東洋艦隊への増援として派遣した最新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』および巡洋戦艦『レパルス』および駆逐艦4隻からなるG部隊が、シンガポール防衛のため入港したことで始まりました。

日本が第2次世界大戦へ参戦する直前に到着した2隻は、マレー半島への上陸作戦を始めたにも関わらず有力な水上戦闘艦を派遣していなかった日本軍にとって大変大きな脅威で、G部隊が積極的な反撃を意図した時、迎撃可能なのは航空戦力しか無かったのです。

ただ、G部隊では同行予定だった空母インドミタブルが座礁損傷して戦線離脱、空軍からの上空援護も受けられる見込みが無かったため、指揮官のサー・トーマス・フィリップス大将も出撃はしたものの、日本軍へプレッシャーをかけるだけで帰るつもりでした。

しかしむしろ攻撃のチャンス、ここで見失って帰られてはこの先どんな災いを及ぼすか知れたものではない、と戦々恐々の日本軍は中攻隊へ全てを託して攻撃を命じ、4個航空隊85機の中攻(九六式59機、一式26機)が数波にわたって襲い掛かります。

果たしてフィリップス大将の懸念通りイギリス空軍の上空援護は無く、護衛の駆逐艦もわずか4隻では有効な対空砲火を張る事もできず、おまけにプリンス・オブ・ウェールズの通称『ポムポム砲』と呼ばれる40mm8連装高射機関砲はやたらと故障しました。
次々と襲いかかる中攻隊によって『プリンス・オブ・ウェールズ』はたちまち魚雷が命中、舵も故障して電路も切断、回避運動も対空戦闘もままならなくなります。

当初は巧みな操艦で魚雷を避けていた『レパルス』もついに多数の魚雷を受け、先に早々と沈没してしまうと『プリンス・オブ・ウェールズ』は集中攻撃を受けて後を追ってしまいました。
中攻隊の損害はわずかに撃墜3機、大破全損2機のみというワンサイド・ゲームによって、『戦艦の時代の終わり』は陸上基地から発進した大型雷撃機によって成し遂げられたのです。

長くは続かなかった日本海軍中攻隊の栄光

大殊勲を上げて歴史に名を残した日本海軍中攻隊ですが、その栄光は長くは続きませんでした。
その後も連合軍の艦艇へ魚雷を抱いて幾度も攻撃に向かいますが、イギリス海軍G部隊のように準備不足や不運が重なった相手ならともかく、戦闘機や濃密な対空砲火を打ち上げてくる相手に対しては満足な戦果を上げることができなかったのです。

それでも終戦まで戦い続けた中攻隊は、最後は人間爆弾『桜花』の母機になったり、自ら特攻機として出撃するなど奮闘するも、終戦後の連絡飛行で満足に飛べる機体を手配するのに苦労するほどの損害を受け、壊滅していました。

大型双発機による雷撃など実は無謀もいいところだったのですが、マレー沖海戦では様々な要素がプラスに働いて、中攻隊にとっては奇跡的な栄光をもたらしましたが、その栄光ゆえの過大評価で『悲劇の名機』扱いになってしまいます。

大型機が艦隊への攻撃戦力として優位性を取り戻すのは、戦後しばらくたって長射程の空対艦ミサイルが登場するのを待たねばなりません。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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