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2018/11/28

菅野 直人

太平洋戦争最後の和平工作「繆斌(みょうひん)工作」

時代の転換点、時に権力者や国家形態が変わってしまうような大事件が起きる時には、平時ならば詳細に記録されていてしかるべき公的な動きさえもが不明瞭となり、結果として時代そのものの実像がボヤけてしまいます。第2次世界大戦終結前後の日本にも起きたので実像がハッキリしない出来事が多いのですが、そのひとつが中国との幻の単独和平工作「繆斌(みょうひん)工作」です。







2つに分かれていた中国の南京政府要人、繆斌(みょうひん)

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By Unknown; scanned by 天竺鼠 – Who’s Who in China 4th ed, The China Weekly Review (Shanghai),1931, p.318, パブリック・ドメイン, Link

そもそも日本ではあまり馴染みの無い「繆斌(みょうひん)」とは何かと言えば人名で、第2次世界大戦中の中国・南京政府に属していた要人の1人でした。

南京政権』と言っても現在は台湾などごくわずかな地域のみ統治している中華民国が中国全土を支配していた(事になっている)時代、少なくとも南京政府は4回樹立されているのでややこしいのですが。
この場合は、日中戦争中の1937年12月に日本軍が当時中華民国の首都だった南京を陥落後、この地に1940年3月、汪兆銘(おうちょうめい)を主席とする南京政府を樹立し、『日本軍が占領統治している側の中国』の正当政府として樹立されたものです。

対して中華民国の蒋介石(しょうかいせき)主席は奥地の重慶に逃れたので、当時は重慶政府と呼ばれていましたが、いわば当時は2つの中国が存在しました。

もちろん重慶政府は日本の軍事力をバックに南京政府の要職についた中国人を「裏切り者」として糾弾しましたが、1931年に権力闘争に巻き込まれて中華民国から追い出されて日本に渡り、その後南京政府に渡った繆斌(みょうひん)もその1人です。

第2次世界大戦が始まって以降も要職にあった繆斌ですが、血縁か昔のコネか何かで重慶政府要人とのパイプを持っており、それが元で南京の日本大使館からメッセンジャー的な役割も依頼されていました。
ただ、日本側も南京政府側も1枚岩ではなく常に権力闘争が激しい中、繆斌はかなり危ない橋を渡っていたようで、南京政府のいわゆる反繆斌勢力の手で、1942年1月にスパイ容疑で逮捕・極刑は免れたものの左遷の憂き目にあったりしています。

蒋介石を疑心暗鬼にさせたカイロ会談とヤルタ会談

蔣中正總統玉照.png
By 中華民國總統府(總統玉照由國史館提供) – http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=71, Attribution, Link

その間にも戦争は進展していき、連合軍有利が確定し始めていた1943年11月にエジプトで行われた『カイロ会談』にアメリカのルーズベルト大統領は重慶政権の蒋介石も参加させました。
これはルーズベルトと蒋介石、イギリスのチャーチル首相による連合国首脳会談でしたが、ここで戦争終結にあたり日本には無条件降伏を迫ることと、その後の日本の取扱いを決め、カイロ宣言という形で世界に発表しています。

問題はここで参加した蒋介石が実際に果たし得た役割で、楽観的なルーズベルトは中国が日本軍を大陸で叩いて戦力を吸引し、太平洋戦線を有利にして戦争終結を早める腹積もりでした。
しかし現実の中国は南方に戦力を引き抜かれて戦力が大きく減退した日本軍にさえ圧倒されており、インドシナ(現在のベトナムなど)やビルマからの補給路も連合軍の敗退で遮断されている中何をしろと? という状態であり、その後も日本に敗北を重ねてしまいます。

楽観の次は呆れたルーズベルトは落胆もあって蒋介石を冷たく見放し、ソ連の対日参戦について協議した1945年2月のヤルタ会談には蒋介石を呼びませんでした。
これで焦ったのが蒋介石で、ソ連が対日参戦して満州になだれこんだのでは、勢いづいた共産党軍(当時は国共合作により共産党軍は中華民国軍の一部だった)が再び国共内戦を始めかねず、しかもその時アメリカは今まで中華民国を支援してくれるだろうか?

歴史の謎「蒋介石の特命」を帯びた繆斌、来日す

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By Unknown; scanned by 天竺鼠 – 『最新支那要人伝』, 朝日新聞社, 1941年., パブリック・ドメイン, Link

そこで急に浮上したのが、相変わらず重慶政府と日本のパイプ役を果たすべく動いていた繆斌(みょうひん)です。

どうも第2次世界大戦末期の終戦工作といえば、「ソ連を仲介役にしようとしたが、対日参戦でご破産になった」という話がメジャーなのですが、実際には和平につながる動きを模索した工作は大小いろいろ存在したのかもしれません。

そのひとつが東条英機の後を継いだ小磯國明内閣(1944年7月-1945年4月)で国務大臣・緒方竹虎と朝日新聞などによる対中工作で、南京政府の中でも特異な存在だった繆斌を介して交渉し、日中問題を解決しようというものでした。

組閣直後からこの工作は始まっていたようですが、1944年8月には「直接南京政府を通してでないと、重慶政府と交渉はしない」という方針が多数派だったので、一旦は断念されます。
しかし同年11月には名古屋で療養していた南京政府主席、汪兆銘が死去してしまい、陸軍や外務省が中心になって進めていた南京政府経由の交渉は頓挫。

そのため小磯内閣では『繆斌工作』が現実を帯び始め、さらに先に書いたヤルタ階段で蒋介石が連合国に抱いた疑心暗鬼という出来事もあり、いよいよ工作は始動、ついに1945年3月16日、繆斌は羽田飛行場に降り立ちました。

多数の懐疑派に潰された繆斌工作

せっかく来日した繆斌でしたが、当初から政府・軍部の用心には『詐欺師かスパイ』扱いで、とてもマトモに和平工作が進みそうな状況ではありませんでした。

繆斌工作の根幹は日中単独和平で、「日本軍の撤兵」「南京政府の解消」つまり日中戦争を集結させて両国関係を正常化し、日中単独とはいえ連合軍によるそもそもの戦争目的を消滅させてしまおう、という大胆なものです。
ただ、日本とすれば中国に負けているわけでも無いのに兵を引き、占領地を捨てるメリット、中国はともあれ他の連合国との戦争状態の中、引き上げは現実的に可能なのか、そもそも中国が離脱するのを連合国が許すのか、疑問だらけでした。

さらには日中単独和平が成っても連合軍との戦争が終わる保証が無い、中華民国自体が一枚岩では無いのに、戦争終結が保障できるのか、単独離脱しようとする中国が連合軍と和平交渉の仲介などできるのかと問題だらけです。

繆斌工作そのものに懐疑的、あるいは明確に反対派ばかりだったのを、日本人が日本人であるがゆえの……といった論調に持ち込むのは簡単ですが、あまりにも繆斌が無名、あるいは名が知られているとしても暗い面が多すぎました。

何としても和平に手をつけたい小磯内閣としては、繆斌に通信施設の使用を許可し、直接重慶政府と連絡させることまで考えたようですが、繆斌の信用度はそれすら許さないほどあまりにも低すぎたのです。

繆斌工作を進めていれば、実現性はあったか?

繆斌工作が本当に日本側の早期和平派が期待したような蒋介石の密命を帯びたものであったとすれば、明らかに人選を誤ったとしか言いようがありませんが、もし日本側の政府・軍部も乗り気になって話を進めていたらどうなったでしょうか?

時は既に1945年3月、繆斌工作が昭和天皇にすら拒否され完全に見込みの無くなった1945年4月、沖縄戦が始まって、戦艦大和をはじめとする多数の特攻隊を繰り出し、沖縄守備隊と大激戦を繰り広げている中、日中で何らかの話をイチから始めるにはもう遅すぎました。
繆斌がまずは「根回し」のため派遣されてきたような人物だったとして、もうそんな悠長な工作をしている時間はありませんでしたし、日本はその4ヶ月後には玉音放送を流して降伏を受け入れてしまうのです。

何より、蒋介石も参加したカイロ宣言は日本との戦争は無条件降伏でしか解決できないと定めていたので、中国はどうあれ日本軍の本土帰還はありえない話で、そもそも大量の兵員弾薬物資を運ぶ船も航路も閉ざされ、強行すれば多数の被害を出したと思われます。

なお、「最後に日本の桜が咲くのを見てから帰りたい」と言って滞在期間を伸ばし、1945年4月下旬に中国へ帰国した繆斌は、日本との戦争終結後に逮捕投獄され、翌1946年にほぼ即決裁判という形で死刑判決を受けてただちに執行、この世を去りました。
まさにこの性急な裁判と執行こそが繆斌工作が「本物」だった証と論拠にしているケースもありますが、本物にせよ偽物にせよ、どのみち全ては遅すぎたのです。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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