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2018/11/12

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「一晩でスカイレイダーを設計した男、エド・ハイネマン」

飛行機の名設計者と呼ばれる人物の中でも、「自らが設計した飛行機を凡庸だとボツにしておいて、翌朝までに新設計を持ち込んで採用された」なんて人は、かつての名門ダグラスで数々の名機を作ったエド・ハイネマンくらいでは無いでしょうか。しかもその時採用されたのは名機A-1スカイレイダー攻撃機でしたし、他にも「ハイネマンのホットロッド」と呼ばれたA-4スカイホークも彼の作品です。







一晩でスカイレイダーを作った男

Ed Heinemann aircraft designer c1955.jpg
By The Flight magazine archive from Flightglobal, CC 表示-継承 4.0, Link

第2次世界大戦でいよいよアメリカなど連合軍がドイツや日本への総反撃を開始、戦争の行く末を決める大激戦が連日繰り広げられていた1944年のある日、アメリカの名門飛行機メーカー、ダグラスの設計者エド・ハイネマンはひどく悩んでいました。
海軍から発注を受けた新型艦上攻撃機、XBTD-1がどうにもならない低性能で、ロクな飛行機になりそうにも無かったのです。

元々は1941年に受注した複座の新型艦上爆撃機XSB2Dとして開発するも、モタモタしているうちに海軍の気が変わって「これからは魚雷を積む雷撃機も、急降下爆撃機も同じ飛行機でいいと思うんだよね? どうせ当たらないから後部銃座もいらないし」と言い出したので設計変更。
単座化して魚雷も積めるようにしたXBTD-1として初飛行したものの、原型XSB2Dの性能がイマイチでしたから、単座化したとて海軍が望むような軽快な攻撃機にはなりようが無かったのです。

それまでは海軍からコロコロ変わる要求に応じてきたものの、「だったら最初からその要求出してくれれば、それに合わせてもっとシュッとした飛行機作りますわー!」と、自らXBTD-1に失敗作の烙印を押し、新型機を作らせろ! と息巻きました。

それを聞いた海軍もカチンときたのか、「そんな事言ってキミ、3年たって未だにマトモな新型機できてこないじゃない? いいよ明日の朝まで設計してくるなら、審査してやるよ?」と無理難題で応酬します。
どうも売られたケンカを買ったような話になりましたが、そこからが天才ハイネマンの真骨頂、2人の助手とホテルにこもると要求通り翌朝までに設計図を作って海軍に持ち込んだのでした。

A-1H
By Fly-by-Owen投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

それから30年以上も第一線で使われる事になるプロペラ艦上攻撃機の大傑作、ダグラスAD(後にA-1)スカイレイダー誕生の瞬間です。

クビにしたダグラスに出戻ったハイネマン

1908年にアメリカはミシガン州で生まれたエド・ハイネマンはいわゆる『天才』でした。
ドイツあたりだと飛行機や自動車の設計者とは工学大学に通って偉い教授などに師事して設計技術を身に付けるのですが、ハイネマンは少年時代を過ごしたロサンゼルスで全く独学で、1926年に製図工として飛行機メーカーのダグラスへ入社するものの、わずか1年でクビになります。

しかしめげないハイネマン、その後インターナショナル・エアクラフトやモーランド・エアクラフトを経てノースロップ(後に傑作軽戦闘機F-5フリーダムファイター/タイガーIIやステルス爆撃機B-2を開発)に入社しました。
その頃には経験を積んでいっぱしの設計者となっていた彼は、後にダグラスSBD『ドーントレス』と名を変えミッドウェー海戦で日本空母を沈めまくった新型艦上爆撃機の設計チーフまで勤めていましたが、1937年にノースロップはダグラスに吸収合併されます(1939年別会社として再設立)。

ハイネマンはプロジェクトともども移籍したので、ダグラスにとっては「11年前にクビにした若い製図工が、設計チーフとして帰ってきた!」という驚きもあったと思いますが、本領発揮はまだまだこれからでした。

とにかくデカいエンジンでかっとばせ!

ハイネマンの設計ポリシーはごく単純、「使用可能な最大のエンジンで高性能を発揮する」。
もちろん燃費その他の兼ね合いも考えた上での『最大のエンジン』という意味でしたが、ダグラスに復帰してからのハイネマンが作ったA-20ハボック、A-26インベーダーといった陸軍航空隊向け双発攻撃機は、まさにこのコンセプト通りでした。

大馬力空冷エンジンを備え、小型ながら重武装だったハイネマン設計の双発攻撃機は、そのパワーにモノを言わせて低空を攻撃機らしからぬ高速で突進、機首や主翼の機関銃で地上や海上の目標を掃射し、爆弾でとどめをさすのにはうってつけ。

先に紹介したスカイレイダー艦上攻撃機も、頑丈でちょっとやそっとの機動では動じない、それでいてコンパクトな機体にB-29爆撃機と同じエンジンを1基装備し、重い爆弾や魚雷その他は主翼に多数設けたパイロンにぶら下げればいいという割り切りよう。
一晩で書き上げ海軍に提出した設計図は『あくまでデザインスケッチ程度』のものでしたが、スカイレイダー自体が単純明快な飛行機だったので、基本的にはその簡単な図解通りの飛行機だったと言って間違いありません。

パワーに余裕があったので「スカイレイダーが積んだことが無いのはキッチンだけだ」と言われれば朝鮮戦争では流し台を投下し、「さすがにトイレは無いだろう」と言われればベトナム戦争で便座を投下したりとやり放題。
戦闘機でも無いのに、ベトナムで迎撃に上がってきたMig-17を返り討ちにした記録が残るなど、一晩で考えた『ぼくのかんがえたさいきょうのこうげきき』でも、天才が作ると違うものです。

『ハイネマンのホットロッド』A-4スカイホーク

オーストラリア海軍 第805攻撃隊(VF-805 )のA-4G
By Nick Thorne投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

他にもF3Dスカイナイト艦上夜間戦闘機や、上昇力に優れていたので艦載機としてのみならず米本土防空用にも使われたF4Dスカイレイ艦上戦闘機、双発重艦上攻撃機A3Dスカイウォーリアーなどを作ったハイネマン。
AD(A-1)スカイレイダーに並ぶ傑作に、A4Dスカイホークもあります。

一応は軽攻撃機のジャンルにはいるスカイホークですが、空母へ搭載するのに主翼の折りたたみ機構が不要なほどコンパクトな機体にエンジンパワーはソコソコながら軽量化を突き詰めたので結果的にパワフル。
武装もたくさん主翼下へぶら下げられましたし、爆弾を落としてしまえば非常に軽快で漫画『エリア88』で活躍したそのままに戦闘機としても使われ、しかも低コストで済んだのですから理想的な飛行機で、アクロバットチーム『ブルーエンジェルス』でも使われたほど。

映画『トップガン』では背後から迫るF-14トムキャット戦闘機の目前でキリキリとバレルロール(急横転)を見せてかわすなど、超音速飛行性能を持たずレーダーなど電子装備が簡素なのを除けば最高のスカイホークは『ハイネマンのホットロッド』と愛されました。

晩年はF-16の開発総監督

アフガニスタンで作戦行動中のF-16
By アメリカ合衆国空軍 (United States Air Force). U.S. Air Force photo by Staff Sgt. Suzanne M. Jenkins – http://www.af.mil/News/ArticleDisplay/tabid/223/Article/466893/air-and-space-superiority.aspx, パブリック・ドメイン, Link

ベトナム戦争では、A-26インベーダー、A-1スカイレイダー、A-4スカイホークなどハイネマンが設計した飛行機が(ただ飛んで爆弾を落としたり敵機を落とすだけでなく)『実に役に立った』など、まさに本領発揮でした。

後にダグラスの社長となった後、ジェネラル・ダイナミクス社に移籍したハイネマンの最後の仕事はF-16ファイティング・ファルコン戦闘機の開発総監督。
小型軽量ボディにF-15イーグルと同じエンジンを1基搭載した『パワフルな機動性の鬼』F-16は何ともハイネマンらしい(さすがに図面を引いたわけではないと思いますが)作品で、世界中で使われるだけでなく初飛行から40年たった今も新規受注があるロングセラー機となりました。

なお、1991年に没したハイネマンは生前に航空機に関わるいくつもの賞を受賞しているほか、アメリカ海軍航空システム司令部が『エドワード・H・ハイネマン賞』を作り、毎年航空機設計に多大な貢献のあった個人や組織へ授与されています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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