- コラム
氷山を使って空母作る!?常識を疑うトンデモ兵器「氷山空母」!
2018/07/1
Gunfire
すごいー! たーのしー!
2018/10/24
菅野 直人
自陣営の新興国へ武器とともに人員を送り込み、軍隊の創設や強化を助ける『軍事顧問団』。東西冷戦時代にはアメリカやソ連、キューバが援助の一環として送り込む事が多かったのですが、国家として公的なものではないにせよ、戦後日本から送られた軍事顧問団があった、というお話。
By 中華民國總統府(總統玉照由國史館提供) – http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=71, Attribution, Link
1945年8月15日、敗戦。
第2次世界大戦で敗北を認め降伏した日本は、なかなか侵攻をやめなかったソ連軍とも9月2日の降伏文書調印(東京湾)までには完全に停戦し、『戦後』を歩み始めます。
当然、各地を占領していた日本軍もソ連軍によって抑留、シベリアで強制労働させられていた者を除けば帰国の途につくことになり、特に中国軍に降伏した地域では、終戦当時の『中国そのもの』だった中華民国の蒋介石総統が全面協力し、軍人・民間人問わず日本への帰国はスムーズに進みました。
その一方で中国では日本に対抗するための『国共合作』が崩れ、中華民国側の国民党軍と、後の『新たな中国』中華人民共和国人民解放軍となる、中国共産党軍による国共内戦が再開します。
内戦が激化するのは、満州からソ連軍が撤収して八路軍(後の人民解放軍)が支配地域を引き継ぎ、また第2次世界大戦中から汚職など腐敗がひどく、一部精鋭を除けば日本軍に対しあまりにも弱体だった中華民国を、アメリカが完全に見放していた時期。
しかしそれ以前、終戦直後から将来を見越した両軍からの「日本軍へのリクルート活動」が行われており、時には待遇で、時には大多数の日本人の帰還との交換条件として、国共いずれかに属して内戦を戦う旧日本軍兵士も大勢いました。
国民党軍は将兵の士気がアテになりませんし、八路軍は戦車や航空機など装備に欠け、いわば両軍とも決め手となる精強さに欠けた事が戦前からの国共内戦泥沼化を招いたのですが、装備が充実して戦えば強い旧日本軍は、両軍にとって必要な存在だったのです。
まず旧日本軍を有効に使ったのが八路軍側で、抑留した旧日本軍から航空機や戦車を自軍の戦力に組み込むとともに、その取扱いを指導する教官役として将兵を招き入れました。
旧日本軍将兵から指導を受けて装備を有効活用した八路軍は、『人民解放軍』と名を変えて大攻勢を開始、元より士気は高かったので各地で国民党軍を撃破、中国大陸のほとんどを勢力下に置いていきます。
一方、国民党軍も山西省でまとまった規模の旧日本軍および民間の日本人協力者を得て内戦を戦いますが、いかんせん国民党軍全体の士気は低く、援助をしても横流しされてロクに戦力強化へ繋がらない実態に呆れたアメリカが援助に消極的だったこともあって、敗退を重ねました。
福建省沿岸に追い詰められ、これ以上敗退すると台湾まで逃げるしかない、というところまで落ちぶれた中華民国(国民党)が日本へ助けを求めたのは1949年。
ただし当時の日本はもちろん連合軍(中華民国もその一員なのですが)の占領下にあり、国家としてはその統制下にあったので、もちろん国家をあげて正式に中華民国を助けることなどできません。
そこで中華民国が目をつけたのは公職追放で職につけず、食うや食わずやの日々を送っていた旧日本軍の将官たちで、まず終戦時に駐蒙軍(内モンゴル方面軍)司令官だった旧陸軍中将、根本 博と接触し、快諾した根本は台湾に密航します。
その後、終戦時に支那派遣軍第23軍参謀長だった旧陸軍少将、富田 直亮を団長として同じく密航したのが『白団』でした。
やや前後して中国に密航した2つの日本人グループは、いずれも中華民国よりの経済団体や旧軍人グループなど反共組織の後援を得て渡航、蒋介石と接触して信任を得ていますが、2つのグループ間に直接的な関係は無く、役割も異なったようです。
いずれも大陸で国民党軍が敗れると台湾へ拠点を移し、根本とその部下は福建省沿岸に台湾が維持する金門島防衛戦を指揮して中華民国軍大勝利という成果をあげて帰国したのに対し、『白団』はより高いレベルから長期間に渡って中華民国を支援しました。
すなわち、富田が『白鴻亮』など団員は中国名を得て、団長の中国名から『白団』を名乗るとともに、旧日本陸軍のカリキュラムを元とした中華民国軍士官に対する各種戦術、戦史、精神的教育を1950年より実施。
アメリカは国民党政権の台湾脱出こそ支援したものの朝鮮戦争(1950-1953年)の影響で中華民国への大規模な援助は中断しており、国共内戦に勝利して中華人民共和国を樹立(1949年)した中国共産党側も、朝鮮戦争への派兵で戦力を費やしていたため、中華民国軍には再建の余裕が生まれ、そこで『白団』からの再教育が大きくモノを言ったのです。
1952年になると、アメリカは台湾海峡の情勢安定化、何より中華人民共和国の共産党勢力拡大を嫌って台湾防衛の意志を固め、再び中華民国へ正規の軍事顧問団を派遣してきます。
そのため『白団』の役目は終わったかにも思えましたが、引き続き1965年まで高級将校への教育を継続しました。
By Solomon203 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
1965年になって、『白団』のほとんどはその役目を終えて日本に帰国しますが、なおも残留した少数の要員が1968年まで中華民国陸軍指揮参謀大学にて、教育訓練の策定や見直しに携わりました。
それだけでなく、民間企業に携わる退役軍人の集まりで、現在も台湾実業界に絶大な影響力を持つ『行政院国軍退除役官兵輔導委員会(退輔会)』の設立に尽力しています。
1972年には日中国交正常化により日本は中華人民共和国と正式な国交を樹立、台湾(中華民国)と国交を断絶してしまいますが、その後も非公式に台湾との関係を続行するための『中華民族支援日本委員会』設立には、やはり残留した『白団』メンバーの働きがありました。
団長の白鴻亮(富田 直亮)は最後まで白団団長、中華民国陸軍上将(大将)の座にあり、休暇で帰国した日本で1979年4月に死去した後、遺骨は分骨されて日台両国で安置されています。
2018年現在も台湾(中華民国)は親日国として日本人にも深く認識されていますが、正式な国交関係に無いも関わらずそうした深い親近感を抱いてもらえるのには、『白団』など旧日本軍の軍人による、台湾への長年の貢献もあってのことかもしれません。
「何で中国や韓国と異なり、台湾は親日なんだろう?」と不思議に思う人は、それだけの歴史があってこそ現在があるはず、とさらに詳しく調べてみてもいいかもしれません。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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