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2018/10/15

菅野 直人

奇跡の海戦史『あきらめられていた駆逐艦・涼月生還す』

太平洋戦争中、日本海軍の駆逐艦の中には魚雷などで艦首、あるいは艦の前半部をもぎ取られてなお帰還してくる駆逐艦が意外にも多数存在しました。一見すぐ沈みそうになくとも機関が止まれば運命は決まったも同然でしたが、浮力と機関さえ生きていれば意外なしぶとさを発揮したのです。しかし制空権も制海権も失った中、激しい航空攻撃を生き延び帰還、奇跡と言われたのが大和特攻に参加した駆逐艦『涼月』でした。







生還を見込めない最後の出撃、主計長すら退艦させる

Japanese destroyer Suzutsuki November 1945.jpg
By 米国陸軍航空隊, United States Army Air Forces – 学研 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.23 『秋月型駆逐艦』 P14, Gakken Rekishi Gunzo Vol.23 “Akizuki class destroyers”, パブリック・ドメイン, Link

1942年11月に三菱重工長崎造船所で竣工してから2年半。

数々の輸送作戦や海戦に参加し、1944年1月には雷撃で艦前半部と完備を喪失、つまり艦の大半を失ったかと思えば、修理が終わって早々の同年10月にはまた艦首に魚雷が命中して艦首を切断喪失。
修理のためマリアナ沖海戦にもレイテ沖海戦にも参加できず、修理の結果環境構造物などは簡易的になって同級艦と見かけが少々異なってしまうなど、秋月級防空駆逐艦3番艦『涼月(すずつき)』はいささか不運なフネでした。

あるいは「沈んでいておかしくない状況から2度も生還」という意味で幸運な艦かもしれませんが、同年11月に突貫工事で修理を終えて出撃しようとしたところ、新造接合した艦首から浸水して見合わせるなど、やっぱりどこか不運だったのかもしれません。

そんな煮え切らない戦歴を持つ涼月ですが、1945年に入ると帝国海軍最後の水上砲戦艦隊第2艦隊の1艦として、戦艦『大和』の護衛で瀬戸内海を定宿とします。
沖縄戦が始まって間もない4月5日、大和とともに海上特攻隊の1艦として出撃を命じられた涼月では、これまで不運にも損傷修理続きで、そのたび幸運にも? 沈まず済んできた涼月の運命もこれまでと艦長以下覚悟を決めました。

生還を見込めない最後の出撃に際し、戦闘要員の主力要員以外は極力残していこうと、艦の事務処理一切を請け負う主計長を退艦させた事からも、その覚悟が伺えます。

米機動部隊より大攻撃隊来襲! 相次ぐ被弾であえぐ涼月

1945年4月6日15時、最後の燃料補給を行った徳山燃料廠を後にした第2艦隊は沖縄へ向け出撃、19時50分には外海に出て、翌7日朝6時には第三警戒航行序列(輪形陣)へと艦列を整え、涼月は大和の左後方で対空警戒態勢を整えました。
やがて機関故障で僚艦『朝霜』が後落、戦わずして戦力が減少した第2艦隊へ12時32分からミッチャ-中将率いる米第58任務部隊から攻撃隊が飛来し、勝ち目の無い絶望的な対空戦闘が始まります。

雲高が低く接近前に十分な照準をつけるのも困難な中、自慢の九八式長10cm連装高角砲も有効な対空射撃ができず、大和だけでなく涼月も手当たり次第に襲いかかる米艦載機から激しい攻撃を受けました。
低空に降りてきた戦闘機から猛烈な機銃掃射を受け、急降下爆撃機の投下した爆弾を回避しきれず艦橋前に命中、海図室を破壊されて海図焼失、通信不能、ジャイロコンパス破損により艦位不明、一番、二番砲塔使用不能、艦首部電源喪失。

電源喪失で消火困難となり二番砲塔弾薬庫誘爆、大火災。
機関部にも損害を受け火災を起こしながら速力も20ノットに低下し、速力指示器も舵機も故障して航行・操舵困難となった涼月は、同じく副舵を損傷して操舵に支障を起こしていた大和と衝突寸前になり、何とか後進全速で回避するも、もはやマトモに大和の援護はできません。

結局、自らの沈没回避と機能回復に懸命になっているうち、目の前で大和は多数の命中弾により横転爆沈、まだ作戦中止命令は出ていない……というより通信不能で知る術の無い涼月は、進撃不能・戦闘不能として後退を決断します。

日本へ帰ろう!行方不明となった『涼月』、帰還のため奮闘す

帰還を決断した涼月ですが、過去の修理の古傷が癒えていなかったのか、損傷の割に艦前部からの浸水がひどく、とても前進を続けられないことが判明します。

それどころか艦首はほとんど海面下へ沈み、中央部すら甲板から海面までわずか数十cmという状態であり、艦のバランスが少しでも崩れればそのまま沈没しかねません。
やむなく機関に後進をかけ、海図もジャイロコンパスも失って現在位置も方角も不明なので、近くにいた僚艦『初霜』へ日本への方角を問い合わせると、後進でノロノロと日本への逆戻りを始めました。

艦長以下、帰るべき方角こそわかったものの、浸水でいつ沈没するかわからないまま不安に包まれての航行でしたが、なぜか浸水はそれ以上致命的な増加はせず、後進9ノットで安定した航行が可能。

その頃、大破して大量に浸水、ほぼ海面下にあった前部弾薬庫内では、内部に留まっていた3名の乗員が決死の防水作業を行い、自らが脱出できないのを承知の上で『内部からの補強』を行って、涼月に残されたわずかな前部浮力を守っていたのです。

彼らは後に窒息死した状態で発見されますが、決死の献身的行動を知らぬまま艦前部がなぜ沈まないのか不思議に思っていた艦長による操艦で、涼月は日本への帰路につきました。

なお、その間に初霜へ移乗した第二水雷戦隊司令部(旗艦『矢矧』は撃沈されていた)は作戦中止命令を受け取るとともに、僚艦『冬月』へ「涼月を護衛して帰還、それが困難なら乗員を収容して涼月を撃沈処分せよ」と命令しますが、冬月は涼月を発見できず、この時から涼月は行方不明、沈没したと思われ始めます。

鳴り響く佐世保軍港のサイレン、『涼月』帰還す

しかし、もちろん涼月はまだ沈んでいませんでした。
まだ生き残っている可能性を捨てない冬月からの援護要請に応じた航空隊の捜索機が、翌4月8日朝に佐世保へ向け後進で航行中の涼月を発見。
やがて民間の漁船か、それとも漁船改造の駆潜艇なのか、不明な小型船が「われ護衛する」と手旗信号を送りながら並走し、ついに14時30分に佐世保軍港へ到着したのです。

半ばあきらめかけていた軍港では狂喜してサイレンを鳴らし、大急ぎでタグボートを出して操艦困難な涼月の入港を助けます。
どうにか乾ドックへ入って沈没する心配の無くなった涼月は、ドックの排水中に待ちきれなかったように力尽き、ついにその場で着底したものの、とにかく沈没を免れて帰還したのでした。

結局、もはや資材も無い中で本格的な修理を断念、沈没しない最低限の処置のみでドックから出された涼月は以降の出撃を断念し、佐世保軍港の防空艦として終戦まで留まり、陸上から電線を引いて使用可能となった後部砲塔で空襲を迎撃。
乗員は近くに開墾した畑や借り受けた漁船で漁をして自給自足体制に入り、終戦を迎えます。

戦後も損傷で航行困難なため復員輸送任務にはつかず、1948年に解体、船体は福岡県北九州市の若松港で固定されて『軍艦防波堤』となりますが、後の工事で完全に埋め立てられて見えなくなり当時の面影はもうありません。しかし現在でも『涼月』はそこに残っています。



2018年10月、日本海軍駆逐艦『涼月』、未だ沈まず


菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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