- コラム
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菅野 直人
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菅野 直人
名機の影に名設計士あり。設計センスだけでなくパイロットとしての資質も高く「飛行機の事を良く知っている」ならばさらに言う事無しで、納得いく飛行機かどうか自分で確かめられる設計士は貴重です(もちろん、作った飛行機が失敗作でそのまま墜落死しちゃう事もありますが)。そんな名設計士にして名パイロットの代表といえば、ドイツのクルト・タンクでしょう!
By Photographer not identified, so UK Copyright contended to have lapsed 50 years after publication. – Aircraft of the Fighting Powers Vol VII Ed: O G Thetford Harborough Publishing Co, Leicester, England 1946., パブリック・ドメイン, Link
第2次世界大戦末期、1機のレシプロ戦闘機がドイツ上空を単機で飛行していました。
ドイツの国籍マークをつけたその機体は紛れもないルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)所属機と思われ、これを発見した米陸軍航空隊のP-51が2機、襲いかかろうとします。
見慣れない機体に戸惑いつつ接近したP-51が12.7mm機関銃の射程に収めようとしたその瞬間、ドイツ軍機のJumo213Eエンジンが吠えるとともに水メタノール混合噴射装置MW50が起動、緊急出力で増速したドイツ軍機は高く、速く飛び抜けていきました。
やがて未知のドイツ軍機が自身よりはるかに高速なことに気づいたP-51のパイロットは、悠々と飛び去るルフトヴァッフェの新型機『タンクTa152H-0』を呆然と見送るしか無かったのです……。
これはベルリン近郊での会議に向かうためTa152の試作機を飛ばしていた設計者が、自信満々「これより高速の連合軍機などいないよ!」と弾薬を積まず、高速のみで振り切ってしまったとされるエピソード。
設計者の名前はクルト・タンク。歴史的名機を生み出した設計者の中でも、自らの操縦で敵機を振り切ったのはこの人くらいなもので、それだけ自身の設計した飛行機と、操縦の腕に自信を持っていたことになります。
By Bundesarchiv, Bild 183-L18396 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
ドイツの航空エンジニア、クルト・タンクは1898年生まれ。
父親の影響で騎兵として第1次世界大戦に出征したものの、当時花形になりつつあった航空隊へ転科を希望、しかしあまりにも有能だったので部隊長が転属を許可してくれず、結局その戦争中に2度の負傷と同じ数の勲章をもらって退役したという実戦経験の持ち主。
激戦のさなかでも戦後を見据えて理系の参考書片手に勉強を欠かさなかったため、戦争が終わって復員するとベルリン工業学校に入学、しかし敗戦国だったドイツでは一時期飛行機の研究開発が認められていなかったため、なかなか航空エンジニアの道に進めません。
こうした回り道にもめげず、航空工学の講義が再開されるや早速受講すると共にグライダー研究会で自ら設計したグライダーを操縦し、小型機の免許まで取ったと言いますからまさに「水を得た魚」だったのでしょう。
卒業後は飛行艇メーカーのロールバッハにテストパイロットとして就職しますが、設計者として雇ってもらえない不満か飛行艇が肌に合わなかったのか4年で退職。
その後、BFW(バイエルン航空機製造。後のメッサーシュミット。)に転職して設計主任となるも、同じ年(1898年生まれ)の副支配人ウィリー・メッサーシュミット(後にメッサーシュミットBf109を開発)の設計した飛行機が今ひとつスカタンで、BFWはタンクの転職後わずか1年半ほどで倒産してしまいます(2年後に再建)。
ああこれで何度目の回り道か!? それでもめげないタンクは1933年、フォッケウルフ社に転職して、ようやくここで運気が向いてきます。人間あきらめないのも時には肝心です。
タンクが入社した頃のフォッケウルフは1923年に創業したものの未だヒット作に恵まれない新興の零細航空機メーカーで、創業者のうちテストパイロットのゲオルグ・ウルフは1927年テスト飛行中に墜落死。
残る設計担当のハインリッヒ・フォッケは当時まだ将来性の見えなかったオートジャイロやヘリコプターに熱中していたのを株主に咎められた挙句に会社を放り出されていました(後にヘリコプターメーカーのフォッケ・アフハゲリス社を創業)。
そこに設計部長として就任したタンクは必然的にフォッケウルフ社の開発トップとなり、ここでようやく自分の理想とする飛行機を作れる立場になったのです。
とはいえ、それまで鳴かず飛ばずな上に当時のドイツで支配権を握ったナチス党にもコネが無いフォッケウルフ社でしたから、まず地道に実績を作らねばなりません。
タンクの商業的初設計作となった複葉スポーツ機Fw44がヒット作となり、パラソル翼の練習機Fw56も性能良好で再軍備宣言直後のドイツ空軍に採用。
Fw56をベースに引き込み脚を採用し、旧態依然のパラソル翼機なのに妙なほどスマートでスッキリ、しかしやはり構造的に古すぎて低性能(何しろライバルがBf109などなので……)なFw159は採用されず失敗作となったものの、心機一転4発旅客機のFw200コンドルが成功して名を上げます。
その後も双発戦術偵察機Fw189(採用)や、ドイツ空軍の都合もあって不採用だったものの高性能を発揮した双発重戦闘機Fw187を開発。
大型旅客機から小型スポーツ機まで開発するマルチプレイヤー、しかも自分が設計した飛行機は基本自分でも飛ばさないと気がすまない(Fw200開発中、4発機の飛行免許を取得)タンクの才能は、いよいよこの後本格的に開花します。
タンクの設計センスがメキメキと頭角を表した頃、ドイツ空軍は大きな悩みを抱えていました。
新型主力戦闘機としてメッサーシュミットBf109を採用したものの、同時開発された他メーカーの試作機(前述したFw159を含む)はいずれも性能不足か量産に不向きな構造。
おまけに要求仕様上の事とはいえどれも液冷エンジンだったため、同じエンジンを採用する戦闘機ばかりでは設計上の欠陥や生産能力の問題が発生した時に対処できません。
そこで空冷エンジンを採用してBf109を戦力面だけでなく生産面でも補助できる『第2の主力戦闘機』を欲したドイツ空軍の要求に応じ、タンクが開発したのがフォッケウルフFw190です。
By Oberkommando der Luftwaffe, Der Chef der technischen Luftrüstung. Diesing – Technische Dienstvorschrift
Fluzgzeughandbuch FW190, VSnfD, D.(Luft)T.2190 A-7 bis A-9, Teil 8c,
Sonderwaffenanlagen 21cm BR, Stand Juni 1944, パブリック・ドメイン, Link
Fw190はタンクのそれまでの設計経験、そしてパイロットとしての経験をフルに活かした実用性の高い機体で、直径は大きいものの大馬力で高速重武装が可能なエンジンを採用し、爆弾などを大量に搭載しても平気で非舗装滑走路から離着陸できる、頑丈でトレッド(左右車輪間隔)の広い主脚を持っていました。
タンクが目指したコンセプトはそのものずばり『軍馬』で、エンジン直径が大きく主脚も長い尾輪式の飛行機なため、離着陸時の視界に難がある以外は素晴らしい高性能と操縦性を発揮。
1941年から実戦配備が始まるやイギリス空軍の主力戦闘機スピットファイアを圧倒し、『第2の主力戦闘機(補助戦闘機)』どころか、Bf109を上回る傑作機としてドイツ空軍のパイロットからは大好評、連合軍パイロットを恐怖に突き落としたのです。
そのFw190は空冷エンジンのまま戦闘爆撃機化したタイプ(Fw190Fなど)と、より高性能の液冷エンジンを搭載した戦闘機型(Fw190D『長っ鼻のドーラ』)に分かれ、後継機開発に失敗したメッサーシュミットBf109が依然ドイツ空軍主力の座を占めていたものの、ドイツ最強戦闘機として飛び続けました。
その功績からタンクは自身の設計した飛行機に『Fw』ではなく『Ta』のメーカー記号をつける栄誉が与えられ、Fw190Dをさらに発展させた高速戦闘機タンクTa152は『レシプロエンジン戦闘機時代最高傑作のひとつ』と後世まで讃えられるようになります。
このタンクの才能を支えていたのが『自らも優れたテストパイロットだった』という事実で、日本でも海軍航空技術廠の鶴野 正敬 大尉が局地戦闘機『震電』やその実証機MXY6を開発、MXY6の操縦桿は自ら握った『空飛ぶエンジニア』として有名です。
エンジニアが必ずしもパイロットでなければ、というわけではあありませんが、自ら操縦桿を握った経験から飛行機には何が必要かを理解し、さらに自らテスト飛行までこなせれば、問題の理解も素早くなります。
ドイツが第2次世界大戦で負けた後、アルゼンチンに渡ってジェット戦闘機『プルキーII』を開発していたタンクが離着陸性能についてのクレームをつけられた時、そんなバカな! と自らテスト飛行して本当に問題があったのを確かめたのは、自ら操縦できないエンジニアには真似のできない話です。
プルキーIIは当時としては高性能戦闘機だったにも関わらず(アメリカのF-86セイバーやソ連のMig15並の性能だった)、アルゼンチンの政情不安が災いして実用化に至りませんでしたが、その後インドに渡ったタンクはジェット戦闘機HF24マルートを開発。
マルートは当時のインドを取り巻く諸事情から高性能エンジンが手に入らなかったため性能は凡庸だったものの、設計自体は当時の技術水準を満たして第3次印パ戦争(パキスタン本国からの独立を望む東パキスタンをインドが支援したバングラデシュ独立戦争)でも活躍。
タンクが設計したFw190以来の『軍馬』として1985年までインド空軍で現役にあり、それが名設計者クルト・タンク最後の設計作となりました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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