- コラム
軍事学入門「攻撃空母とは何か?海上自衛隊空母保有議論の歴史」
2019/02/1
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/08/31
菅野 直人
戦争の終わり方には様々な形がありますが、もっとも悲惨な形のひとつが『国家の降伏』です。個別の戦闘で生じる『軍隊の降伏』とは異なり、国家そのものの降伏はその瞬間から戦勝国による支配を受け入れ、あるいは国家そのものが消滅しますし、国家として存亡の危機に追い込まれるまで戦い切ったケースが多いためです。今回は割とメジャーな『降伏した国』の例を見てみましょう。
第2次世界大戦での枢軸国(日本・ドイツ・イタリア・タイ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランド・ブルガリアなど)の中でもっとも早く、1943年9月8日に降伏したのはイタリアでした。
元々イタリアは枢軸主要3国(日本・ドイツ・イタリア)であるにも関わらず第2次世界大戦に参戦する準備が全く整っておらず、ドイツのヒトラーからも「イタリアは参戦しなくてよい」と言われていたくらいです。
それなのにドイツ軍がフランスに侵攻してその命運が風前の灯となるや1940年6月10日に参戦、ドイツがイギリス本土決戦で勝つのを見越してフランスからの領土割譲や、勢力を失うイギリスからエジプトなど中東・バルカン方面を奪い取ろうとしました。
しかし結果は散々なもので、イタリア軍は決して巷の噂ほど弱かったわけではなく各戦線で善戦したものの、そもそも準備ができていないところに国家指導者のムッソリーニが無理な命令ばかり連発したため、士気は最悪で戦争に必要な物資もすぐに底を尽きてしまいます。
それで勝っていればともかく、ドイツ軍のテコ入れを受けてもなお負け続けたのですから軍部どころかファシスト党からさえも愛想を尽かされ、ついにムッソリーニを解任して逮捕、バドリオ政権を樹立して連合軍に降伏を申し出ました。
イタリアとしては「ドイツと手を切って戦争からイチ抜けするから休戦してくれ」と虫のいい要望を出しましたが、カサブランカ会談(1943年1月)で「枢軸国には無条件降伏しか求めない」と決めていた連合軍はそれを拒絶。
さりとて今更戦争を続ける気も無かったイタリアのバドリオ政権は渋々ながら無条件降伏を受け入れますが、当然ながら黙っていないのがナチスドイツです。
『ヒトラーの盟友ムッソリーニ解任とイタリアの裏切り』を知ったヒトラーはただちにイタリアの占領とイタリア軍の武装解除を指示、ムッソリーニを救出して『イタリア社会共和国』という同盟国を作る段取りをつけました。
しかし、イタリア降伏直前の9月3日、連合軍は既にイタリア本土南部に上陸を始めており、降伏翌日の9月9日には主力もサレルノに上陸してイタリア本土を北上、ドイツ軍は事前にイタリアを掌握する準備ができていたとはいえ、連合軍への対処と同時進行を強いられます。
結果、イタリアは連合軍が占領した南部と『イタリア社会共和国』の北部に分断され、1945年5月の終戦間際まで戦い続ける事となりました。
イタリア軍もドイツ側についた『イタリア社会共和国軍』と、連合軍側についた『イタリア共同交戦軍』に分かれた上に、昨日までの同盟国軍と戦う羽目になった共同交戦軍は降伏した国の軍隊として『同盟国軍』として扱われなかったのです。
結局、降伏したイタリアは日本へも宣戦布告するなど連合国側についた事をアピールしましたが、ドイツや日本が連合国と降伏文書を調印する時も呼ばれず、戦後も連合国ではなく敵国条項に含まれた国(枢軸国)だったため、1955年まで国連にも加盟できませんでした。
『都合が悪くなったら手を上げれば許されるかと言えば、そうでも無い』ことをもっともわかりやすい形で証明したのが、イタリアの降伏です。
ポーランド侵攻(1939年9月)で第2次世界大戦を勃発させ、一時はイギリスやソ連すらあわやというところまで追い込んだドイツですが、1944年6月にソ連のバグラチオン作戦、アメリカやイギリスなど西側連合国のオーバーロード作戦によって、東西から猛烈な攻勢を受けます。
それから1年近くがたつと、ヒトラー総統自殺(1945年4月30日)、首都ベルリン降伏(同5月1日)、そしてついに1945年5月8日にドイツは無条件降伏しました。
降伏したドイツでは、自殺したヒトラーから後継指名を受けたデーニッツ海軍元帥がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のフレンスブルクで政府機能を立ち上げていましたが、連合軍はこの『フレンスブルク政府』を認めず、5月23日には政府全員が逮捕されてしまいます。
以後、ドイツ全土と首都ベルリンはアメリカ・ソ連・イギリス・フランスのヨーロッパ主要戦勝国に分断統治され、ドイツ以外のヨーロッパ枢軸国がパリ条約(1947年2月)で正式に平和条約を結んでからも、ドイツは軍政下に置かれて国家の体を為していなかったのです。
各所で連合軍に降伏したドイツ軍は捕虜となり、ソ連軍に捕らわれた者は強制収容所送りになりましたが、では西側連合軍ならば待遇が良かったのかと言えば、そうとも言えません。
一旦捕虜収容所に集められた旧ドイツ軍の将兵は粗悪な食事やマトモな宿舎も無い状況で衰弱した上に、銃をつきつけられながら地雷の撤去をさせられたりと、なかなか家に帰してもらえなかったのです。
元々自分たちがまいた種とはいえ、単純に祖国防衛のため身を投じた兵士などまで区別なく使役されたのは人道的とは言い難いものでしたが、何しろ敗戦国ですし、自分たちに代わり権利を主張してくれる政府もいないので、どうにもなりません。
おまけにフランスを筆頭に「二度とドイツが戦争できないようにするしかない!」と、ドイツから工業生産力を奪い取って貧しい農業国にする方針すら存在しましたが、結局東西冷戦の最前線となったことで、皮肉にも今度は戦勝国が助けてまで復興を果たします。
1949年5月に西側連合国占領地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、同10月にソ連占領地域がドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立し、冷戦終結により1990年10月にドイツ再統一がなされるまで分断状態が続きました。
第2次世界大戦で最後まで戦った日本は、1945年8月15日の玉音放送でポツダム宣言受諾(無条件降伏)を宣言、同9月2日に降伏文書に調印して、ようやく2度目の世界大戦は終わりました。
直後からアメリカとイギリスを中心とした連合軍による進駐が始まり、大日本帝国は存続したもののGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれます。
つまり、天皇制は存続したものの、天皇を含めた日本の全てが連合国の管理下に置かれ、陸海軍の廃止、主要4島(北海道・本州・四国・九州)と周辺の小島を除く領土からの行政権差し止めなどが行われ、日本は『連合国占領下という箱の中で飼われた囚人』という状態に。
1947年5月に日本国憲法が施行されて現在の『日本国』が誕生、名実ともに『大日本帝国』が消滅したのも占領下での出来事です。
1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効して『占領下の日本』が終了、国際舞台での主権が回復されるまでは、国内での行政こそ日本人が自分たちでやっていたものの、それを保証していたのは連合国であり、全て連合国の許可が必要でした。
その後も1956年10月の日ソ共同宣言までソ連との戦争状態は終わらなかったため同年12月まで国連に加盟できず、共同宣言後も平和条約による国境線画定がなされていないため、ソ連が崩壊してロシアが存続した今も、北方領土は日本に帰ってきません。
それだけでなく、アメリカの軍政下から日本への復帰もだいぶかかり、奄美(1953年12月)、小笠原(1968年6月)と軍事的重要性が低いところから復帰できましたが、沖縄は1972年5月にようやく返還されたものの、米軍基地がかなりの面積を占める状況は今も続いています。
日本のケースは、最終的に本土決戦で政府や自治体の行政機能が維持されているうちに降伏したので、最後まで戦い続けた上に憲法まで変えられ国が大きく変わった割には、『日本人が何かを決められた余地』は比較的大きかったと言えるかもしれません。
ただ、それも結局はドイツのケースと同様に冷戦が大きく影響しており、朝鮮戦争で実際に激しい戦火がすぐ目の前にあった事からも、『もし最前線でなければ、こう早く降伏から立ち直れなかったのではないか』とも言われます。
1955年10月に南ベトナム(ベトナム共和国)が建国されて以来、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)とそれを支援する北ベトナム(ベトナム民主共和国)による『ベトナム戦争』が長く続いたベトナムですが、1965年からアメリカが直接介入すると戦闘は激化します。
1973年1月にはパリ和平協定が結ばれ、戦争は終わった……かといえばそんなことは無く、単にアメリカが手を引いて南ベトナムの力が弱まった反面、北ベトナムは体制を立て直し、アメリカが本当に再介入しないかどうか、慎重に見極めていました。
そしてアメリカが本当に手を引いたことを確かめると、北ベトナムは1975年3月に南ベトナムへの全面攻撃を再開、もはや支援を受けられない南ベトナムは敗退を重ね、同年4月下旬には首都サイゴン(現在のホー・チ・ミン市)に迫られます。
首都の国際空港にまで猛烈な砲撃が行われる中、アメリカ軍がようやく駆け付けたものの、南ベトナムを支援するためではなく在留アメリカ人を救出するためだけでした。
その間、もはや敗北は不可避と悟った南ベトナム政府は何度も北ベトナムに和平交渉を要求するものの、戦争で勝てば済む北ベトナムはこれを拒否。
結局、北ベトナムが不信感を持つ政治家が何人か大統領を交代した後で、同年4月30日午前中に最後の大統領の座を押し付けられた長老格のズオン・バン・ミンが無条件降伏を宣言しました。
それでも北ベトナム軍は止まらず、午前11時30分に大統領官邸に突入した戦車隊によって、最後の南ベトナム政府首脳は逮捕されてしまいます。
これで長きにわたったベトナム戦争も終結、北ベトナムによって南ベトナムは併合され、統一ベトナムの始まり……かと思えば、そうではありませんでした。
実は最後の攻勢を始めた時点で北ベトナム政府首脳もまさか南ベトナムがこれほど弱体化しているとは思わず、あと数年戦って1980年頃には勝てるだろう、くらいの準備をバッチリと蓄えていたのですが、アッサリ統一が実現したので準備が無駄になってしまいます。
おまけに捕虜になった南ベトナム軍人、これまで南ベトナム国内でゲリラ活動に従事してきたベトコンのメンバーは、そのままでは特にやる事もありません。
彼らの社会復帰や国内の立て直し、そして統一国家の国威発揚をどうしたらいいか……統一ベトナム政府が選んだのは何と、『内戦が続く隣国カンボジアへの侵攻』でした。
1976年に南北統一を済ませると、ありあまる物資弾薬兵器と余剰人員を注ぎ込んでカンボジア内戦に介入し、1978年12月にはベトナム軍が直接越えてカンボジアへ侵攻してクメール・ルージュ政権を打倒、血胸1989年に撤退するまで戦い続ける羽目になったのです。
この行動は国際社会から大きな非難を受けたので、『アメリカを相手に戦う小国への同情』で稼いだポイントを一気に失い、国威発揚どころではなくなっただけでなく、旧南ベトナム軍やベトコンにいてようやく戦争が終わったと思っていた人々も大勢犠牲になりました。
負けたかと思えば戦勝国の支配下でさらに泥沼の戦争に追い立てられた旧南ベトナム軍人も大変でしたが、国際的な制裁下で貧しくなったベトナムからは、小舟に乗って海外に避難しようする難民『ボートピープル』も数多く旅立っています。
今は平穏無事な国となっているベトナムですが、それはここ30年ほどの地道な改革の中で、ゆっくり達成された事なのです。
なお、南ベトナムは消滅したものの、未だに社会主義共和国の体を取っている現在の統一ベトナムに反旗を翻す『自由ベトナム臨時政府』が1995年にアメリカで成立、2018年現在は誰が元首なのか、どこまで真面目な活動なのか不明になっていますが、まだ無くなったという話は聞きません。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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