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2018/08/29

菅野 直人

奇跡の海戦史「戦後もっとも長く現役だった徴用商船~三船殉難・第二号新興丸帰還す」

1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を宣言する玉音放送によって太平洋戦争は終結したはずで、実際アメリカやイギリスなど西側連合軍の攻撃は止んでいましたが、一方でソ連軍は侵攻をやめず、日本軍も停戦を受け入れてもらえるまで自衛戦闘を続けていました。その最中の8月22日、ソ連海軍のものとみられる潜水艦と南樺太からの引揚船が交戦する『三船殉難事件』は起きました。







ソ連軍停戦せず。自衛戦闘を続行する日本軍


1945年8月9日、ソ連は日本へ宣戦布告して満州(現在の中国東北部)に侵攻を始め、日ソ戦が始まりました。

当時の日本は太平洋戦争末期。関東軍など中国大陸各地の日本軍部隊も南方に引き抜かれ、各所で撃破、あるいは日本本土の連絡線を絶たれて孤立しており、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄が陥落するに至って本州など主要4島すら丸裸になっている状態で、とても対ソ戦どころではありません。

それでも根こそぎ動員で頭数だけは揃えた満州の日本軍でしたが、ヨーロッパ戦線でドイツ軍を撃破したソ連軍に対抗できるわけも無く、各所で避難民もろとも揉み潰され、あるいは戦線を突破されていきました。
さらに、それまで中立国だったソ連に連合軍との和平を仲介してもらえるよう期待しており、そのために本土決戦まで粘ろうとしていた日本にとってはもはや戦争継続の意味が消滅した瞬間でもあります。

ソ連参戦翌日の8月10日には、連合軍(参戦によりソ連も加わった)が無条件降伏を求めた『ポツダム宣言』受諾を決定、中立国経由で連合軍に通知、8月15日に昭和天皇による『玉音放送』が行われた時点で、終戦が確定しました。

しかし、戦争終結までに実効支配範囲を少しでも広げたいソ連は、アメリカやイギリスなど西側連合国とは対照的に8月15日以降も戦闘を継続し、日本軍が自発的に武装解除して停戦するのを待たず、攻撃して占領する道を選んだのです。

玉音放送を聞いて戦争は終わったものと考えていた各地の日本軍は、停戦の軍使を惨殺してまで侵攻してくるソ連軍に戸惑いながらも、認められた範囲での『自衛戦闘』を継続しました。
何しろ、相手は武装解除しに来るのではなく、砲撃や爆撃の支援を受けつつ、本格的に撃ちまくり進撃してくるのですから、否応がありません。

南樺太発・避難民を逃がせ!

満州侵攻から若干遅れた8月11日、北樺太から国境を越えたソ連軍によって樺太戦は始まりました。

進撃ルートが狭く一度に押し寄せる戦力が限られた事もあり、南樺太を守備する第88師団と現地住民による国民義勇戦闘隊は健闘したと言えますが、何しろ許されているのは自衛戦闘のみであり、積極的な反撃が控えられた事から、次第に劣勢となります。

それでも北海道が宗谷海峡を挟んで目と鼻の先な事から避難民の疎開は積極的に進められ、疎開列車やトラックで集められた避難民が南部の真岡や大泊、北斗などから海路脱出させたのです。
脱出に使われた船舶は従来から北海道(稚内)と南樺太を結んでいた稚泊連絡船や稚斗連絡船のほか、居合わせた貨物船、商戦改造の特設砲艦、さらには海防艦など戦闘艦まで投入され、南樺太から7万6千人ほどを避難させます。

日本軍は8月23日に武装解除を終えるまで自衛戦闘を続けて避難の時間を稼いだとはいえ、基本的には攻撃されなければ反撃しないというスタンスでしたが、ソ連軍は白旗に赤十字旗まで上げた救護所を爆撃するなど、徹底した攻撃を加えてきました

もちろん、南樺太から逃れようとする避難民を乗せた艦船にも、容赦ない攻撃が加えられたのは、言うまでもありません

三船殉難、第二号新興丸反撃す

玉音放送後も攻撃を止めないソ連軍から住民を逃がすため、大泊から出航して北海道へ向かった船舶に対し、ソ連軍は空爆のほか潜水艦で無差別攻撃を行いました。
これらは結果的に1度も身分を明かして停船指示や臨検も何も行わなかったため、『国籍不明の潜水艦』とされていますが、当時この海域で日本軍の船舶を攻撃する船舶などソ連海軍のものしかありません。

引揚船の方も、目と鼻の先の稚内ではさらにソ連軍が攻めてくる恐れもあり、乗客の避難民はほとんどがより遠い小樽などまで乗船することを望み、結果的にはそれがソ連潜水艦の攻撃を招き、3隻の船が攻撃を受けました。

8月22日午前4時、小樽に向かっていた逓信省の海底ケーブル敷設船『小笠原丸』が突然潜水艦の雷撃を受け、600人以上の乗員乗客もろとも沈没。
同日午前9時52分には、ソ連潜水艦『L-12』とみられる国籍不明潜水艦が浮上しているのを貨物船『泰東丸』が視認、無警告でいきなり砲撃してきたため、戦時国際法に従い白旗を上げるも砲撃はやまず、同船は撃沈されて乗員乗客667人が死亡しました。

唯一抵抗したのは、海軍に徴用されて特設砲艦となっていたため、武装していた『第二号新興丸』。

8月20日夜に避難民約3,600人を乗せ大泊を出航、小樽に向かっていた同艦は8月22日午前5時過ぎにソ連潜水艦『L-12』および『L-19』とみられる国籍不明艦を発見直後、無警告で放たれた魚雷1本が命中、すぐ沈まないとみるや砲撃を加えてきます。

しかし、『第二号新興丸』は商船改造とはいえ、仮にも武装した戦闘艦です。この時点では既に自衛戦闘を含む全ての戦闘が禁じられていたとはいえ、相手は『国籍不明の潜水艦』ですし、攻撃してくるからには身を守らねばなりません。

避難民に300人前後の死者・行方不明者を出しながらも、その避難民からの協力も得て反撃を開始、12cm砲や25mm機銃で応戦すると『国籍不明の潜水艦』は思わぬ反撃に動揺したのか去って行きます。
どうにか沈没を免れた同艦は、救援要請に応えて飛来した日本海軍の水上偵察機が援護してくれたこともあり、どうにか留萌港に入港することができました。

潜水艦を『撃沈』? 戦後も長く現役にあった第二号新興丸

三船殉難の引き起こしたとみられるソ連潜水艦のうち、『L-19』は帰還しませんでした。
後に宗谷海峡で機雷に接触して触雷沈没したとされましたが、その最期は判然としないことや、第二号新興丸の反撃で命中弾が目撃されていることから、帰路に浸水が拡大してダメージコントロールなどに失敗した結果、沈没した可能性も。

その場合、第二号新興丸は『日本海軍で最後に撃沈戦果を挙げた艦』となりますが、ソ連がその崩壊後のロシア時代も含め、この攻撃を公式に認めていなかったことや、日本側も戦闘行為を禁じた後のことであり、『幻の海戦』扱いになっています。

なお、最後までソ連軍に抵抗して帰還した第二号新興丸は、その後修理を受けて武装を撤去し、復員輸送艦となり、1946年8月に徴用解除されると民間船に戻ったため、軍艦としての賠償引渡や解体を免れ民間船舶に復帰。
戦後の樺太・千島からの日本人引き上げに従事した後、船主を変え名前を変え、機関をディーゼルエンジンに換装するなど近代化改装を経て現役を続け、最後はパナマ船籍で華僑の保有する商船として、1992年に船籍を抹消されました。

少なくとも1975年頃までは普通に運航されていたようで、どの時点で解体されたのか、あるいは解体されず今でもどこかにその姿を残しているのか判然とはしませんが、太平洋戦争を生き延びた日本の商船としては、最後まで商業航海に使われていた船とされています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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