- コラム
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菅野 直人
1945年8月15日の玉音放送後、米英など後の西側連合軍は日本軍への攻撃を停止したものの、停戦命令が出ていないことを理由に自衛戦闘を継続した日本軍の一部や、日本軍が武装解除しているかどうかに関わらず攻撃を継続したソ連軍は戦闘を続けました。中でも満州や樺太と並ぶ激戦地となったのが千島列島最北部にある占守島(しゅむしゅとう)で、ここでは日本陸軍の『戦車隊の神様』と言われた池田大佐が戦車第11連隊を率いてソ連軍に大打撃を与えました。
By 不明 – http://ameblo.jp/create21/entry-10357137102.html, パブリック・ドメイン, Link
1900年愛知県生まれの陸軍軍人、池田 末男(いけだ すえお)。
憲兵少佐だった父、陸軍中将まで上りつめた兄を持つ軍人一家で育ち、陸士34期(陸軍士官学校第34期)を1922年に卒業し、当初の兵科は『騎兵科』。
騎兵中隊長として1932年7月に騎兵第27連隊に配属されますが、満州事変(1931.9-1932.2)への出撃と、激戦の中で古賀連隊長が軍旗を守って戦死した戦いなどが全て終わってからの配属で、同連隊が機械化されて捜索第19連隊となった頃には、既に転属しています。
その後も実戦での目立った経歴は無く、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校の教官などを歴任し、兵科も騎兵から砲兵へ転向しますが、1940年に日本陸軍では憲兵を除く『兵科区分』(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵)を廃止したので、どこで戦車に転向したかは不明。
ただ、1941年11月に満州にあった公主嶺陸軍戦車学校、後の四平陸軍戦車学校の教官となって、1944年7月には校長代理にまでなっていますが、やはり教官勤務ばかりで戦績がありません。
従って、『戦前から戦車隊の神様と呼ばれていた』と散見される根拠が今ひとつ不明で、洗車学校教官時代に『キ戦車隊教練規定』という教本を作ったくらいです。
戦前・戦中を通して「戦車隊の神様」と呼ばれる元になったエピソードが見当たらないので、もしかするとこの呼び名は後述する占守島戦を経ての話かもしれません。
あるいは、『坂の上の雲』などで著名な作家、司馬 遼太郎(しば りょうたろう、本名は福田 定一で終戦時は陸軍少尉)をはじめとする戦車学校出身者にとっては『神様』だったのかもしれませんが。
By NASA – ISS Expedition 4 crew – Original source: https://eol.jsc.nasa.gov/SearchPhotos/photo.pl?mission=ISS004&roll=E&frame=11696
cs.wikipedia からコモンズに sevela.p が移動されました。, パブリック・ドメイン, Link
池田は戦局悪化で本土防衛強化が叫ばれている真っ最中の1944年12月、第91師団・戦車第11連隊長として占守島(しゅむしゅとう)に着任します。
派手なところが無く、上官風を吹かせて偉そうにもしない『武人』だったようで、連隊長としての布達式(任命式)では吹雪の中を机の上に立ち尽くして挨拶し、真冬には極寒の占守島でありながら、当番兵に「お前は俺に仕えているのか? 国に仕えてるんだろう?」と言って、自分で洗濯していたというエピソードも。
そしてこの占守島、北海道東部から北方地域(現在の北方領土)を経て北東に伸びる千島列島の最北部に位置し、1943年にアメリカのアリューシャン列島にあるアッツ島が玉砕、キスカ島から撤退後は、文字通り『北の最前線』でした。
そのため戦局悪化とともに防衛体制が強化され、新編成された第91師団は最北部で面積の広い幌延島に主力を置き、その北東でカムチャツカ半島最南端とは目と鼻の先の占守島には、戦車第11連隊を含む精鋭を配置します。
当初はまだ日ソ中立条約が有効だったこともあって、あくまで対米戦備を整えており、実際アリューシャン方面から米軍機が空襲に飛来することもありましたが、悪天候が続く地域ということもあり、弾薬や食料の備蓄は十分で、占守島にも民間人が多数いる水産工場が操業していました。
そういう意味では、最前線とはいえ『戦争するほど天気のいい場所じゃない』というところで、比較的ノンビリした地域、言い換えれば『日米ともに忘れられた最前線』だったかもしれません。
1945年8月9日、ソ連が日本に突如宣戦布告、満州や南樺太にソ連軍が攻めて来ても、その状況はすぐには変わりませんでした。
ソ連軍から初の攻撃があったのは8月14日、占守島に対岸のカムチャツカ半島から砲撃を受けましたが、翌8月15日には玉音放送が流され、占守島守備隊も戦争が終わったことを知ります。
第91師団は北海道に司令部を置く上部組織、第5方面軍から「18日16時で停戦してソ連軍に軍使を送るが、自衛戦闘は妨げず」という指示を受けるも、戦争は終わったのでソ連軍が攻撃してくるとも思わず、武装解除を進めていたのです。
しかし、15日にはソ連軍機とみられる国籍不明機からの爆撃、17日にも空襲や砲撃があったので、日本軍は武装解除を進めながらも警戒を強めました。
そして18日午前2時半に『まさかの事態』ソ連軍による上陸作戦が突如開始。
通常、このような場合の手順としては、軍使を交わして停戦と武装解除、引渡しの段取りを組むところ、突然武装した兵士が上陸してきたのですから、日本軍としては終わった戦争とは別に、侵略に対する自衛戦闘を行わざるを得ません。
沿岸防備部隊は激しい砲火でソ連軍上陸部隊に損害を与え、ソ連側も艦砲射撃で応酬する激戦が始まりました。
この時、池田率いる第11戦車連隊は武装解除のため戦車から燃料を抜いて弾薬を下ろし、砲を取り外す作業の途中だったものの、警戒していたとはいえ予想外の防衛戦闘開始に、急遽出動準備を整えます。
準備のできた戦車(九七式中戦車改と九五式軽戦車)から戦場に向かわせる慌ただしさでしたが、ついに「戦車隊の神様」が、その本領を発揮する時が来たのです。
準備のできた戦車から出撃して集結している間に、第5方面軍からは反撃許可とソ連軍撃滅命令が届き、第91師団は戦車11連隊に対してソ連軍への突撃命令を出しました。
既に沿岸防備部隊を迂回して内陸部に浸透、『四嶺山』という高台を占領していたソ連軍に対し、連隊長の池田は拙速を重んじ、集結していた戦車のみで突撃をかけます。
この時、池田はこのように訓示して、士気を高めました。
『諸子は今、赤穗浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか。
あるいは白虎隊となり玉砕を持って民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。
赤穗浪士とならんとするものは一歩前へ出よ、白虎隊ならんとするものは手を挙げよ!』
つまり今は忠臣蔵の赤穂浪士のように耐え忍ぶか、それとも歴史的評価は後世に任せ、玉砕して自らをソ連軍からの防波堤とするか、どちらかを選べというわけです。
全員が挙手して『白虎隊』となった池田戦車隊は、わずか20両ほどの戦車で四嶺山に突撃をかけました。
上陸戦能力に乏しいため重装備を欠いていたソ連軍でしたが、九七式中戦車や九五式軽戦車にとって、わずか4門の45mm対戦車砲どころか100挺はあったと言われる対戦車ライフルでも非常に脅威で、日本軍の戦車は次々に撃破され、池田連隊長もあっけなく戦死してしまいます。
しかしその間に後続の戦車が集結を完了、高射砲が援護射撃をする中、歩兵大隊と協同攻撃をかけるとついにソ連軍は撃退され、上陸地点の竹田浜にまで押し返したところで停戦。
水産工場の女子従業員だけでも停戦前に内地へ脱出できるよう、日本側が停戦交渉の時間稼ぎを行ったこともあって、占守島では降伏文書調印は21日、武装解除は23日までズレ込み、その後の千島列島から北方地域におけるソ連軍のスケジュールを遅らせました。
こうした千島列島や南樺太での遅滞行為によりソ連軍は東京湾で(日本そのものの)降伏文書の調印式が行われる9月2日までに北海道までたどりつけず、北海道侵攻を断念したとも言われています。
緒戦で戦死してしまった池田 末男連隊長ですが、ソ連軍が体制を整える前の攻撃で占守島の戦い全体を優勢に進め、その後必要以上にソ連軍を拘束するキッカケを作ったと言えるでしょう。
なお、戦後に陸上自衛隊が発足後、北海道の第11師団(現・第11旅団)第11戦車大隊が1962年に誕生すると、戦車第11連隊の愛称『士魂部隊』を受け継ぎますが、2019年3月に第10普通科連隊の機動戦闘車隊に改編消滅、その伝統は間もなく終わろうとしています。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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