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2018/08/17

菅野 直人

1946日本降伏せず~関東決戦予測『コロネット作戦』

もしも日本が1945年8月15日に玉音放送を流さず、あるいは戦争を終わらせるキッカケとなった出来事が発生せず、そのまま戦争が続いていたら。すぐそこまで『破滅』は迫っており、連合軍による上陸作戦で硫黄島・沖縄に続く『日本本土決戦』が始まるはずでした。前回の“1945日本降伏せず~南部九州決戦予測『オリンピック作戦』”では九州南部を占領される日本ですが、そこを拠点に関東平野を目指す連合軍と、戦力を結集した日本陸軍による最後の決戦が、1946年春に始まります。

関連記事:1945日本降伏せず~南部九州決戦予測『オリンピック作戦』







作戦名『コロネット』、関東地方占領計画

1945年8月9日のソ連参戦が無ければ、そのまま第2次世界大戦を継続していた可能性のあった日本。

原子爆弾による核攻撃を含むマリアナや沖縄からの戦略爆撃、周辺海域に展開した空母機動部隊、上陸支援の護衛空母部隊の艦載機によるしらみ潰しの空襲、そしてアメリカ、イギリス、フランスなどの艦隊による艦砲射撃が10月いっぱい続き、九州南部は壊滅。

地形が変わるほどの攻撃を受けて自然環境も多くが吹き飛んだ後、上陸作戦が行われ、国民義勇戦闘隊を含む日本軍は2ヶ月ほど組織的抵抗を行いますが、年内には連合軍による九州南部の基地化が完了します。
以後は九州南部に点在する残存部隊と住民によるゲリラ的抵抗と、九州北部から浸透しようとする遊撃隊による散発的な攻撃からの防御を残し、九州侵攻『オリンピック作戦』は終了。

元から連合軍による九州全土占領は戦略的に意味が無く、日本軍も関東防衛計画を推進させるための時間稼ぎに過ぎないため九州死守は意図せず、一兵でも引きつけたい日本軍と、なるべく効率的に戦いたい連合軍の駆け引きというのが現実です。

その間に日本軍は山陰や新潟の港へ朝鮮半島から最後の航路を使い、それらの港や交通の中継都市が原爆で壊滅するまで、あるいは壊滅しても鉄路のみ復旧させ、少しでも多く物資を運び込もうとするはず。
そして『海岸に銃剣一本無い』と批判された関東沿岸の防衛計画も、餓死者を出しながら強行されていたでしょう。

現実には8月15日で戦争は終わり、秋に日本に上陸して大きな被害を出したのは枕崎台風(9月)、阿久根台風(10月)など数々の台風でしたが、これらの台風で連合軍も大きな被害を出す一方、日本軍も鉄道の寸断など風水害による多大な被害を受けたはずです。
しかし、日本に対する最大の『』は、1946年3月1日に上陸する予定でした。それが関東上陸作戦『コロネット』。

連合軍、湘南海岸と房総半島東岸、茨城南部沿岸に襲来

九州南部の基地化を完了した連合軍は、各地に設営した飛行場を飛び立つ戦闘機や爆撃機、鹿児島湾などの泊地から出撃する艦艇によって、1946年2月に入ってから関東平野各地の守備隊へ直接的な打撃を与え始めます。

それまでは新潟や関西、東海地域への原子爆弾投下で関東地方への補給路を遮断し、呉や佐世保、舞鶴など海軍工廠、大阪や神戸など民間造船所に対する攻撃と機雷封鎖の強化で、西日本の日本陸海軍艦艇が出撃するのを阻止。

鉄道の破壊で部隊や兵器弾薬物資の移動も阻害しますが、遅くとも2月には上陸予定海岸周辺で動くものや人工的な構造物の全てに爆弾や砲撃を浴びせ、九州南部同様に関東でも日本軍の昼間の活動を制約していきます。

3月1日には神奈川県の湘南海岸、千葉県の九十九里浜、茨城県の鹿島灘へ2個軍25個師団、予備兵力も含め107万人による『史上最大の上陸作戦』が行われ、東西から帝都・東京へと進撃する予定でした。

総力を結集した特攻戦と正規軍による関東平野決戦で迎撃する日本軍

これに対し、日本軍は上陸開始まではひたすら耐え忍ぶものの、上陸作戦開始と同時に『決三号作戦』を発動して、最後の戦力を使った迎撃作戦を開始。

もはや戦力温存をする必要も無いので、東北地方から東海・北陸地方に至るまで飛べる飛行機の性能はどうあれ、練習機でも試作機でも全てに積めるだけの爆弾を積み、あるいは爆弾無しでも最後の特攻作戦が発動されます。
それはもはや『作戦』と呼べるようなものではなく、その日飛び立てる飛行機はとにかく飛ばし、明日は今日飛べなかったものや、エンジン不調で帰ってきたものを整備完了して出撃させるような、そんな戦いになりそうです。

いよいよ上陸部隊が海岸に迫るまで接近すれば、航続距離の短い人間爆弾『桜花』のカタパルト発進やグライダー爆弾、特攻ボート『震洋』(海軍)『マルレ』(陸軍)、人間魚雷『回天』、小型潜航艇『蛟龍』『海龍』などが、可能な限り出撃します。

そうした特攻兵器のほとんどは出撃前に拠点を破壊され、横須賀港に所在する最後の海軍艦艇も同様の運命をたどるのは確実ですが、これも可能なら最後の戦艦『長門』が曳船に引かれて出撃、上陸部隊への艦砲射撃を開始するはずです。

上陸後は『海岸張り付け師団』が足止めを行った上陸部隊に対してもっとも猛威をふるうのが砲兵部隊で、兵員不足により自走化や簡易な奮進弾化が進んでいるため、急速展開した自走砲や奮進弾多数が上陸部隊の頭上から襲い掛かります。

沖縄や硫黄島でも猛威を振るったこれら砲兵隊でも食い止められない上陸部隊の進撃に対しては、竹槍や布団爆雷で武装した住民『国民義勇戦闘隊』による肉弾攻撃と戦車部隊による機動的な迎撃、そして東京都下で地下を交えた市街戦です。

正面から連合軍を迎え撃つのは第12方面軍の精鋭。
・第36軍(2個戦車師団と多数の砲兵、工兵を伴う6個歩兵師団基幹、司令部は埼玉県の浦和)
・第51軍(1個戦車旅団と多数の砲兵を伴う3個歩兵師団、2個混成旅団基幹、司令部は茨城県の土浦)
・第52軍(1個戦車旅団、1個近衛師団と多数の砲兵、戦車を伴う3個歩兵師団基幹、司令部は千葉県の佐倉)
・第53軍(1個戦車旅団と多数の砲兵を伴う3個歩兵師団基幹、司令部は神奈川県の伊勢原)
・東京湾兵団(東京湾要塞と多数の重砲兵を伴う1個歩兵師団、2個独立混成旅団基幹、司令部は千葉県の館山)

以上、九州南部防衛戦よりはるかに分厚く、第51/52/53軍と東京湾兵団はほとんど『張り付け師団』とはいえ、それらが兵力を吸引している間に各軍の砲兵が叩き、そして機動力の高い精鋭第36軍が最後の『関東大決戦』を挑み、最後の大損害を与える予定でした。

もちろん、現地住民も国民義勇戦闘隊として突撃に加わるため、連合軍による武装解除が成功、保護されるわずかな住民を除けば、帝都・東京を含む関東南部からほとんどの日本人は死滅、あるいは難民化します。

最後の決戦、そして?

日本軍の配備を見ると関東に第12方面軍隷下の3個軍およびその他多数の付属部隊を注ぎ込み、それ以外の方面軍は東北地方(第11方面軍)や東海地方(第13方面軍)はあったものの、関東地方に比べれば本当にわずかな戦力で、移動も困難なため治安維持程度にしか使えなかったでしょう。

最後の大本営として天皇の御座所や三種の神器の賢所も建設された『松代大本営』(現在の長野県長野市松代地区)は完成し、そこに昭和天皇も移っていたはずですが、当地の防衛は第36軍第93師団の第204歩兵連隊など、わずかな兵力のみ。

つまり、東京を中心とした南関東での決戦で日本陸軍は現地住民の国民義勇戦闘隊もろとも消滅、それを最後に日本軍は陸海軍ともに文字通り抵抗する戦力を失うため、松代大本営で天皇とともに最後まで戦って玉砕、とまでは想定されていなかったように思えます。

連合軍の方もアメリカ軍だけで九州南部侵攻『オリンピック作戦』を含め50万人の死傷者を想定していたと言いますから、その時点で条件はどうあれ、講和せざるを得なかったのは確かでしょう。

しかし、そこまでの戦いにはもうひとつ、忘れてはいけないことがあります。
それは『どの段階でソ連が参戦してくるか?』で、歴史通り1945年8月9日に参戦しなかったとしても、1946年4月で期限切れとなる日ソ中立条約を『更新しない』と1945年4月には通知(旧ソ連およびロシアの見解では『その時点で破棄』)しているので、どこかで参戦してくるのは確実です。

今回の『日本本土決戦予想』では、ソ連が参戦してくると成り立たないため、少なくともコロネット作戦開始時まではソ連は対日宣戦布告をしてきませんでしたが、1946年3月以降の早い時期に満州や樺太などへ進行してくるものとします。
その時点ではもはや連合軍(実質的にはほぼ米軍)と『決戦』を終えるまで降伏はありえないため、ソ連軍は史実以上の進撃を行う可能性が高いのです。

次回は準備万端、北海道にまで進撃してくるソ連軍との『もうひとつの日本本土決戦1946』を予想します。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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