- コラム
オスプレイは危険な飛行機か? 軍用ティルトローター/ティルトウイング機の歴史
2017/01/20
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/08/3
菅野 直人
人間は飛行機の動力性能に成功する以前から、誰よりも高く、誰よりも速く飛ぶことを夢見ていましたが、ついに超音速飛行に成功し、さらに宇宙空間の利用まで視野に入ってくると、単なる夢ではなく「行きつくところまで行ったらどうなるか」を試してみなければいけなくなりました。その意味で極超音速実験機・ベルX-15は現実と向き合わなければいけない存在でしたが、それを有人機で行うあたりに夢とスリルのある乗り物でもありました。
By NASA – Current Upload: cropped from http://www.dfrc.nasa.gov/Gallery/Photo/X-15/HTML/EC88-0180-1.html (direct link) (date reference)
Original Upload: cropped and contrast enhanced from original http://www.dfrc.nasa.gov/Gallery/Photo/X-15/HTML/EC88-0180-1.html, パブリック・ドメイン, Link
1939~1945年の間、世界中で戦火を巻き起こした第2次世界大戦において、人類にとっての空はずいぶん広いものとなりました。
それが戦争のためとはいえ技術の進歩に加速がついたのは間違いが無く、1903年に初めて動力飛行に成功したばかりの飛行機は、ついに当時のプロペラ機の限界である800km/h近い最高速度に到達し、ジェットエンジンやロケットエンジンの登場でより速く飛ぶ目途もついてきます。
そしてロケットエンジンを使ったミサイルはついに弾道飛行に成功し、宇宙空間を通ってはるか遠くまで飛ばせるようになったのです。
戦争中から研究されていた超音速飛行は、戦後にロケット実験機ベルX-1と名パイロットチャック・イェーガーによっていとも簡単に達成され、弾道ミサイルはさらに性能が向上し、より高く遠くまで飛ばせる能力を手に入れました。
高高度で音より速く飛ぶことができるようになれば、後はより出力の大きなエンジンを長く作動させられれば、さらに速く飛べるようになりますが、今度は『音の壁』の次に『熱の壁』を意識せざるをえなくなります。
そして重い物をより高いところまで押し上げる能力があれば、人間が乗って宇宙空間に行くのも夢では無くなり、帰って来る時の空気抵抗による高熱に耐える必要もあると思われました。
それを確かめるのには実際に飛んでみるのが一番で、こうしてベルX-15は誕生、1959年9月にB-52爆撃機を改造した母機から初飛行したのです。
By Bundesarchiv, Bild 141-1875A / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
ベルX-15が開発された理由には、宇宙空間を通ってより遠くまで飛翔する、オーストリア出身のロケット研究者、オイゲン・ゼンガーが考案した軌道爆撃機と、人類初の有人宇宙飛行という2つの計画が関わっていました。
ゼンガー軌道爆撃機は高度160km以上の宇宙空間まで打ち上げられ、地球大気上を水きり石のようにスキップしながらより遠くまで飛んでいける爆撃機の構想でしたが、大気圏で『跳ねる』時点と、最終的に大気圏突入する際の空気抵抗による高熱が問題になります。
そして、人間を乗せた宇宙船が地球軌道上に乗ったとして、そこから帰って来る際も、もちろん大気圏突入に耐えられるかが問題です。
空気の無い宇宙空間ならばともかく、大気圏内では地表に近づくほど空気は濃くなり、そこを速く飛べば濃厚な空気の抵抗と、それを突破する時に圧縮された空気によって生じる高熱により、機体はまさに火の玉のようになりながら進まねばなりません。
果たしてそのような飛行が可能なのか?第2次世界大戦中にナチス・ドイツでヴェルナー・フォン・ブラウン博士の作ったV2(A4)ロケットによって、飛行そのものは可能であり、燃え尽きる前に地表に到達することもわかりました。
そして戦後のベルX-1やダグラスD-558-2によるマッハ2以上での飛行、それに続くベルX-2は1956年にマッハ3以上での飛行にも成功しました(ただし、マッハ3で飛んだX-2は直後に操縦不能に陥って墜落、パイロットも死亡)。
1957年にはソ連がスプートニク1号、1958年にはアメリカがエクスプローラー1号の打ち上げに成功し、人工衛星時代も到来し、後は人類が実際に宇宙へ飛び出すだけになります。
そこでさらなる極超音速・超高高度飛行が有人機で可能かどうかを証明するためロケット実験機X-15が作られたわけですが、その目的に不要な部分は思い切り削ぎ落されました。
それまでのロケット実験機同様、B-52爆撃機を改造した母機で高高度まで運ばれて発進し、ロケットエンジンに点火してとにかく速く・高く飛んで、無事に帰って来れるかどうかを確かめられればOK。
離陸滑走は必要無いので降着装置も通常の飛行機とは異なり、前輪こそあったものの主輪は無くて、着陸の際はソリを使って、減速はソリと地表の摩擦とドラッグシュート(空気抵抗でブレーキをかけるパラシュート)が頼り。
1960年8月には強力なXLR99ロケットエンジンを吹かしてマッハ3.31での飛行に成功し、墜落したX-2とは異なり無事に帰ってきました。
その数日後には高度41,605m(41.6km)に達し、ともかくX-2より速く、高く飛んでも無事なことは証明されたのです。
しかし、X-15がそんな悠長な手間を重ね、さらなるテストや改修を続けていた1961年4月とんでもない出来事が起きました。
ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士を乗せたソ連のボストーク1号が宇宙飛行に成功し、地球に無事帰還したのです。
この時の『宇宙飛行』は打ち上げから帰還までわずか108分、地球を1周して帰ってきただけでしたが、同年8月のボストーク2号(ゲルマン・チトフ宇宙飛行士)は25時間もの宇宙滞在に成功し、直後の同3号、4号は宇宙での編隊飛行さえやってのけました。
慌てたアメリカは同年5月にマーキュリー・レッドストーン3号にアラン・シェパード宇宙飛行士を乗せて宇宙空間の飛行に成功しましたが、地球1周すらしない単なる弾道飛行であり、地球1周どころか487.3kmを15分かけて飛んだだけ。
それでも高度187.5km、最高速度8,262km/hに達して宇宙飛行士は無事帰還したので、少なくとも有人機でそのような高度や速度を出した影響については、X-15でテストするまでも無くなってしまいました。
By NASA – NASA/DFRC, パブリック・ドメイン, Link
わざわざX-15で試すまでも無く宇宙空間に到達してしまった人類ですが、それでもX-15の飛行は続きました。
宇宙船としてはともかく、大気圏内の極超音速飛行データを収集する事自体には、将来的な極超音速爆撃機や旅客機その他飛翔物のために有用だと思われたからです。
特に活躍したのは1962年11月に起こした着陸事故から修理の際、アレコレと改造された2号機、X-15A-2でした。
胴体や着陸用ソリが延長されると共に、機体左右下部に切り離し可能な増加燃料タンクを装着できたので、ロケットエンジンの駆動時間が大幅に伸びたのです。
このX15A-2による1967年10月の飛行では、さらに最新の耐熱塗料が塗られ、将来実用化が期待される極超音速機用スクラムジェットの実物大模型を下部垂直尾翼の下に装着してNB-52から切り離されました。
余計な荷物をブラ下げているにも関わらずX-15A-2は順調に加速しますが、やがて自慢の耐熱塗料が極超音速域の『熱の壁』に耐えられず火を噴いて燃え出します。
元から『アブレーション冷却』という、高熱時には蒸発して表面を保護する塗料ではありましたが、その程度ではとても間に合わなかったようです。
テストパイロットのウィリアム・J・ナイトにとってはまさに命がけの飛行で、限界速度のマッハ8には遠く及ばなかったとはいえ、マッハ6.7(7,274km/h)を達成しました。
しかしステンレスやチタン、耐熱ニッケル合金製の機体は黒焦げになり、スクラムジェットの実物大模型など溶けてどこに行ったのやら?
無事着陸したのが不思議なほどのダメージを受けたX-15A-2はこれが最後の飛行となり、X-15自体も1968年10月に最後まで残っていた1号機が最後の飛行を終えて、初飛行以来約9年ほどのプロジェクトは終了しました。
その後、2004年に無人のスクラムジェット実験機X-43Aがマッハ9.68(12,144km/h)の世界最高速記録を出しましたが、有人有翼動力機としてはX-15A-2が今でも世界最高速とされています。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
2018/01/2
Gunfire
1
2018/03/31
Gunfire
2
2018/01/11
Gunfire
3
2018/05/29
Sassow
4
2018/12/4
Gunfire
5
2017/07/26
Sassow
6