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菅野 直人
戦争で活躍する「常勝将軍」だの「名物参謀」には、どういうわけだか『奇行』がついてくるパターンが多いものです。常識を覆すような人物だから勝てるのか、それともどれだけ勝ってもつまらない人間だと伝説に残らないのか? ロシアの変人元帥スヴォーロフなどは、話だけ聞いてるといつも酔っ払ってるから勝てるんじゃないか? という疑いが。
By 不明 – former source [1]; actual source [2], パブリック・ドメイン, Link
『最強にして最大の奇人変人元帥』の名を欲しいままにするロシアの大元帥スヴォーロフ。
もちろん最初から奇行が目立ったわけでは無い……と思うのですが、どこから急に、というわけでも無いらしいので、単に記録に残っていないだけかもしれません。
1729年モスクワ生まれで1742年に軍隊入り、父は将軍で母は帰属の娘という割には士官からスタートじゃありませんが、何か事情があったんでしょうか。
1749年に20歳でようやく士官学校に行きますが、ヨーロッパを中心にアメリカ大陸やアフリカ、インドにまで戦火の拡大した「18世紀の世界大戦」というべき7年戦争で軍功を上げ、戦争が終わる頃には大佐に昇進して連隊長となります。
本格的に頭角を現すのは1769年のポーランド侵攻からで、とにかくその戦術は電光石火!
銃で弾丸を飛ばすより速いんじゃないかという騎兵の突撃による機動的な戦いを得意としており、後世ならば優秀な機甲部隊指揮官とか言われそうです。
たった12日でワルシャワまでの500kmを走ってこれを制圧したかと思えば、わずか822名の直卒だけで4,000名近い敵軍を殲滅。
その後の戦歴も敵の意表を突く奇襲や、寡兵で大軍を撃破する大勝利ばかりが続き、いつしか常勝将軍の名を欲しいままにしていったのでした。
寒い土地だと言葉が短くなる、とは日本での話で、東北の山村あたりでも「どさ(どこに行くの?)」「ゆさ(お風呂に行く)」で済んでしまうのは有名な話。
ロシアでもそうなのかな……と思うようなエピソードとして、1794年のポーランド・リトアニア共和国の反乱鎮圧がありました。
この年、既に65歳で若くは無かったスヴォーロフですが、ロシア軍の苦戦に駆けつけて軍勢を立て直すやまたもやポーランド軍を撃破、ワルシャワになだれこんで翌日に陥落させると、女帝エカチェリーナ2世に「万歳。ワルシャワ。スヴォーロフ。」とだけ報告します。
果たして女帝も心得たもので、「おめでとう、元帥。エカチェリーナ」とだけ返信。
この以心伝心は寒い土地で言葉を惜しんだのか、それとも主従の信頼関係それだけ厚かったからなのか。
ともあれこれで元帥に昇進したスヴォーロフですが、間も無く亡くなったエカチェリーナ2世の後継、パーヴェル1世からは疎ましく思われていたようで、それからしばらく冷や飯を食わされたのでした。
体制の若返りを図りたい、現代風に言えば「老害はすっこんでろ」とでも言われたのか、解任されたスヴォードロフは屋敷に引っ込んでパーヴェル1世の悪口ばかり言ってたので、反乱など起こさないよう監視の目がつく身分になってしまうのでした。
この後しばらくしてスヴォーロフの出番が再来するのですが、その間にこの常勝元帥の奇人変人ぶりをご紹介しておきましょう。
まず何が奇人変人かといえばその生活習慣。
元帥まで昇進して女帝の覚えもめでたき……となれば謹厳実直コチコチの爺さんのように思えますが、まず朝4時に起きては「スッキリした目覚めのために」いきなり冷たい水中へダイブ! ロシアには分厚い氷をカチ割ってまで寒中水泳をやるイベントがありますが、何かそうせざるをえない理由でもあるのでしょうか。
そして雄鶏の真似をして、ロシアではコケコッコーなのかクックドゥードルドゥーなのか知りませんが3回鳴き、やれやれと兵士が起き出すわけですが、宿営ではなく行軍中の大休止の場合は、その鳴き声が行軍再開の合図だったこともあるとか。
その後は戦場にでもいない限りは、朝から昼までひたすら食べ続けながら各種の酒をチャンポンで飲みくだし、当然部下も付き合わなくてはいけないので昼には全員玉砕、結局夕方6時頃には正気になるのですが、その間に軍がどれだけ危機に陥っても完全無視、というより全く目を覚まさず。
この人本当に無敵元帥なの!? と思ってしまいますが、まあ勝つ時はとにかく電光石火の進撃でしたから、「大いに遊び、大いに戦え」だったのかもしれません。
ただ、さすがに見かねた副官が食事(というより宴)のお開きを進言すると「誰の命令だ?」「元帥ご自身の命令であります!」「そうか、彼には従わねばならんな!」と意味不明な供述をして、その後は自分で自分に命令してあちこち散歩をしていたという証言もあり。
他にも奇行は数多いのですが、それでいて語学堪能で知識が豊富、もちろん戦えば勝つのですから、誰もが文句をつけようが無かったわけです。
そう、いくら常勝とはいえ面倒くさいゲテモノ元帥などいらんという皇帝がその座につくまでは。
さて、そうこうしているうちにスヴォーロフが強制引退させられて2年がたち、1798年にフランス革命が勃発。
市民が実権を握ったフランス共和国に対して王侯諸国が名を連ねるヨーロッパの各国は第2次対仏大同盟を組んでフランスに攻め込み、ロシアのパーヴェル帝もフテクされて教会の聖歌隊に入り、賛美歌にコブシをきかせ熱唱していたスヴォーロフ老元帥を呼び戻します。
ついにロシア軍最高司令官となったスヴォーロフはイタリアに進出、オーストリア軍と連携してフランス軍にまたしても連戦連勝! 常勝元帥の威力は健在でした。
さらにオーストリア軍が苦戦していたスイスへの進出を要請されたスヴォーロフですが、相変わらずフランス軍を相手にちぎっては投げ、ちぎっては投げの勢いで勝利するも、どうもオーストリア軍の補給部隊が追いつきません。
このままではスイスに着く前に弾薬食料の欠乏で壊滅する……というピンチに、スヴォーロフは迷わずアルプス越えを命じました。
時に1799年10月、既に冬と言って良いアルプスに挑んだロシア軍、さすがに脱落者が相次ぐもそこは寒い国からやってきた軍隊の強みか、「ヒャッハー! アルプス越えだぜぇ!」とばかりに山脈を越えるや一目散にスイスに駆け込み、フランス軍を振り切って友軍との合流に成功したのでした。
常勝元帥、ついにアルプスにも勝つ!
しかしそれが常勝変人元帥スヴォーロフ最後の栄光でもありました。
翌1800年1月に首都サンクロペテルブルクに凱旋したはずのスヴォーロフでしたが、突然パーヴェル帝から追放されてしまいます。
勝って勝って勝ちまくって、ついにアルプスをも制した神話的な常勝元帥の権威や人気を、皇帝は恐れたのかもしれません。
スヴォーロフの方も、肖像画を持ち歩くほど敬愛していたエカチェリーナ2世も既にこの世にいないのでどうでも良くなったのか、その年の5月には黙ってこの世を去ってしまいます。
墓碑には「ここのスヴォーロフ眠る」とだけ知らされ、後には常勝伝説と奇人変人伝説だけが残りました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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