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  • 奇跡の海戦史「最後の酸素魚雷~駆逐艦『竹』帰還セリ~第7次オルモッック輸送作戦」

2018/07/20

菅野 直人

奇跡の海戦史「最後の酸素魚雷~駆逐艦『竹』帰還セリ~第7次オルモッック輸送作戦」

1944年10月、フィリピン・レイテ島を巡る戦いで日本海軍連合艦隊は壊滅、二度と決戦を行うことなどできなくなりますが、だからといって戦争が終わったわけでも、ましてやフィリピンを巡る攻防が終わったわけでもありませんでした。日本海軍に残る小艦艇や輸送艦艇をフル動員したレイテ増援「多号作戦」が発動され、貴重な残存艦船が数多く失われていきますが、その中で数少ない、一矢を報いた駆逐艦がいたのです。







たとえ連合艦隊滅びようとも

1944年10月17日、アメリカ軍はフィリピン中部のスルアン島に上陸、さらに3日後にはレイテ島に上陸を行い、フィリピン攻防戦が始まりました。
日本軍はこれに対し、10月18日にフィリピン決戦計画『捷一号作戦』を発令。

敵艦隊の猛攻を排除、あるいは回避しつつレイテ島に艦隊を肉迫させ、輸送船団撃滅を目的とした史上最大の海戦を起こしますが、10月23日から25日までも一連の戦いにおいて、日本海軍連合艦隊は壊滅、完膚なきまでに叩き潰されたのでした。

しかし、連合艦隊が壊滅したといっても、その戦いはまだ終わっていません。
一旦内地に引き上げた機動部隊(小沢艦隊)残余を再度南方に進出させ、第一遊撃部隊(栗田艦隊)残余と第二遊撃部隊(志摩艦隊)を糾合。

ブルネイやマニラ、ベトナムのカムラン湾などに分散しつつ、損傷が激しい艦の応急修理や本土への撤収支援を行いつつ、巡洋艦や駆逐艦などはフィリピン・ルソン島のマニラに集められたのです。

海軍の連合艦隊が滅びても、陸軍によるレイテ決戦方針はまだ続いており、海軍は可能な限りそのための増援輸送に協力する、少なくともその義務はまだ残されていました。
10月29日、南西方面艦隊は指揮下に入った各艦に対してレイテ島増援『多号作戦』(別名:オルモック輸送作戦)を発動、レイテ島オルモック湾への輸送任務を開始したのです。

次々に犠牲になる艦船、そして運命の第7次多号作戦発動

多号作戦は、地獄の捷一号作戦を生き延びた海軍艦艇残余、および海防艦や駆潜艇といった本来の輸送船団護衛部隊、そして今や宝石のように貴重となった優秀な性能を持つ輸送船にとって、まさに墓場となりました。

本格始動した第2次作戦以降、11月下旬の第6次作戦までに成功したのは第2次・第4次作戦くらいで、ほぼ全滅した第3次作戦をはじめほとんどの艦船が撃沈され、マニラなど根拠地の制空権も失って空襲を受け、巡洋艦なども相次いで犠牲になります。

主力艦も11月中にほとんどが本土に帰還してしまい、残されたわずかな駆逐艦、それも睦月級などの旧式艦や丁型戦時急造艦、強行輸送用の一等・二等輸送艦、駆潜艇などで、辛うじて多号作戦は続行されたのです。
第7次多号作戦発動に伴い、12月1日に第3・第4梯団として一等輸送艦『9号』、二等輸送艦『140号』『159号』を護衛して、丁型駆逐艦『』『』がマニラを出撃したのには、そんな背景がありました。

オルモック湾の天佑、しかし旗艦『桑』炎上

それまでの多号作戦では、まず往路で、そこで壊滅しなくとも揚陸地点で結局は猛烈な空爆を受けて壊滅する、というのがお決まりのパターンになっていました。

たとえ船団が壊滅しても、いくらかでも物資が揚陸できれば御の字で、生還する船があれば大成功という悲惨な状況が続いていましたが、この第7次作戦第3梯団(2隻の二等輸送艦は別な揚陸点へ向かう第4梯団として分離)には幸運が訪れます。

とてつもない幸運、天佑というべきか、第3梯団は往路に敵機から発見されず、夜間にオルモック湾に侵入した時も、ローテーションの関係で米軍の夜間戦闘機が上空にいなかったのです。
もちろん、米軍はその間隙をカバーすべく駆逐艦3隻と魚雷艇で哨戒を行っていましたが、そこに日本海軍の夜間戦闘機『月光』と、水上爆撃機『瑞雲』が攻撃をかけ、少なからぬ混乱を引き起こしました。

何とこの夜、日本軍は一時的ながらオルモック湾上空の制空権を獲得していたのです

その隙をついて輸送艦9号は揚陸に成功、混乱から立ち直った米駆逐隊に『』と『』が猛烈な砲撃を受ける中、離脱に成功しました。
とりあえず輸送任務を成功させた第3梯団ですが、米駆逐艦3隻、5インチ砲合計18門の連射を受け、旗艦『』は猛烈な水柱にしばらく包まれたかと思うと、変わり果てた姿のまま漂う燃える鉄塊と化します。

まず1隻を仕留めた米駆逐艦の狙いは当然ながら僚艦の『』!

運を天に任せた酸素魚雷発射! オルモック湾のジャックナイフ

竹
By Yokosuka Naval Arsenal. – 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。下巻638頁, パブリック・ドメイン, Link

』はとにかく米駆逐艦のレーダー射撃をそらすべく、全速で転舵を繰り返す回避運動に懸命でした。
いかに敵がレーダーでこちらの艦影をとらえていようとも、射撃管制装置による未来位置予測が不十分であれば発砲時の位置と着弾時の位置には時間差によるズレが発生し、全速で回避運動を行っていればなおさらです。

もちろん、それでも周囲は絶え間ない砲撃の水柱に囲まれ敵艦の視認などろくにできず、『』も一応反撃はするものの、もちろん狙いなどロクロクつけていませんし、反撃の魚雷を準備する水雷長も敵弾の飛来する方向から位置を推測するしかありません。

このままでは、ロクに反撃もしないまま『』の後を追う事になる……艦長以下『』首脳部の苦悩が深まる中、一人の水兵が「アッネズミだ!」と叫びました。
一瞬視線を向けるとそこには確かにネズミが……いや待てよ、いつ砲撃で吹っ飛ばされるかわからない中、コイツはずいぶん大物だな……などと思うと、艦橋での緊張もほぐれます。

よーし水雷任せた魚雷発射はじめ!」
発射はじめテッ!」

どのみち狙える状況でも無し、当てずっぽうで構うもんか……艦中央部の61cm4連装魚雷発射管から、故障中の1本を除く3本が……いや、どうやらまた故障らしく、実際には2本が海面に叩き込まれて米駆逐艦に向かいます。
ストップウォッチ片手に一応は命中予定時間を測っていた水雷長が「じかーん!」と叫ぼうとしたその時、ついに敵弾が『』を捉え、機関部で炸裂。片舷機械使用不能! しかし……。

砲撃を受けていた方向から爆炎、高々と挙がる水柱。艦中央部をへし折られたジャックナイフ状態で真っ二つになり、急速に海中に引き込まれる米駆逐艦!
アレン・M・サムナー級駆逐艦『クーパー』の最期。

適当に撃ってのまぐれ当たりでも命中は命中、しかも命中率50%という奇跡!
しめたッ今のうちにずらかるぞッ取舵一杯、全速!」

混乱した残りの米駆逐艦からの砲撃が緩んだ隙を見計らい、『』は片舷航行のままながら、一目散に逃走、救助のためか米駆逐艦もそれ以上は追ってこなかったのでした。

かくして第7次多号作戦第3・第4梯団(二等輸送艦も無事に揚陸を終え合流)は駆逐艦1隻沈没、1隻大破という損害を出しながらも任務を達成し、『』は「日本海軍で最後に魚雷船で敵艦を撃沈した殊勲艦」として記憶されたのです。

なお、その後の駆逐艦『』は修理のため本土に回航されて戦争を生き残り、瀬戸内海の屋代島(周防大島)で終戦を迎えました。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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