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平時の成績は可も無く不可も無く目立たず、政治にも興味を持たず、その身は常に部下将兵とともにあり。過酷な命令を出されても上層部に対して愚痴の一つもこぼさず淡々と任務につき、撤退戦や遅滞防御戦ではしぶとく戦い続け、決して味方を見捨てない。そうそう名が挙がる事が無い役目を勤めて消えていった指揮官は、太平洋戦争では数多くいたのではないでしょうか。その中でも屈指の野戦指揮官として名を知られる数少ない1人が、日本陸軍の宮崎 繁三郎中将です。
名将宮崎繁三郎―不敗、最前線指揮官の生涯 (光人社NF文庫)
明治44年(1911年)12月、岐阜県厚見郡北島村(現在の岐阜市北島町)で生まれた19歳の青年が、陸軍士官学校26期生として入校、日本陸軍軍人としての軍歴を歩み始めました。
青年の名は宮崎 繁三郎。
3年後に卒業、見習士官として歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属後、少尉任官して陸軍士官としての道を本格的に歩み始めますが、士官学校での成績は737人中230番と、まあ『中の上』といったところ。
何がいけないというわけでも無いが成績優秀というわけでもない宮崎が、連隊長からの推薦を受けて2度目の受験で1921年に陸大(陸軍大学校)第36期生になれたのは、『成績はともかく要領は良かった』ということでしょうか? だとしたら実戦向きの人物です。
果たして陸大でも64人中29番と、やはり『中の上』と目立たぬ成績で1924年に卒業します。
その目立たぬところが良かったのか、参謀本部支那班やハルピン特務機関といった情報・諜報(スパイ)畑を一時期歩みますが、満州事変中の1933年に前線の歩兵大隊長へと転じました。
『責任は重すぎず、権限が無さすぎるわけでもない』歩兵大隊長というのは陸軍士官なら一度はやっておきたいポジションで、ここで手柄を上げると内地帰還後に昇進、再び情報・諜報畑に戻りますが、それゆえの耳聰さか、二・ニ六事件など政情不安には全くタッチせずにやり過ごします。
目立たないながらも、それゆえ軍内部で情報通になる立場にあり、しかも敵弾飛び交う中でも戦功も上げているのですから、気がついたらそれなりのポジションにいるタイプなようです。
1939年、モンゴル・満州の国境紛争をめぐり、両国の事実上の宗主国であるソ連・日本軍が激突する『ノモンハン事件』が勃発した時、宮崎は任官時に所属していた歩兵第16連隊で連隊長として指揮をとっていました。
事件末期、停戦直前の最後の攻勢に向けて戦力を集結、ソ連軍に一泡吹かせると意気軒昂な日本軍の一部隊として参戦した第16連隊は、命令通りにモンゴル軍の守る丘に夜襲をかけて朝までの激戦でこれを奪還。
当然、ソ連軍もこれに対して戦車50両を含む圧倒的な戦力で逆襲してきますが、何とかこれに耐えしのぐと、2日後にその丘から撤退します。
ただ、それまでの情報畑などの経歴故か、その後の停戦交渉で日本軍がどこまで占領していたかを示すのは重要なはず、と理解していた宮崎は、日本軍占領地であることを示すため、舞台名と日付を刻んだ石標を設置した上でその地を去りました。
その後の停戦交渉では国境線の確定で激しいやり取りがありますが、宮崎がしっかり証拠を残した丘だけは何の問題も無く国境として決まり、宮崎率いる第16連隊は『ノモンハン唯一の勝利部隊』と讃えられたのです。
By British Information Service, information service operated by UK government during WW2. – Library of Congress, パブリック・ドメイン, Link
その後も諜報機関と実戦部隊を行ったり来たりしていた宮崎ですが、ビルマ方面の戦況が悪化するとそこへ送られ、第31師団で1~2個歩兵連隊を率いる歩兵団長として、1944年3月からのインパール作戦に参加します。
後年よく知られているように、インパール作戦は第15軍司令官・牟田口 廉也中将による杜撰かつ、何の根拠も無い楽観的・精神主義的な作戦指導により進撃するほど戦況が悪化して戦死というより病死や餓死する兵士が続出したところに英軍の反撃を受け、大失敗に終わった作戦です。
おまけに佐藤第31師団長が牟田口軍司令官に堂々と命令拒否を行うと、発狂したことにされて解任、第15軍司令部は宮崎の兵力に対して補給線を守るためインパール街道を死守せよ、と命じます。
しかし、宮崎の兵力と言っても歩兵第58連隊に1個山砲(砲兵)大体を加えた3,000人の兵力は、その時点まで命令で繰り返された無茶な攻撃で600人まで減少しており、戦車や航空機の支援を受けつつ攻めてくる圧倒的な英軍相手には無茶な命令でした。
それでも、何の支援も受けられない中で小規模の宮崎支隊は『一方が敵を食い止める間、一方が別の防御陣地を構築する』という機動的な遅滞防御戦闘を行い、ついに英軍戦車部隊に突破されるまでの17日間にわたり、小兵力で戦線を維持したのです。
ついに包囲された宮崎支隊にやっと撤退命令が出ると、先頭切って包囲を突破しながら部下は決して見捨てず、退却戦では殿に立って戦病死した兵は必ず埋葬、負傷兵は自ら担架を担ぎ、食料を求める兵には自分の分まで分け与えて、支隊の結束を維持。
指揮官にもいろいろいますから、中には明らかに人間性の欠落した者も少なくなかった中、宮崎はその実直さで部下をまとめ上げ、部下の方も指揮官にそこまでされて報いないわけにもいかず、ついに地獄のインパールから部下を連れて帰還したのでした。
インパール作戦から帰還した宮崎は、牟田口の後任として第15軍司令官に転出した片村中将の後を継いで、1944年8月に第54師団長へ着任、ついに師団長になりました。
しかし戦局は悪化する一方で、1944年12月から1945年3月までのイラワジ会戦で英軍・インド軍に敗北すると、ラングーンに迫った敵を目の前にして、こともあろうにビルマ方面軍司令官・木村 兵太郎中将が司令部要員を連れて、飛行機で敵前逃亡してしまいます。
敵を目前に指揮官が突然逃げ出し、誰も指揮をまとめあげる人間がいないという事態に日本軍各部隊は大混乱に陥り、宮崎の第54師団が属する第28軍など、またもや敵中で孤立する羽目に陥りました。
背後のペグー山系を越えて撤退する第28軍、その殿部隊となった第54師団は、英軍とインド軍の激しい攻撃を受けてついには壊滅寸前の状況に陥り、重装備を捨てて小部隊ごとに竹林に分け入り、分散してとにかく撤退には成功したものの、そこで多くの将兵を失います。
8月15日の終戦後、通信機を破壊されていたため状況不明な中、味方への合流を続けていた第54師団が、ようやく第28軍から停戦命令を受領したのは8月23日。
その時点で撤退開始時の兵力9,000名は、わずか4,000名以下に減っていたのです。
その後も宮崎の戦いは終わらず、捕虜収容所で部下将兵の待遇改善のため尽力、戦犯にもならず1947年6月に帰国し、宮崎の戦争は終わりました。
最終階級はインパール作戦中に昇進して陸軍中将。
帰国後は東京の下北沢に陶器店『岐阜屋』を死ぬまで営み、最後の言葉は「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と、うわごとのようにと繰り返していたと言われます。
ビルマで見た地獄を死出の夢の中でも繰り返し、最後まで部下の身を案じて戦い続けた日本陸軍屈指の野戦指揮官・宮崎 繁三郎中将は、昭和40年(1965年)8月30日、73歳で『戦死』しました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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