• TOP
  • ミリタリー偉人伝「パリを解放せよ!シャルル・ド・ゴール」

2018/06/25

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「パリを解放せよ!シャルル・ド・ゴール」

愛する祖国が侵略されたさあ立ち上がれ諸君、悪逆非道な敵を打倒し、我らの祖国を取り返すのだ……! アニメや漫画でありがちな企画のようですが、現実の近代世界でそれを地でいったといえば第2次世界大戦の自由フランスがそれに近いのではないでしょうか。その自由フランスの指導者であり、戦後は大統領にまで就任したのがシャルル・ド・ゴールでした。







フランス版ロンメルになりえたWW2以前

Charles de Gaulle 1943 Tunisia.jpg
By This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID fsa.8d32425.
This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, Link

1890年フランスのノール県リール生まれ、1909年に陸軍士官学校に入学して軍歴を歩み始めたシャルル・ド・ゴールですが、第2次世界大戦前の彼は国際的にはほぼ無名の将軍に過ぎませんでした。

第1次世界大戦に従軍(1916年のヴェルダン戦で捕虜となる)、その後ポーランドの軍事顧問としてポーランド・ソヴィエト戦争に従軍してポーランドの勝利に貢献。
1930年代に入ると、第1次世界大戦の経験から戦車や飛行機といった機動力のある兵器が戦争の行く末を決めると論じていくつかの本を執筆し、第2次世界大戦が始まると第4機甲師団の師団長に任命されるなど、自らの理論を実践する機会を経ています。

環境次第では、その後侵攻してくるドイツ軍を自らの機甲部隊で撃退し、『フランス版ロンメル』になりえる可能性を持った人物でしたが、当時のフランス軍は保守的かつ旧式化した兵器の更新がうまくいっていない状況でした。
結果的に、ド・ゴールの機甲部隊はいくつかの目覚しい活躍を示したものの、戦争全体で見ればフランスの敗北を避けられるほどでは無かったのです。

亡命先のイギリスで自由フランスを結成

1940年6月22日、数日前に首都パリが陥落していたフランスがドイツと休戦協定を結んで降伏した時、ド・ゴールはロンドンにいました。

降伏直前に少将へ昇進して国防次官兼陸軍次官として入閣し、フランス本土降伏後もイギリスとの連合を維持して戦い続ける『英仏連合』実現のために奔走していたものの、休戦派の圧力で解任されてしまい、6月15日のパリ陥落直後にイギリスへ渡っていたのです。

同18日にはロンドンからフランス本土へ向けてドイツへの徹底的な抵抗(レジスタンス)を呼びかけるラジオ演説を行い、降伏翌日には自由フランスの母体となるフランス国民委員会を設置、自らその代表に収まります。
イギリスはドイツ占領下のフランス(ヴィシー・フランス)を承認せず、自由フランスを支持したものの、北アフリカのフランス海軍艦艇などが枢軸側に渡ることを危惧したイギリス海軍がこれを攻撃するなど、フランス人の反イギリス感情を煽り立てる事件が起きました。

こうしたこともあって、降伏後のフランス、特に本国以外はその組織や植民地ごとに『ヴィシー・フランスと自由フランスどちらに忠誠を誓うか?』という決断を迫られ、当初はかなり混乱してしまいます。
ましてや、ド・ゴール自身多少の実績があったとはいえ、降伏直前に少将に昇進したばかりの最年少将軍に過ぎず、国内外から「ド・ゴールって誰?」という状態だったので、なかなか自由フランスへの支持や認知度が上がらなかったのもやむをえない話です。

自由フランス内の主導権争い

なかなか自由フランスの勢力統一が果たせず、日和見を決め込んで中立を宣言したり、本国より枢軸国に近いのでヴィシー・フランス側につかざるをえなかった(インドシナなど)植民地も多い中、ド・ゴールは自ら自由フランス軍を率いて転戦します。
北アフリカやマダガスカルなどで自由フランス軍は枢軸軍と、時にはヴィシー・フランス軍とも戦いますが、自由フランスの勢力統一が果たせていない状況なので、時には激しい主導権争いに勝たねばならない時もありました。

反ド・ゴール勢力の代表格が北アフリカ方面のフランス軍を率いていた海軍のダルラン提督で、当初ヴィシー・フランス側についていたものの、連合軍側に寝返ると共に北アフリカ方面での自由フランス代表となってしまいます。
結果的にダルラン提督は何者かに暗殺されますが(ド・ゴールの命令による可能性が高いと言われる)、結局北アフリカのフランス植民地はド・ゴールと自由フランスの共同代表を務めたアンリ・ジロー大将の指揮下に入りました。

これは単にド・ゴールが若輩だからというだけではなく、とにかくごう慢で頑固、人の話を聞かない尊大な態度などが、あらゆる支配者層にとって不人気の元になっていたから、とも言われます。
実際、イギリスのチャーチル首相もド・ゴールを嫌っていた人物の筆頭で、幾度もド・ゴールに対する怒りで関係断絶を試みながら、その度にアメリカのルーズベルト大統領(実はルーズベルトもド・ゴール嫌いなのですが)の説得でかろうじて関係を維持していました。

兵器や物資の支援(レンドリース)など、アメリカあってのド・ゴールと自由フランスであり、イギリスもまたアメリカ無しではやっていけないという現実が、ド・ゴール体制を生き延びさせたのです。

パリ解放! 熱狂のシャンゼリゼ

もっとも、支配者層から不人気だったド・ゴールでしたが枢軸国への抵抗の矢面に立つレジスタンス組織の中核、労働者層には絶大な人気を誇りました
情熱的なラジオ演説などで大衆からの人気を得る術に優っていたからですが、このあたりはドイツのヒトラー総統に通じる部分があり、ルーズベルト大統領ですらド・ゴールを『独裁者』と評しています。

1944年4月に政敵のジロー大将が失脚すると、自由フランスはいよいよ本当にド・ゴールの『独裁』となりますが、連合国側ではそんな事情に構ってばかりもいられなくなりました。
そう、1944年6月6日には、『史上最大の作戦』ノルマンディー上陸作戦により、連合軍によるフランスからの西部大反撃作戦が始まったからです。

正直、連合軍はうるさいド・ゴールと自由フランス抜きで作戦を進めるつもりでしたが、直前になってド・ゴールにバレてしまったので小規模ながら参加を許さざるを得なくなります。
これには、本土奪還に燃える(そして戦後の主導権を握りたい)自由フランスなど参加させては、万事フランス解放しか考えないド・ゴールに作戦を滅茶苦茶にされかねない、ならば少し落ち着いてから名誉ある役割をちょっとだけ……という考えもありました。

もちろん最終的な目標はドイツ打倒でありフランス解放はその過程に過ぎなかったためですが、ド・ゴールは確かに『最後にちょっとだけ』くらいでは収まりません。
上陸後に一刻も早くパリ解放(そしていち早く臨時政府樹立)を目指したいド・ゴールは、ヨーロッパ方面連合軍総司令官ドワイト・D・アイゼンハワーにその要望が通らないとみるや、アレコレとウソを並べて『早期解放しなければパリが破壊される』と脅したのです。

連合軍総司令部は渋々ながら自由フランス第2機甲師団の進撃を許可し、ドイツ軍の迎撃と『熱狂的に歓迎する市民』によってノロノロとながらパリ入城を果たし、自由フランスによるパリ解放はついに実現しました。
1944年8月26日、パリのシャンゼリゼ通りで自由フランス軍第2機甲師団によるパレードが挙行され、解放されたとはいえまだドイツ軍の狙撃兵が潜み、銃弾すら飛び交う中をド・ゴールは平然と歩いたのです。

しかし、その頃第2機甲師団を指揮下に置いていたはずの連合軍第5軍団司令部では、アメリカ陸軍のレナード・T・ジロー少将が激怒していました。
ド・ゴールはパリ解放と同時に『第2機甲師団は連合軍の編成から離脱する』と一方的に通告したからで、随分身勝手な話もに思われますが、それだけフランス本土奪回に燃え、その象徴であるパリ解放に浮かれていた様子がわかります。

もっとも、パリ解放でフランス本土回復が全てなされたわけではなく、その後も自由フランス軍は連合軍の一因としてアルザス地方などの解放や、その後のドイツ本土侵攻作戦に加わって終戦まで戦い続けました。

戦後のドゴール主義と第五共和政

パリ解放後、満場一致で臨時政府の主席(首相)となったド・ゴールですが、ドイツと違ってフランスは『独裁者』にとって居心地の良い状況では無かった、あるいはド・ゴールの尊大な態度がたちまち周囲の反発を買ったこともあり、政権運営はうまくいきませんでした。

1946年1月に首相の座を退くものの、いわば『院政』のような形で国家運営に関わり、1958年には大統領の権限を強化して議会の力を抑制する第5共和制を確立、自ら大統領として返り咲きます。
その後も『フランスは他国に従属も依存もせず、その独自性を保つ』というドゴール主義を推進して現在のフランスの原型を作り、1970年11月にこの世を去りました。

ある意味非常に独善的で身勝手な人物でもあったド・ゴールですが、その名は今でもパリの国際空港(パリ=シャルル・ド・ゴール空港)や、現在フランス海軍で就役している原子力空母『シャルル・ド・ゴール』などに遺されています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

この記事を友達にシェアしよう!

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

サバゲーアーカイブの最新情報を
お届けします

関連タグ

東京サバゲーナビ フィールド・定例会検索はこちら
東京サバゲーナビ フィールド・定例会検索はこちら

アクセス数ランキング