- コラム
ミリタリー偉人伝「帝国海軍最大のギャンブラー」連合艦隊司令長官・山本 五十六
2018/05/21
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/06/18
菅野 直人
「身を粉にして働く」などという言葉があります。それが何のためかと言えば、一家の大黒柱だったり社長だったり社畜だったりといろいろありますが、中には『世界最強の高速空母機動部隊指揮官』だったりすることも。太平洋戦争後半、米海軍、そして世界最強の空母機動部隊を率いたマーク・アンドリュー・『ピート』・ミッチャー中将は文字通り勝利に全てを捧げ、身を粉にして働いた提督でした。
By US Navy – Downloaded from http://www.history.navy.mil/photos/pers-us/uspers-m/m-mitshr.htm., パブリック・ドメイン, Link
1887年、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ヒルボロー生まれのマーク・ミッチャーの少年~青年期は、微妙に恵まれない日々でした。
祖父はオクラホマシティの市長を務め、両親は商店を営むなど、特筆するほどでは無いもののソコソコの家柄でしたが、親の勧めで入学したアナポリス(海軍兵学校)では暴力事件に巻き込まれ退学。
再入学してはイジメにあって、何とか卒業するも席次は131名中103位と『下の上』程度でパッとせず、将来が明るいとも思えません。
しかし、卒業した1910年は史上初の動力飛行に成功した、ライト・フライヤーの初飛行(1903年)からしばらくして、動力飛行可能なことが証明された飛行機が飛躍的な発展を始めた時期に差し掛かっていました。
何が気に入ったのか、それとも流行だったのかもしれませんが、パイロットを志したミッチャーは1915年にペンサコラの飛行学校に入学。
世界で初めて航行中に飛行機のカタパルト発進に成功した装甲巡洋艦『ノースカロライナ』で飛行訓練を受け、翌年ミッチャーは米海軍で33番目のパイロットとなりました。
当時はまだ、どこの国でも飛行機も未発達なら艦上運用技術も確立されておらず、米海軍でもまず『飛行機で何ができるか』から学ばなければいけなかった時期です。
そんな時期に米海軍航空初期のエキスパートとなったミッチャーは、カーチスNC飛行艇での大西洋横断飛行への参加(1919年)や、米海軍初の航空母艦『ラングレー』の飛行長(1926年)、最新鋭空母『サラトガ』初代飛行長(1927年)など、着実にキャリアを積みました。
By http://www.af.mil/shared/media/photodb/photos/050607-F-1234P-019.jpg, パブリック・ドメイン, Link
真珠湾攻撃によってアメリカが第2次世界大戦に参戦した時(1941年12月8日)、ミッチャーは同年10月に就役したばかりの最新鋭空母『ホーネット』の艦長であり、東海岸のノーフォークを基地として慣熟訓練に従事していました。
戦争勃発で訓練をわずか3か月ほどで切り上げた同艦でしたが、西海岸のサンディエゴに回航されると、飛行甲板上に16機ものB-25『ミッチェル』双発爆撃機を搭載します。
これは陸軍の爆撃機だったので、首をかしげる乗員に「ハワイへ運ぶ」と説明されましたが、ハワイへは立ち寄らず、同型艦『エンタープライズ』とミッドウェー沖で合流し、ひたすら西へ、日本本土へ。
そう、『ドゥーリットル空襲』です。
アメリカ初の日本本土爆撃を成功させたミッチャーは、少将に昇進して『ホーネット』を降りるはずでしたが、後任の艦長が習熟する前に日本軍がミッドウェー島に攻めてきたため、急遽そのまま同艦の艦長として出撃、ミッドウェー海戦が始まります。
ミッドウェー海戦で、『ホーネット』はドゥーリットル空襲に引き続き『エンタープライズ』とともに第16任務部隊の主力として参戦しますが、ここで任務部隊司令官のスプルーアンス少将との不仲が発生します。
座乗する『エンタープライズ』を直接指揮するスプルーアンスと、その指揮下で行動する『ホーネット』のミッチャー艦長の間で連絡不足が生じ、命令がうまく届かずに『エンンタープライズ』が攻撃開始後も、攻撃隊を出せない事態が生じたのです。
同海戦は巡洋艦部隊指揮官のスプルーアンスが大勝利を収めて出世の足がかりにした一戦でしたが、やはり初めての空母機動部隊の指揮は不慣れだったのだと言わざるを得ません。
しかし、スプルーアンスは自身のミスを棚に上げ、ミッチャー自身のミスも含めた全てをミッチャーの責任として、激しく酷評してしまいます。
ミッチャーとしては、「お前のせいで戦果拡大のチャンスを逃したし、『ヨークタウン』まで沈められた。どうしてくれるんだ?」と言わて困惑してしまいますが、ともかく耐えるしかありませんでした。
そう、今までと同じように、そしてこの先もひたすら。
ミッドウェー海戦後にようやく『ホーネット』を降りたミッチャーは、その後しばらく地上基地航空部隊の指揮官となります。
これは左遷ではなく、より大きな部隊を率いるという意味でむしろ栄転とも言えましたが、指揮を取ったのが日本軍との激戦続くソロモン方面の航空指揮官でしたから、パイロット出身のミッチャーとはいえ過酷な任務でした。
しかも米陸軍・海軍・海兵隊・ニュージーランド空軍混成部隊でしたから、まず彼らをまとめあげねばならず、戦果を挙げた部隊にはミッチャー自らウイスキーを進呈するなど、士気高揚にも努めなければならなかったのです。
しかし、努力が報われ連合軍は同方面での制空権を獲得、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の搭乗機撃墜作戦を指揮するなど戦略的な勝利も収めて大活躍しますが、ようやくこの任を解かれた時、ミッチャーは心労で体重が52kgまで落ちてガリガリでした。
しばらくは西海岸のサンディエゴで休暇を兼ねた任務につけられましたが、その間の海軍からの待遇は、太平洋艦隊からの要請により「とにかく自由にさせて早く回復させること」でしたから、海軍当局が驚く程にミッチャーの消耗は激しかったと言えます。
1944年1月、ついにミッチャーが海に帰ってくる日が来ました。
それも、初期にはエセックス級など正規空母とインデペンデンス級軽空母合わせて9隻、やがて15隻に増える世界最大最強の高速空母機動部隊、『第58任務部隊』の指揮官としてです。
しかし、第58任務部隊を指揮下に収める第5艦隊の司令長官は、何とミッドウェー海戦でさんざんにミッチャーをこき下ろしたスプルーアンス大将でした。
(※補足説明として当時はハルゼー大将が指揮すれば『第3艦隊』であり、その傘下の高速空母機動部隊は『第38任務部隊』。スプルーアンス大将が指揮すれば同『第5艦隊』と『第58任務部隊』と名前が変わっていましたが、基本的に両者は指揮官違いの同じ艦隊です。)
おまけにスプルーアンスはお気に入りのパウナル少将に機動部隊の指揮を任せるつもりが、太平洋艦隊司令長官のニミッツに勝手に解任され、おまけに嫌っていたミッチャーが後任とあって大激怒。
しかも第58任務部隊傘下の空母任務群の1つを率いるフォレスト・C・シャーマンはミッチャーの同期でしたが、自分がパウナルの後任として任務部隊司令官になると信じて疑わなかったので、ミッチャーを逆恨みしてこれまた激怒。
上司と部下がこのような有様では、とても働きやすい職場とは言えませんが、ミッチャーはここでも耐えて耐えて、耐え忍びます。
各レベル指揮官の不仲という最悪の条件下でしたが、とにもかくにも出撃した第58任務部隊は、クェゼリン、トラック、マリアナと転戦するうち、スプルーアンスの誤解と偏見はようやく解け、ミッチャーを一流の機動部隊指揮官として認めるようになりました。
これは、各作戦の成功が圧倒的な戦力だけでなく、ミッチャーの積極果敢な判断が功を呈し、反撃してきた日本軍をことごとく返り討ちにしたからです。
ミッチャーは引き続きマリアナ沖海戦で日本海軍第1機動艦隊を殲滅、フィリピン戦が始まるとハルゼー指揮下で第3艦隊第38任務部隊指揮官として、栗田艦隊(第1遊撃部隊)の戦艦『武蔵』を撃沈、返す刀で小沢艦隊(機動部隊)を殲滅します。
この頃には機動部隊指揮官として熟練の域に達したミッチャーをハルゼーも信頼していましたが、いかに連戦連勝とはいえ激戦続きの激務でミッチャーの健康状態は悪化、体重はそげ落ち、顔は土気色になりながらも機動部隊を指揮し続けました。
1944年11月から2ヶ月の休養を経たミッチャーは、再びスプルーアンスの第5艦隊第58任務部隊指揮官として復帰、神風特攻隊に悩まされながらも硫黄島、沖縄、日本本土への攻撃を続け、1945年4月には特攻出撃してきた戦艦『大和』を撃沈します。
同5月11日には座乗していた空母『バンカー・ヒル』に特攻機が命中、二度と第一線任務に復帰しなかったほどの大損害を受け、参謀長のアーレイ・バーク少将を除く司令部スタッフの多くが死傷する大惨事でしたが、ミッチャーは傷一つ受けませんでした。
旗艦を空母『エンタープライズ』に移したミッチャーでしたが、同艦もわずか3日後の5月14日に特攻機が命中、これまた再起不能の大損害を与えますが、誰もが伏せた命中時の爆炎が去ると、ミッチャーはただ一人甲板上に無傷で立っていました。
ここまで来ると『不死身というより不気味』に思えますが、ともかく空母『ランドルフ』に移ったミッチャーは5月27日の艦隊交代(スプルーアンスの第5艦隊からハルゼーの第3艦隊に交代)により、ようやくこの戦争で最後の指揮を終えたのです。
引継ぎのため戦艦『ミズーリ』でミッチャーを迎えたハルゼーは、わずか45kgに体重が落ちて一人ではラッタル(階段)を登ることもできない、骸骨のようにやせ衰えたミッチャーを見て仰天したと言われています。
本国へ帰還後間もなく戦争は終わり、米海軍作戦部長への就任を断ったミッチャーは1946年3月に大西洋艦隊司令長官に就任しますが、わずか1年足らず後の1947年2月3日に心臓発作で亡くなりました。
激戦の中で、文字通り『身を粉にして戦い続けた』名提督は、戦争が終わって平和を見届けるとともに、ロウソクの火が燃え尽きて消えるようにこの世を去ったのです。まだ60歳でした。
最後に、ミッチャーの艦長、あるいは指揮官としての主要な戦績を記します。
・ドゥーリットル空襲(空母『ホーネット』艦長)
・ミッドウェー海戦(同上)
・ソロモン方面制空権獲得(連合軍ソロモン諸島方面航空指揮官)
・連合艦隊司令長官 山本五十六大将機撃墜(同上)
・マリアナ諸島空襲で日本海軍第1航空艦隊撃滅(第58任務部隊指揮官)
・マリアナ沖海戦で日本海軍第1機動艦隊撃滅(同上)
・戦艦『武蔵』撃沈、第3艦隊(小沢艦隊・機動部隊)撃滅(第38任務部隊指揮官)
・硫黄島、沖縄、日本本土攻撃(第58任務部隊指揮官)
・戦艦『大和』撃沈(同上)
アメリカ軍の反撃が始まってから、日本海軍が壊滅するまでの間、最大の激戦地、それも最前線には常にミッチャーの姿があったことになります。
しかし、ミッチャーは寡黙な人物だったので、戦記の類でもハルゼーやスプルーアンスほど目立つことは最後までありませんでした。
ミッチャーの名は、戦後のミッチャー級駆逐艦1番艦『ミッチャー』や、現在もアーレイ・バーク級イージス駆逐艦『ミッチャー』(DDG-57)に遺されています。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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