- コラム
核弾道ミサイルの開発(特に再突入)はどうやって確かめる?過去の実践事例
2018/08/1
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/06/4
菅野 直人
圧倒的な数の敵、それに立ち向かう数少ない老兵、果たして彼らの運命やいかに!?……というシチュエーションはドラマや小説などのフィクションではありがちですが、現実にはなかなか無いもの。かと思えばそうではなく、「事実は小説より奇なり」というくらいで、たいてい元ネタがあるものです。今回は第2次世界大戦の初期、マルタ島で活躍した、たった3機の複葉機、イギリスのグロスター シーグラディエーターです。
地中海のど真ん中、イタリア南部のシチリア島のすぐ南、そして北アフリカのチュニジアやリビアとの中間に、マルタ島という小さな島があります。
第2次世界大戦後の1964年に独立し、1974年以降はイギリス連邦のマルタ共和国となって今に至っていますが、場所が場所ですから古代から「交通の要衝」として幾度も戦火を浴びては支配者が変わるというなかなか物騒な場所です。
その地理上、どうしても否応無く戦争に巻き込まれる国というものがありますが、マルタなどはその典型的な例の1つでしょう。
ナポレオン没落後にイギリスの支配下になってからは七つの海を制した大英帝国の威光もあってしばらく落ち着き、第2次世界大戦が始まってからもドイツは地中海に戦力を持たなかったので、しばらくは平穏な日々が続きました。
しかし、地中海といえばドイツの同盟国、イタリアがフランスとその覇権を争っている海です。
1939年9月にドイツのポーランド侵攻をキッカケとして始まった第2次世界大戦は、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告するというヒトラーも予想していなかった誤算で突発的に始まったので、イタリアも準備不足で最初は動きません。
しかし、1940年5月にフランス戦が始まり同国があっけなく崩壊しかけると、翌6月にイタリアはここぞとばかりに電撃参戦することに。
しかし、そうなると邪魔なのがイギリス領マルタ島で、イタリアにとっては北アフリカのイタリア領リビアとの空路や海路を妨害する拠点ですから、叩き潰すなり占領するなりしたくなります。
フランス戦の後にイギリス本土侵攻を予定していたドイツからも、北アフリカのイギリス領エジプトを攻撃することでイギリスの国力を削いでほしいと依頼が来ていますから、戦争する上でマルタ島は目の上のタンコブだったわけです。
一方、イギリスにとってもマルタを失えばイタリア・ドイツといった枢軸国の妨害ができなくなるのはおろか、北アフリカの植民地や東地中海の友好国を危険に晒し、微妙な立場にある国を枢軸側に追いやることになります。
何としても攻めたい枢軸側、何としても守りたいイギリス側との間で、激戦は必至でした。
By Kogo – photo taken by Kogo, CC 表示-継承 3.0, Link
しかし、絶望的なフランス戦線でかろうじてドイツ軍を食い止めている……というより、もはや全滅を避けるためフランスから脱出するための時間稼ぎをしているに近かったイギリス軍には余裕がありません。
従ってマルタ防衛用の戦闘機なども配備していなかったのですが、さすがに何もしないのはマズイと思ったのか、空母グローリアスに搭載されていたシーグラディエーター20機程度をマルタ島に送ります。
とはいっても空母で運んで近くから飛び立ったわけではなく、分解梱包されて貨物船でお届け。イギリス海軍はドイツ相手に忙しかったのです。
かくしてマルタ島に配備されたシーグラディエーターでしたが、1934年初飛行、1935年制式採用の複葉戦闘機ですから、日本式にいえば陸軍の九五式戦闘機、あるいは九五式艦上戦闘機に相当し、零戦より5年も前ですから当時の飛行機としてはもう相当旧式。
「7.7mm機関銃を今までの2丁じゃなく4丁積んで火力が2倍になるといいな」という慎ましい要求仕様な上に、指定エンジンがどうしようもない代物だったので、勝手に別なエンジンを選定したグロスターの独自試作機がかろうじて採用されたという曰くつきです。
幸い、それで完成したグラディエーターは複葉戦闘機としてはそこそこマトモだったので、艦載型シーグラディエーターも含めて第2次世界大戦初期なら何とか戦えそうなのと、イタリア空軍も負けじと? 旧式だったのが幸いしました。
ただ、マルタ島には戦闘機パイロットがほとんどいなかったので組み立てにも熱が入らず、残りも梱包されたままギリシャやノルウェーといった、先にドイツやイタリアが攻めてきそうな場所に送られてしまいます。
結果、1940年6月にイタリアが参戦、マルタ島にイタリア空軍の戦爆連合が攻めてきた時に飛行可能だったシーグラディエーターはたったの4機で、残り数機もまだ梱包を解いていない状態。
どうせパイロットもいないし、故障や撃墜、不時着などで破損してもまだパイロットが無事だったら、ソイツの分だけまた組み立てれば問題無い、という妙な開き直り具合だったようです。
それでもマルタ島にはちゃんと対空レーダーがあったと言いますから、やる気があったのか無かったのかよくわかりませんが、ともあれレーダーで捕捉したイタリア爆撃隊に向かって、グラディエーターは勇ましく飛び立つのでありました。
さて、攻めてきたイタリア空軍はといえば、3発爆撃機のサボイア・マルケッティSM79はともかく、護衛はシーグラディエーター同様の複葉戦闘機フィアットCR42と、それより少しは新しくてマシな単葉引き込み脚戦闘機マッキMC200の混合編隊。
しかもイタリア空軍の戦闘機パイロットは飛行機を飛ばす能力には優れ、アクロバット飛行など格闘戦にはめっぽう自信のある名人揃いでした。
しかしそこはイギリス空軍側もさるもので、圧倒的に数が少ないことでもありますし、要するに戦闘機相手に格闘戦さえしなけりゃいいわけです。
レーダーからの情報に基づきイタリア空軍機より高い高度で待ち伏せし、急降下と急上昇を繰り返し一撃離脱戦法で、爆撃機を一方的に叩きのめしました。
もちろん、場合によっては戦闘機と空戦に入ることもあり、そんな時は相手を選んで格闘戦能力で勝てそうなMC200を撃墜するなど活躍。
結局、6月10日のイタリア参戦から2週間ほど奮闘しているうちに2機のグラディエーターを失い1機を組み立て、稼働機は3機だけになりましたが、その一方でイタリア空軍機多数(特にSM79)を叩き落とし、イタリア空軍の爆撃でマルタの基地機能が不全になることは回避できました。
6月も終わりになると(マルタ島としては)最新戦闘機のハリケーンや補充のパイロットも到着したので、この3機が圧倒的なイタリア・ドイツ連合編隊にボコボコにされる事無く、マルタを何とか守り切ることができたのです。
ハリケーンが到着するまでマルタを守った3機のグラディエーターには『Faith(信頼)』『Hope(希望)』、『Charity(慈善)』の愛称がつけられてその後も引き続き防空任務につき、2機が失われたものの『Faith』だけは生き残り、1943年9月3日に退役。
現在は島の戦争博物館に展示されているそうなので、マルタ島に観光に行く人は、訪ねてみてはいかがでしょう?
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
2018/01/2
Gunfire
1
2018/03/31
Gunfire
2
2018/01/11
Gunfire
3
2018/05/29
Sassow
4
2018/12/4
Gunfire
5
2017/07/26
Sassow
6