- コラム
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菅野 直人
映画『ランボー』や『コマンドー』のようにたった1人で奮戦するワンマン・アーミーはフィクションでありがちなネタですが、現実でもそうした例は皆無ではありません。しかも映画のように劇的な展開ではなく、「何か気づいたら1人で頑張ってた」というケースがあるようです。今回ご紹介する『コマンダー・ケリー』ことアメリカ陸軍のチャールズ・ケリー伍長もそんな1人です。
By Department of Defense. Department of the Army. Office of the Chief Signal Officer. – This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 531216., パブリック・ドメイン, Link
第2次世界大戦中の1943年7月、太平洋戦線ではまだ南洋のソロモン / ニューギニア方面で激しい戦いが続き、北方ではアリューシャン放棄が決定してキスカ島撤退作戦が成功した頃ですが、ヨーロッパ戦線では既に枢軸三国同盟の一角、イタリアが断末魔となっていました。
同年7月9日にシチリア島、9月3日にはイタリア本土に連合軍が上陸すると、穏健派のパドリア派が独裁者のムッソリーニを追い出して9月8日には休戦、その後ドイツ軍に救出されたムッソリーニはイタリア北部にイタリア社会共和国を設立して交戦を続けるのでした。
そんな最中の1943年9月13日、イタリア戦線に加わっていたアメリカ陸軍第36歩兵師団第143歩兵連隊L中隊の伍長、つまり「数ある戦線のどこにでもいる下士官の1人」が、この記事の主人公、チャールズ・ケリーです。
彼はその日、朝から敵陣への威力偵察を含むパトロールから帰り、味方が守っているはずの陣地へ連絡任務を帯びて敵弾飛び交う中を向かうもその陣地は既に陥落、それを報告後に別な敵陣2つを攻撃する任務についていました。
つまりベトナム戦争映画もビックリな『激戦』もいいところだったわけですが、ケリーが優秀な兵士だったのか、単に人手不足で忙しかったのか、上官や戦友からイジメられて危険な任務にばかりつけさせられたのかは、何ともわかりません。
ともあれ、おそらく夕刻以降の話だと思いますが補給を受ける許可を得たケリーが弾薬補給所にたどりつくと、本来戦線後方のはずのそこはドイツ軍から攻撃を受けている真っ最中でした。
どうもL中隊、あるいは連隊そのものがドイツ軍に包囲されかかっていたようです。
By 不明 – Encyclopedia of Weapons of World War II, パブリック・ドメイン, Link
ここで装備弾薬を受け取ったケリーは、原隊復帰ではなく臨時応戦要員の1人として倉庫背面の防衛を現場指揮官から命じられます。
もちろん『弾薬集積所』とはその名の通り爆発物や危険物の塊のようなものですから、そんなところに1秒でも留まりたいと思わないのが普通ですが、命令とあらば仕方がありません。
歩兵用のM1ガーランド自動小銃ではなく、連射の可能な分隊支援機関銃・BAR(ブローニング・オートマチック・ライフル)を与えられた彼は、そこで銃身も焼けよとばかりにドイツ軍へ向かって乱射を始めます。
というより射ち過ぎて銃身が本当に焼け付き、それを放り投げると別なBARを見つけてはまた撃ちまくり、それも焼け付くとまた次のBARを……という塩梅で、狙って撃っていたというよりも、とにかくドイツ兵の頭を上げさせないよう乱射していたのでしょう。
BARが尽きると短機関銃のトミーガンを見つけてまた乱射、とにかく弾薬集積所ですから武器弾薬は豊富で、手当たり次第に何でもいいならコンピュータ・ゲームのごとく撃ち続けられる状況にあったわけです。
武器が発射不能になったり弾切れになるたび、移動しては新たな武器を見つけて撃ちまくるケリーは、まさに「アイテムを見つけては撃ちまくるゲーム」のようであり、それでドイツ兵がバラバラ倒れていたわけではないようですが、ともかく弾薬集積所は持ちこたえていました。
それでも迫るドイツ兵を相手に、ゲームなら「一度にたくさん倒せるすごいアイテム」が登場するところですが、ケリーが見つけたのは何とバズーカ砲!
ただし小銃と手榴弾くらいしか扱ったことが無かったのか、バズーカ砲の操作法を知らなかったケリーは急いでゲームの説明書をめくり……ではなく適当に操作していると発射に成功!
やったねケリー! クラウツ(ドイツ兵)が何人か吹き飛んだぞ!
バズーカが弾切れになると、そのへんにあった手榴弾らしきものの安全ピンを抜き、ドイツ軍がいると思しき建物へ適当に投げると大爆発して建物は炎上! ただの破砕手榴弾ではなく焼夷手榴弾でした。
さらに今度は手榴弾より一回り大きな何かを見つけるも、安全ピンが見つかりません。
それは手榴弾ではなく60mm迫撃砲弾だったので扱いが違って当然ですが、どうにかそれらしきものを抜くと、目の前にドイツ兵が迫ってきたので投げつけ、一挙に殲滅!
まさにゲームのリプレイ動画のような活躍ですが、実際にあったことと言われますからケリーの大活躍もさることながら、相手をしたドイツ軍もいい迷惑です。
By This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID fsa.8b02770.
This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, Link
そうこうしているうちに中庭に置かれた対戦車砲に気づいたケリーは、いいものがあったとばかりに駆け寄りますが、バズーカ砲の撃ち方さえ知らない彼が対戦車砲の扱い方を知る由もありません。
「確かこんな感じで撃ってたよなー?」
と見よう見まねで思い出しながら装填、発射したというのですからホンマかいなと言いたくなりますが、ロクに照準もしなかったためか、砲弾はいきなり目の前の壁に命中したといいますから、本当のことなのでしょう。
幸い砲弾は着弾と同時に爆発しない小口径の徹甲弾だったので壁を貫通するだけで済みましたが、これが榴弾を使う野砲だったら大変だったかもしれません。
しかし当時のドイツ戦車には『ドアノッカー』と呼ばれて無力な37mm対戦車砲もこの時は役に立ち、弾着から適当に直接照準を修正して撃ったら目標にしていた建物(教会の尖塔)は倒壊しました。
ドイツ軍も小うるさい反撃のみならず、対戦車砲まで撃ってきたとなれば射程外からカタをつけたくなったようで、砲兵支援を要請して中庭に砲弾が降り注ぐようになり、ケリーも退避はしますがその間はドイツ軍も進撃できません。
弾薬集積所に戻り、狙撃兵を警戒したり、この状況下で呑気にパスタを茹でていた他のアメリカ兵をどやしつけながら外に向けてまたBARを乱射しますが、ドイツ軍の砲兵支援がやむと、また中庭に戻って対戦車砲を撃ちまくりました。
その後も弾薬集積所内を駆け回っては武器を探し、負傷兵が自分の弾薬をくれるのでそれでBARやトミーガンを撃ちまくり、味方が撤退するとは言うものの、いかなる精神状況にあったものか残留を志願して、一番最後に撤退しました。
後から判明したところによれば、ドイツ軍1個中隊の襲撃をほぼ独力で乗り切ったことになっており、実際にはいささか誇張があったと思われるものの、生還した彼は5ヶ月後に名誉勲章を受章して本国に凱旋帰国、彼の『華やかな地獄』は終わりを告げます。
その後は本国で戦時国債購入キャンペーンの宣伝塔になったり、歩兵学校の教官になったりしたものの、第2次世界大戦も終わったので除隊、最終階級は軍曹でした。
その後のケリーはどうなったかというと……『戦争に愛された男』の多くがそうであったのと同様、事業を起こしてはうまくいかず、仕事についてはすぐクビになり、結婚しては離婚してアル中になるなどロクな人生では無かったようです。
1985年1月、腎臓と肝臓の障害で入院していたピッツバーグの退役軍人病院でひっそりとこの世を去り、『コマンドー・ケリーの伝説』だけが残りました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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