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2018/05/21

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「帝国海軍最大のギャンブラー」連合艦隊司令長官・山本 五十六

アメリカとの戦争となれば、半年は暴れてご覧にいれますが、その後は……」その言葉通り、太平洋戦争開戦から約半年間『無敵の連合艦隊』を演出した立役者、日本海軍大将・山本 五十六(いそろく)。海軍航空の発展に大きく貢献し、後の戦争の姿を変えた偉大なる提督は、太平洋戦争前に宣言した通り約半年の間西太平洋を支配し、非業の最期を遂げたこともあって現在でも伝説のように語り継がれています。







真珠湾攻撃の立役者

真珠湾攻撃
By 不明 – Official U.S. Navy photograph 80-G-21218 from the U.S. Naval History and Heritage Command., パブリック・ドメイン, Link

日本時間1941年12月8日0240時(現地時間12月7日0752時)、アメリカ合衆国ハワイ準州の軍港、真珠湾上空に到達した日本海軍第1機動部隊・第1波攻撃隊指揮官機は短い暗号文『トラトラトラ』(ワレ奇襲ニ成功セリ)を打電。
同日0900時頃(同日12月7日1412時頃)、2波に渡る攻撃隊を収容した第1機動部隊は北北西に変針、日本への帰路につきます。

その背後、はるか彼方では壊滅したアメリカ海軍太平洋艦隊の戦艦8隻を含む多数が撃沈破されて爆発炎上しその後数ヶ月間の暗い日々を予兆させていたのでした……。

日本が第2次世界大戦に参戦、太平洋での戦火を上げた『太平洋戦争』の第一撃のひとつであり、短時間に最大の戦火を上げた真珠湾攻撃。
日本本土からはるか彼方のハワイに稼働可能な主力空母6隻を派遣し、当時の日本海軍が可能な最大級の打撃力を叩きつけた冒険行は大成功を収めましたが、その大機動部隊を密かにハワイに接近させるだけでも難事という大博打を立案した人物とは。

大日本帝国海軍最大のギャンブラー、山本 五十六 大将はこの成功をもって、伝説的人物の仲間入りを果たします。

日露戦争で名誉の負傷

Isoroku Yamamoto.jpg
By 不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, Link

1884年4月4日、現在の新潟県長岡市で旧越後長岡藩士・高野家の六男として生まれ、その当時の父親の年から『五十六』と名付けられた(※)男児は、負けず嫌いの男でした。
(※ちなみに母親も45歳で現在の基準でも高齢出産の部類に入る)

少尉候補生時代の1905年、日露戦争時に最新鋭装甲巡洋艦『日進』配属となり日本海海戦に参戦、激戦の中で負傷して左腕切断の危機となるも、左手の人差し指と中指を欠損しただけで済んでいます。
その後、1915年に旧長岡藩家老・山本家に養子縁組してこれを相続し、高野 五十六は『山本 五十六』と名を変えました。

砲術から航空への転身、『赤城』で着艦機、身を呈して止める

インド洋作戦中の赤城の飛行甲板(1942年4月)
パブリック・ドメイン, Link

少尉候補生時代に戦火をくぐっていたとはいえ、基本的に海軍将校は少尉任官後も各種学校を渡り歩いて自分の専科が定まり、何らかの指揮官となって初めて一人前の将校となるものです。
山本は砲術将校となりましたが、海軍経理学校の教官時代は兵器学担当であったり、海軍大学校時代には軍政学担当であったりと、若い頃から単なる『大砲屋』ではありませんでした。

1919年から1921年のアメリカ留学時には、海軍航空開発の第一人者と言われる上田 良武 大佐(当時・駐米武官)から受けた指導や大恐慌前のアメリカで日本とは比べ物にならない規模の工業地帯の活況を見て、その後の対米戦に強く関わる見聞を深めています。

1925~1927年にも今度は駐米武官としてアメリカに滞在していますが、その間に砲術から航空に転科して霞ヶ浦航空隊へ配属(1924年9月)、帰国後に空母『赤城』初代艦長(1928年)するなど、当時の日本海軍では少数派の「航空主兵論者」になっていきました。

なお『赤城』艦長時代、就役後に初の着艦試験が行われた際、制動に失敗(当時は現在のような横ワイヤーにフックを引っ掛けるのではなく、縦ワイヤーとフックの摩擦で止める難しい方式)した艦載機がオーバーランしかけたことがあります。

誰もが事故を予期する中、先頭切って艦載機にしがみついたのは山本でした。
当時、着艦機が止まりそうに無い場合は整備兵などがしがみついて止めるような危険な運用はイギリスでも行われていましたが、艦長が先頭を切るなど前代未聞で周囲は驚愕! 機もろとも艦長まで転落しては大変と、その場の総員が駆け寄って機を止めたそうです。

将棋とギャンブルが大好き

山本のエピソードで有名なのは将棋とギャンブルで、アメリカ留学時代に将棋自慢の一般留学生と100番勝負の予定で対局を始め、26時間連続で75番、体力の限界を感じるまで打ち続けたと言われます。

連合艦隊司令長官になってからも暇があれば参謀などを呼び止め「オイ、一局ささんか?」とやるのは定番だったそうで、密室で香を炊いて瞑想する黒島参謀などはじめ、開戦時の連合艦隊司令部は変人が多いと評判になりました。

また、ギャンブル好きでも有名だった山本には嘘か誠か判断つきかねるギャンブル武勇伝が軍歴より多いのではないかというほどで、ラスベガスには山本に一晩で潰されたカジノがある、モナコのカジノ協会から出入り禁止にされたなど多数。
まるでパチプロのようですが、戦後まで山本が生き残ってパチンコにハマっていたら、やはり出入り禁止のホールが多数出るまで遊んだのでしょうか?

なお、「引退(予備役編入)したらモナコでルーレットに通い、閑人から金を巻き上げて暮らしたい」「2年ほどヨーロッパで(ギャンブルで)遊べば戦艦の1、2隻作る金くらいできる」など、ほとんど冗談としてもギャンブルへの自信は相当なものでした。

バクチ運の尽きたミッドウェー

Hiryu f075712.jpg
By USAAF – Official U.S. Army Air Forces photo USAF 75712 AC from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, パブリック・ドメイン, Link

もっとも、成功するギャンブラーは常にそうであるように、山本も単に運任せのギャンブルをしていたわけではありません。

日本海軍史上最大のギャンブルと言われた真珠湾攻撃も、対米戦でアメリカ海軍とどう戦うか悩んでいた山本が、ある演習で停泊していた旗艦『長門』が魚雷を積んだ飛行艇に奇襲攻撃を受けたあたりから着想が始まります。
この時の攻撃は、泊地の水深が浅いため「投下された魚雷は全て海底に着底無効」とされましたが、飛行艇による奇襲の鮮やかさから、「真珠湾を空母で攻撃できないか?」と考え出しました。

ハワイまでは民間船舶の少ない北太平洋を通れば見つからずに接近できるメドがたち、予想される対空砲火も猛訓練で超低空高速飛行を行えば、投弾前に撃墜される確率は低くなります。
最後に問題となったのはヒントとなった演習の泊地と同様、真珠湾の水深も浅いことで、これも九一式航空魚雷改2に『超低空ギリギリで投下すれば、着水後にあまり潜らない安定板』を装着したことで解決。

つまり、ギャンブルをやるにしても勝てる可能性をギリギリまで高める努力を怠らなかった、その意味で山本はまさに『真のギャンブラー』でした。

しかし、開戦前に近衛首相(当時)に約束した「対米開戦すれば半年は暴れますが、2年、3年までは見通せません」という言葉が、山本のギャンブラーとしての本音であり、限界だったとも言えます。

実際、太平洋戦争開戦から半年、1942年5月までは連戦連勝で「無敵艦隊」を演じられたものの、ギャンブル的作戦はどれだけ完璧な仕込みをしても、いつか負ける時もあれば、それが致命的な負けということもありえるのです。
おまけにギャンブルの相手は資金力(経済力や工業力)にモノを言わせたアメリカですから、どれだけ勝っても相手の底が見えないうちは、本当の意味で勝ったとは言えません。

ミッドウェー海戦はまさにその意味で最悪の負けを喫したギャンブルで、それまでの勝ち分をほとんど失った上に、その後の勝運まで全てアメリカに持って行かれた、最悪の敗北でした。

ヤマモトを撃墜せよ!

ミッドウェー海戦後の山本は、ギャンブル的な作戦を控え……というよりも、海軍中央や陸軍からギャンブラーとしての信頼を失い、参謀など部下からもギャンブル的な作戦(自ら旗艦『大和』を指揮してのガダルカナル突入など)は控えてくれと懇願されるような有様で、もはやギャンブラーとは言えなくなっていました。

人望はあったので引き続き連合艦隊司令長官には留まりましたが、その作戦はよく言えば堅実、悪く言えば消耗を恐れた消極的なものとなり、1942年8月から始まったガダルカナル戦以降はもっとも不得意な消耗戦に引きずられていきます。

今持っている賭け金を全て失っても背後に札束の山が控えたアメリカを前に、失うわけにはいかない賭け金を、消極的な手で少し増やしては、アメリカの大胆な攻め手で大きく減らすという有様で、『伝説のギャンブラー』の神通力は完全に失われていたのです。

それでも戦いの指揮をとり続けた山本に対し、アメリカはついに「山本の前線視察予定を暗号解読で完全把握」という、山本排除の大チャンスを手に入れました。
アメリカ側も山本の衰えを把握していたものの、排除による日本軍の士気の低下、あるいは山本を排除した後でより有能な指揮官が後任とならないかを計算した上で、陸軍の双発長距離戦闘機P-38に出撃を命じます。

1943年4月18日、わずか6機の零戦を護衛に連れた、山本はじめ連合艦隊首脳部を乗せた2機の一式陸上攻撃機がブーゲンビル島上空に差し掛かると、P-38は(暗号解読の事実を伏せるため)偶然を装い一気に襲い掛かりました。

搭乗機を撃墜したとされるP-38のパイロットは、後に「燃料タンクから火を吹いて墜落を始めたベティ(一式陸上攻撃機)の銃座に高級将校が現れ、自分に反撃してきた」と語っており、墜落直後も生存していた痕跡はありましたが、結局捜索隊が見つけた時には、既に事切れた後だったと見られます。

乗機の撃墜により戦死した山本は、死後『元帥』の称号を贈られ山本元帥となり、遺骨は戦艦『武蔵』で内地に帰還、盛大な国葬が執り行われました。
全盛期以降も賭け金不足に悩みつつ、底無しの富裕家・アメリカ相手に勝負を挑み続けて敗れた、帝国海軍最大のギャンブラー・山本 五十六

国葬後に多磨霊園に埋葬されて後、現在は新潟県長岡市の長興寺に眠っています。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。
撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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