- コラム
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菅野 直人
すごいー! たーのしー!
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菅野 直人
現在はバラバラの国家になっていますが、かつてヨーロッパ南東部のバルカン半島には、ギリシャの南に“ユーゴスラビア”という連邦国家がありました。東西冷戦終結と相前後するかのように各民族の紛争が激化して独立が相次ぎ、1992年に完全消滅しますが、それは東ヨーロッパの旧ソ連衛星国家とは異なり、ある1人のカリスマ的指導者の死が根本的だったと言われています。ナチスドイツへの抵抗から連邦国家を作り上げ、維持してきた指導者、ヨシップ・ブロズ・チトーとは?
スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェコビナ、モンテネグロ、セルビア、それに承認している国は少ないものの、コソボを加えた7カ国が「旧ユーゴスラビア」として知られています。
この場合のユーゴスラビアとは、民族紛争の果てに1992年に消滅した“ユーゴスラビア社会主義連邦共和国”を指しますが、ユーゴスラビア自体はそれ以前から存在しました。
1918年、第1次世界大戦で敗北したオーストリア=ハンガリー帝国領を、セルビア王国が吸収合併する形で成立してユーゴスラビア王国を建国したのが始まりで、第2次世界大戦中に一度は枢軸国に加盟するも、直後に軍がクーデターを起こして政権を打倒し、不信感を持ったドイツの侵攻を招いて1941年4月17日に崩壊してしまいます。
以後、クロアチアが独立したほかはドイツなど枢軸側の占領下に入りましたが、第2次世界大戦後は独立を回復するとともに、ソ連など他の共産主義国家とは独自の道を歩む社会主義連邦国家としての道を歩みました。
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ヨシップ・ブロズ・チトー、本名はヨシップ・ブロズまでで、チトーは「お前(Ti)があれ(To)をしろ」という口調からついたあだ名のようですが、それだけ横柄でありながら多民族国家連邦国家を見事にまとめ上げていた人物です。
1892年クロアチア生まれ、1913年から徴兵されてオーストリア=ハンガリー軍の兵士になりますが、1914年に勃発した第1次世界大戦で東部戦線に送られてロシア軍の捕虜になり、最終的にシベリアでロシア革命に参加して、赤軍の一員および共産党員になりました。
革命が一段落すると1920年にようやく帰国しますが、セルビア王国に吸収され“ユーゴスラビア王国”となった故郷でもユーゴスラビア共産党員になり、非合法な活動家として逮捕、投獄されたり、スペイン内戦に共和国政府側の義勇兵として参加しています。
つまり、1941年4月にドイツがユーゴスラビアを占領・解体した頃には「実戦経験も党活動経験も豊富な、立派な革命家」になっていました。
直後からソ連が援助する共産主義者主導の共和派“パルチザン”、ソ連以外の連合国が援助するセルビア人主導の王党派“チェトニク”による抵抗運動が始まりますが、チェトニクは途中で枢軸側に寝返ります。
ユーゴスラビア最大の抵抗組織となったパルチザンは1943年11~12月に行われたテヘラン会談で連合国全体と、ロンドンのユーゴスラビア王国亡命政府からの支持を受け、ユーゴスラビア人民解放軍を編成、その指導者となったのがチトーです。
人民解放軍は寝返ったチェトニクを含む枢軸軍と激しく戦い、一時は壊滅寸前になるものの、連合国からの支援で盛り返し、むしろ敵中にありながらドイツ軍など枢軸軍の戦力を吸引拘束する、大きな戦力となりました。
その結果、1945年5月にナチスドイツが降伏、ヨーロッパにおける第2次世界大戦が終結した時には、人民解放軍はドイツ軍を圧倒しユーゴスラビアをほぼ解放していたのです。
戦争終結直前、解放された首都ベオグラードでチトーを首相とする正式な政権が発足、国民投票で亡命政府の国王の廃位が決まると、ユーゴスラビア連邦人民共和国を成立させますが、チトーはソ連の独裁者スターリンと折り合いが悪かったようで、距離を取るようになります。
その結果、怒ったスターリンはユーゴスラビアを東側から放逐し、1949年にはソ連・ユーゴスラビアの友好条約も破棄されたことで、ユーゴスラビアはソ連に与しない独自路線を歩むようになりました。
ソ連式の国営企業方式を採用せず、労働者が資本を持つことを許し、労働者が経営者を求人して選ぶ独自の社会主義を建設、それでいて完全な資本主義というわけでも無かったので西側にも属しない“第三世界”を構築して、インドなどと共に非同盟政策を採ります。
「味方では無いが敵でも無く、少なくともソ連とは敵である」ということで西側、ことにアメリカから軍事面も含む多大な援助を受けて国は栄え、労働者は豊かになりました。
チトーのポリシーとして「ユーゴスラビアはひとつであり、民族主義的な思想は許さない」というものがあり、強権で収容所送りというのも珍しくなかったとも言われますが、それ以外の政権批判など言論の自由は認めています。
つまり、何を言ってもある程度は許されるが、「アイツは~民族だから排除しよう」という思想は許さないというしごく真っ当なもので、それゆえ民族的自立心の高い人間にとっては非常に苦しかったものの、経済的には潤い連邦国家もよくまとまっていました。
しかし、ロシア革命以来の共産党員として優遇し、第2次世界大戦中から多大な援助を与えたにも関わらず裏切られた形となるソ連、ことにスターリンにとってはまさに「裏切り者」でしかありません。
そのため、チトーのような政治思想を東側では“チトー主義”と呼んで徹底的に弾圧し、ユーゴスラビアのような国が生まれないよう努力したほか、チトーに対する暗殺団もソ連から多数送られました。
まさにヒーロードラマのような展開ですが、チトーの凄まじかったのは、ソ連仕込みの秘密警察を組織してその暗殺団に対応、その全てを撃退または検挙した挙げ句に、スターリンへ「そこまでするならこちらも考えがある」と、逆に暗殺団を送ることを示唆したのです。
これにはさすがのスターリンも頭を抱え、それ以上ユーゴスラビアに手出しができなくなってしまい、また1953年にスターリンが死去して以降のソ連指導部も、スターリン主義からの反動もあって、チトーに一目おかざるを得ませんでした。
長く続いた東西冷戦中、常にソ連と国境を接し、その圧迫を受けながら巧みな政策や外交でついにその影響下に入らず、さりとて西側陣営にも入らなかったのはユーゴスラビアとフィンランドくらいなものです。
そしてユーゴスラビアにおいては、救国の英雄チトーの圧倒的カリスマ性と卓越した指導力が、実現のための原動力でした。
しかし、チトーは人間であり、そうであるからには寿命がありました。
1980年5月、医師団による件名の努力にも関わらず体調の回復しなかったチトーは、スロベニアの病院で88年の生涯を閉じたのです。
偉大な功績を残したチトーですが、ただひとつ、“後継者”を残すことだけはできず、その失敗がユーゴスラビアにとっては致命的なものとなりました。
チトーの死後もしばらくはその政治思想は維持され、連邦を構成する各共和国の首脳部たちが手を取り合って連邦を運営し、1984年にはボスニア・ヘルツェコビナの首都サラエボで冬季オリンピックも開催、多民族国家の団結をアピールしています。
しかし、それはあくまで表向きだけで、チトー亡き後の連邦政府は各共和国からの信頼と支持を次第に失っていきました。
各共和国では民族主義が復活し、特にスロボダン・ミロシェヴィッチを代表格とするセルビア人民族主義者は、かつてのセルビア王国のような「大セルビア主義」を再興し、他の民族を弾圧し始めます。
どの民族もユーゴスラビアからの離脱と民族自決を求めた時、ユーゴスラビア国民がその死を嘆き悲しみ、涙を流したチトーはもうこの世にいません。
かくして1991年にスロベニア共和国が独立、他の共和国も続々と後に続いてユーゴスラビア連邦軍やセルビア人武装勢力との激しい内戦が始まった時、それを止めるべき人物は誰もいなかったのです。
チトーを失い、1992年に社会主義連邦共和国が崩壊した後もユーゴスラビアでは内戦が続き、それがどうにか全て終結したのは2001年のことでした。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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