- コラム
究極の一発芸! 一芸軍艦BEST5
2017/07/29
菅野 直人
すごいー! たーのしー!
2018/04/30
菅野 直人
第2次世界大戦は各地で激戦が行われましたが、それらのほとんどは突き詰めて言えば連合軍、枢軸軍ともに互いの重要拠点をいかに防衛し、増援や補給を送り込み、妨害してという兵站路攻防戦の連続でした。地中海に浮かぶマルタ島を巡る戦いもそんな激戦の1つでしたが、1942年8月、この島を支配する連合軍は枢軸側の攻撃で降伏の危機に瀕します。それを防ぐために必要な最後の補給作戦「ペデスタル作戦」のため全力を投じるイギリス海軍と、妨害しようとする独伊枢軸軍の激しい戦いが、始まろうとしていました。
By Priest L C (Lt)Royal Navy official photographer –
This is photograph A 11293 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-01)
, パブリック・ドメイン, Link
地中海のど真ん中、イタリアのシチリア島の目前にあり、北アフリカのリビアやチュニジアとの間にどっかと居座るマルタ島は、イタリア軍救援とイギリス軍撃滅を目指すエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・北アフリカ軍団にとって目の上のタンコブでした。
マルタから出撃する航空機によって枢軸側の北アフリカ兵站路は常に脅かされて補給物資は半分も届かず、北アフリカ軍団は常に燃料など物資不足に悩み、イギリス軍から奪いながら何とか戦っている状況だったのです。
しかし、イタリアの目の前という場所が場所ですから、マルタ島も無事では済みません。
イタリア参戦以来島は猛烈な空爆にさらされ、マルタ島への兵站路も寸断されて、島の住民も駐留軍もヘロヘロになりながら敵中に孤立して何とか戦っているような状態だったのです。
特に深刻だったのは石油不足で、海水の淡水化装置を稼働させる燃料が無いと、マルタ島はただでさえ不足しがちな武器弾薬や食料が尽きる以前に、渇水で降伏せざるをえなくなります。
連合軍もそれを座視していたわけではわく、1942年にはヴィグラス作戦でエジプトのアレキサンドリアから、ハープーン作戦で地中海の入口、ジブラルタルから同時に補給船団を送り込みますが、独伊枢軸軍の攻撃で貨物船2隻しか届かず、石油は届きませんでした。
いよいよもってマルタ島の命運は風前の灯火となり、遅くとも9月7日までに石油が届かなければ降伏は必然、そしてそれまでにたどりつける唯一の補給船団がイギリス本土で編成されるとともに、強力な護衛艦隊が編成されます。
マルタ島の、そしてドイツ北アフリカ軍団の命運を決める天王山、「ペデスタル作戦」はこうして始動しました。
この最後の補給船団に対し、これを撃滅したい枢軸軍も、何としても守りきりたい連合軍も、投入可能な戦力の全てを注ぎ込みました。
枢軸側はイタリア空海軍のほか、東部戦線から一時的に引き抜いたドイツ空軍第2航空艦隊を投入。
連合軍側も、当時世界最大のタンカー、“オハイオ”を含む14隻のWS21S船団を守るため、ムルマンスク航路(対ソ連支援船団)を一時休止していたイギリス海軍グランドフリートの本国艦隊から投入可能なほぼ全ての戦力を投入しました。
イギリス海軍の決意がどれほどだったかを示すため、以下に示します。
他の戦線に投入されたり修理中のものを除けば、ほぼ戦力出撃と言って良い戦力です。
そのほかにもエジプトのアレキサンドリアでイタリアの人間魚雷(爆薬を設置する水中スクーター)により戦艦2隻が大破着底するなど大損害を受けていた艦隊などからも、少数の陽動部隊が出撃しています。
直接護衛部隊を含む船団や、戦艦・空母を中心とした間接支援艦隊は7月31日から順次出撃、8月11日にはジブラルタル沖でタンカーからの洋上給油を受けマルタ島に急行しますが、その間アーガスが搭載飛行隊の訓練不足で離脱。
フューリアスはマルタ島への戦闘機輸送が主任務ですから、空母は実質3隻に減りました。
偵察機で強力な護衛を伴う大船団を発見していた枢軸側も、ただちにドイツ空軍、イタリア空軍に全力攻撃を命じ、重巡洋艦を中心とするイタリア艦隊も出撃しました。
この船団を阻止すればマルタ島は陥落、以後の北アフリカ戦線は順調に進んで対ソ戦に集中できるのですから、彼らも必死です。
600機近い戦爆連合編隊が入れ替わり立ち代り来襲するのですから、いかに戦闘機を搭載した空母3隻を引き連れているとはいえ、イギリス海軍も護衛される輸送船団も覚悟を決めなければいけません。
そう思った矢先の8月11日朝、アルジェリアのアルジェ北方で空母イーグルに迫る雷跡!
ドイツ潜水艦U73の襲撃で魚雷4本を被雷した同艦は、20機のシーハリケーンもろともあっけなく沈んでしまいました。
その一方、イタリア潜水艦の襲撃を受けつつ、護衛の駆逐艦が体当たりでこれを撃沈、難を免れた空母フューリアスは37機のスピットファイアを発艦させてマルタ島へ送り出すことに成功して後退(ベローズ作戦)、これが作戦終盤で大きくモノを言うことになります。
しかしこれから空襲が激しくなる矢先、空母は2隻だけになってしまって前途に暗雲立ち込める船団護衛部隊は、ついにそのレーダーで枢軸軍の大編隊を捉えました。
枢軸軍航空部隊を率いるドイツ空軍のケッセルリンク将軍は船団の行き先が北アフリカのトリポリかマルタ島か推測しかねていましたが、ともあれ座視できない脅威と判断し、大規模な攻撃隊を発進させたのです。
マルタ島までまだ1,000kmあまり、船団の長い道のりはまだ始まったばかりでした。
By S.W.Roskill – The War at Sea 1939-1945, Chapter XIII, パブリック・ドメイン, Link
8月11日夜までにドイツ空軍とイタリア空軍は照明弾の光の中で散発的な攻撃を加え、輸送船の損害は1隻が損傷したに留まったものの、空母インドミタブルとヴィクトリアスが損傷、駆逐艦1隻を失いました。
翌8月12日、空襲でインドミタブルが大破発着不能、駆逐艦1隻と輸送船1隻が撃沈され、夜に入ると今度はイタリア潜水艦の襲撃で軽巡洋艦1隻と輸送船2隻撃沈、軽巡洋艦2隻とタンカー“オハイオ”が損傷する損害を受けます。
この時点で船団はまだ9隻が無傷だったものの、相次ぐ被害と退避する艦船の護衛で船団護衛部隊は半数の戦力を失いました。
しかし、ドイツとイタリアの航空部隊はなおも接近する船団への攻撃にやる気マンマンで、出撃したもののイギリス潜水艦の襲撃で損害を受けたイタリア巡洋艦部隊をアテにせず、独力で船団を撃滅する決意を固めます。
やせ細った護衛を伴う船団は脆弱で、このまま激しく攻撃すれば、6月のヴィグラス作戦、ハープーン作戦の再来をも狙えたのです。
翌8月13日も、ついにチュニジア沖に達してマルタ島を目前にした船団に対して、激しい空襲が加えられた上に、イタリア海軍の魚雷艇にまで襲撃を受けました。
軽巡洋艦1隻を撃沈されてさらに護衛がやせ細った船団は立て続けに6隻を失い、前日までと合わせて9隻を失い残りはわずか5隻。
しかし、その中に猛烈な攻撃を受けつつ“オハイオ”はまだ続航していました。
いえ、続航というよりただ浮かんでいただけかもしれません。
この世界最大のタンカーはただでさえ巨大でいい目標な上に、見るからにタンカーなので最重要目標とされ、潜水艦も航空機も目の敵とばかりに激しい攻撃を加えたのです。
8月11日に潜水艦の雷撃で損傷、火災は消し止めたものの最高速力13ノットに低下していた彼女には数多くの対空火器とそれを操る軍人、そして不屈の精神を持つ民間船員によってなおもマルタに迫りましたが、そこにドイツのJu87、Ju88爆撃機が迫ります。
激しい対空砲火でJu87“シュツーカ”を撃墜したかと思えば、直前に投下された爆弾が命中し、爆弾を外したかと思えば至近弾による水柱が船橋を襲った後、墜落したJu87が船上で力尽き火災を起こしているという有様。
機関室でも火災や停電が頻発、そのたびに復旧していたものの、一度ならず船をあきらめて総員退船命令が出たこともあります。
それでも“オハイオ”は沈みませんでしたが、出し得る速力はわずか5ノット、船体のあちこちがひしゃげ、破れ、大量の浸水で乾舷(甲板から水面の高さ)は沈み、水冷機関銃の冷却水は甲板から直接バケツで汲み上げられました。
しかし、集中攻撃を受けつつなお沈まない”オハイオ”のおかげで、残るわずかな輸送船は全滅を免れたかもしれません。
生き残っていた5隻の輸送船のうち、“オハイオ”と貨物船“ブリスベン・スター”が大破、残るは3隻というところで、ついに船団上空に味方の戦闘機が到着します。
空母フューリアスからマルタ島に送られた増援のスピットファイアが、船団を守るため駆けつけたのです。
上空援護を受けた船団は8月13日16時30分、ついにマルタ島のグランド・ハーバーに到着、島民と駐留部隊は熱狂的な歓迎でこれを迎えました。
By Donated to the Imperial War Museum’s 8205-31 Collection. –
This is photograph HU 43092 from the collections of the Imperial War Museums.
, Public Domain, Link
しかし、“オハイオ”の戦いはまだ続いていました。
未だに浮いて機関も動いていたとはいえ、キール(竜骨。船の背骨)は折れて船体は曲がり、操船は著しく困難だったのです。
それでもマルタ島に必要な石油を満載した“オハイオ”を救うべく、そしてマルタ島にたどりつくべく、“オハイオ”乗員とロイヤル・ネービーは最後の粘りを見せます。
2隻の駆逐艦で両舷から挟み込み、曳航するというより両脇から抱き抱えるようにして最後の道のりをゆっくりと、沈まぬように恐る恐る進んでいきました。
翌14日、貨物船“ブリスベン・スター”もノソノソとマルタ島に着きましたが、それでもなお“オハイオ”の姿は見えませんでしたが、8月15日朝6時、ついに“オハイオ”はグランド・ハーバーにたどり着きました。
ただちにタグボート(曳船)が派遣されて瀕死の“オハイオ”を岸壁に導き、それを見ていた島民は歓声を上げ、軍楽隊が“ルール・ブリタニア”(イギリスの愛国歌)を高らかに演奏する中、ついに着岸したのです。
その様子を見ていた駐留部隊の指揮官は、部下に“オハイオ”への敬礼を命じます。
「あれは軍艦ではありませんが、サー?」「いいんだ。敬礼!」
この瞬間こそ、マルタ島が降伏を免れ、そしてドイツ北アフリカ軍団の敗北が決定した瞬間でした。
まさに満身創痍で浮かんでいるのが不思議だったほどの“オハイオ”は、着岸後の石油汲み出し中、ついに力尽きて船体が折れ、そのまま港内で海没処分されます(戦後改めて港外で海没処分)。
しかし、“オハイオ”とその船員や兵員が執念で運んだ石油でマルタ島は域を吹き返し、兵站路を維持できなかったドイツ北アフリカ軍団はついに敗北、翌1943年5月に降伏しました。
この作戦はタラント空襲やビスマルク追撃戦などとともにイギリス海軍史の栄光を飾る名シーンの1つとなり、後世に語り継がれるようになります。
この戦いの最中、断末魔の“オハイオ”の船橋で指揮を執り続けたダドリー・ウィリアム・メイソン船長は、極めて勇敢な行いをした者に与えられるジョージ・クロス章を受章しました。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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