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2018/04/20

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「第1目標空母!第2目標空母!第3目標空母!猛将角田覚治」

第2次世界大戦時の日本の提督(海軍の将官)には思慮に長けた軍政向きから勇猛果敢な前線指揮官向きまで様々な人物がいましたが、人事面での柔軟性に欠けた日本海軍では必ずしも適材適所とはいきませんでした。「見敵必戦の代表格」と言われる角田覚治中将も、砲術屋としてキャリアを積みつつ機動部隊指揮官として大暴れ、しかし最後には地上基地航空隊指揮官として最期を遂げたという惜しまれる人材です。

実は大艦巨砲主義者

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By 不明不明, パブリック・ドメイン, Link

初期の空母機動部隊、あるいは海軍航空隊指揮官とは、海軍士官になったばかりの時期にまだ航空機が兵器として発達していない、あるいはさほど期待されていなかったこともあり、砲術や水雷などのキャリアから、いきなり航空部隊指揮官になる例が多いものでした。

この点はどこの国の海軍でも似たり寄ったりで、同大戦中、アメリカ海軍の智将として知られたレイモンド・A・スプルーアンスなども、ミッドウェー海戦で頭角を現す以前は巡洋艦の戦隊指揮官を務めています。

今回紹介する日本海軍の角田覚治中将も、1940年11月に第3航空戦隊(空母“鳳翔”・“龍驤”、駆逐艦4隻)の司令官に着任するまで航空関係には無縁の人物で、1911年に海軍兵学校(第39期)を卒業し、1918年に砲術学校高等科学生となって以降、専門は一貫して砲術。

巡洋艦の砲術長や艦長、あるいは砲術関係の参謀職が主なキャリアで、その間航空関係と言えば1929年に第一航空戦隊(空母“赤城”または“加賀”・“鳳翔”、駆逐艦4隻)参謀を務めたくらいです。

それも当時の空母部隊は編成されたばかりで搭載機も少なく、中佐時代の角田が特に航空機についての知見を深められたとは思えません。
実際、その後大佐に進級して以降も参謀や巡洋艦の勘朝食が多く、海軍兵学校の教頭時代には、「海軍航空マフィアの尖兵」だった源田 実が生徒に航空重視の講演を行った際、「飛行機だけをアテにせず、各科で全力を尽くせ」と常識的な意見で締めています。

もっとも、頑固一徹で典型的な砲撃屋だった割に、戦闘的な性格もあってか出世にはそれほど縁が無かったようで、砲術士官なら誰もが憧れる戦艦の艦長には1938年に1か月のみ、それも整備工事中の“山城”と“長門”の艦長を兼任、つまり一時的な現場監督のみでした。
あるいは指揮官としての覚えはあまりめでたい方では無かったのか、航空戦隊司令官への転出はそれが原因だったかもしれません。

第四航空戦隊司令官として孤軍奮闘

しかし、航空については無知同然だがらも柔軟な発想を持ち、何より積極的で勇猛果敢な指揮官の着任は、当の航空戦隊にとっては歓迎されました。

第三航空戦隊から空母“龍驤”が第四航空戦隊に転出、新造の軽空母“瑞鳳”が編入されて第三航空戦隊はさながら“訓練戦隊”の体を為しますが、太平洋戦争の開戦を前にした1941年9月、第三・第四航空戦隊司令部を入れ替える“決戦人事”が行われます。
前線に出撃する第四航空戦隊は、開戦時にわずか軽空母1隻(龍驤)、駆逐艦1隻(汐風)という小艦隊ながら、指揮官に角田少将という猛将を得て、勇躍フィリピン攻略に出撃。

開戦時、日本の主力空母6隻からなる第1機動部隊はもちろん真珠湾攻撃へ、残る軽空母2隻(瑞鳳、鳳翔)は内地で戦艦部隊の護衛、第4航空戦隊で前線での使用不可と判断された特設空母“春日丸(後の“大鷹”)”はパラオへの航空機輸送に従事していました。
つまり、フィリピンなど初期の南方攻略戦で角田率いる“龍驤”と護衛の“汐風”は唯一の機動航空兵力、それもわずか30機(九六式艦上戦闘機18機、九七式艦上攻撃機12機)に過ぎない小兵力に過ぎません。

しかし、角田は全く意に介さず、第二水雷戦隊の一部の支援を受けつつ“龍驤”を敵前に進出させ、開戦と同時にフィリピンのダバオへ攻撃隊を発進、台湾から発進した陸上航空隊とともに開戦第一撃を加えました。
その後、第四航空戦隊は引き続き“龍驤”のみでマレー、スマトラ方面の攻略に参加して巡洋艦や水上艦と呼応しながら搭載機でもって対艦船・対地攻撃に活躍し、時には“龍驤”自ら高角砲で輸送船を砲撃、撃沈したことさえあったほど。

第2次世界大戦を通し、空母が結果的に水上艦艇との砲撃戦に巻き込まれた事例はいくつかありますが、「ウチにも大砲があるだろう!」とばかりに自ら空母を突撃させ、砲撃戦を行ったのは角田くらいです。
まさに砲術屋の面目躍如でしたが、「とにかく敵が目の前にいれば何を使ってでも戦う」という柔軟性と、それを実行に移す果敢な敢闘精神のたまもの。

その一方、スマトラ攻略戦で迎撃のため出撃してきた連合軍艦隊が“龍驤”搭載機の空襲で退却した時、上部組織の第一南遣艦隊が巡洋艦や駆逐艦で追撃しなかったことで、司令長官の小沢中将に怒りをぶちまける一幕もありました。
敵がいれば孤軍奮闘であろうと全力で立ち向かい、見方に不満があればこれも噛みつく、闘将角田らしいエピソードです。

第1目標空母! 第2目標空母! 第3目標空母! 南太平洋海戦

その後、角田率いる第四航空戦隊には商船改造の特設空母ながら搭載機が多く、中型空母並の攻撃力を持つ新型艦“隼鷹”が編入、第2機動部隊を編成してミッドウェー海戦と同時に行われたアリューシャン攻略作戦に参加。
ミッドウェー海戦に敗北して第1機動部隊の主力空母4隻が全滅すると、残存した空母を統合して機動部隊が再編されます。

第一航空戦隊(旧第五航空戦隊、空母か“翔鶴”・“瑞鶴”、軽空母“瑞鳳”)と第二航空戦隊(旧第四航空戦隊、空母“隼鷹”・“飛鷹”、軽空母“龍驤”)を中核とした第三艦隊が誕生し、角田は引き続き第二航空戦隊の指揮をとりました。

1942年8月にガダルカナル島を巡る日米の激しい戦い、ソロモン攻防戦が始まると角田も第二航空戦隊を率いて駆け付け、同島の米軍飛行場爆撃などを行います。
しかし、一時的に第一航空戦隊に編入されて第二次ソロモン海戦に参加した“龍驤”が撃沈され、“飛鷹”も機関故障で内地に引き上げざるをえなくなり、第二航空戦隊は“隼鷹”1隻となってしまいました。

しかしガダルカナル島を巡る戦いは、奪還を目指す日本軍の総攻撃と、それを死守するため全力で防衛に当たるアメリカ軍、そして双方ともにこれを支援する空母機動部隊が出撃することとなり、空母決戦“南太平洋海戦(1942年10月26日)”が勃発します。

この海戦で第二航空戦隊は第三艦隊主力から離れた別動隊として、前衛の第二艦隊と行動を共にしますが、主力の第一航空戦隊は“翔鶴”と“瑞鳳”が損傷し、前者の通信不能で座乗する第三艦隊司令長官、南雲中将も指揮能力を失いました。
一方、アメリカ側も空母“ホーネット”と“エンタープライズ”が被弾損傷、後者は撤退したものの前者は大破して前線に取り残され、あと一歩で仕留められるところだったのです。

この上は空母機動部隊の指揮をとれるのはただ1人、角田中将に全てが委ねられ、それと同時に角田は“隼鷹”を全速で“ホーネット”に向け突進させます。
この時、“隼鷹”から“ホーネット”へは艦載機による攻撃範囲外でしたが、角田は母艦が突進して迎えに行けば問題無いと即決したのです。

第一航空戦隊の生き残り、“瑞鶴”へ攻撃隊発進を命ずるとともに、“隼鷹”の飛行甲板上へも攻撃隊が並べられ、搭乗員整列がかけられました。
隼鷹”飛行長を通して行われた訓示は「第1目標空母! 第2目標空母! 第3目標空母!」。

隼鷹”、“瑞鶴”、さらに被弾した母艦に降りられなかった“翔鶴”、“瑞鳳”搭載機のうち、再使用可能機を含めた文字通りの全力攻撃で“ホーネット”は沈没必至となりますが、手を緩めない角田は最後にたった10機(零戦6機、九九式艦上爆撃機4機)まで繰り出し、これを放棄させました。
そしてこれが、日本の空母機動部隊による、最後の敵空母撃沈となったのです。

第一航空艦隊とともにテニアンで死す

1943年5月、第二航空戦隊司令官を退任した角田は、同7月に新編成された第一航空艦隊司令長官へと着任します。

同航空艦隊は、多数の空母を失った日本が、各島に設けられた飛行場を空母の代わりに航空隊を機動展開、敵艦隊が現れれば基地航空隊を結集して攻撃する「決戦兵力」として期待されていました。
砲術士官だった角田は、開戦以来の活躍でもって「最前線でもっとも重要な航空兵力を任せるに足る指揮官」として認められたのです。

しかし、決戦兵力として温存、訓練に励むはずの第一航空艦隊傘下の兵力は、前線へ米空母機動部隊から散発的な攻撃が加えられ、損耗するたびに穴埋めとして引き抜かれてしまい、事実上単なる場当たり的な予備戦力として扱われていました。

これではとても決戦兵力としての活動はできない」と抗議する角田でしたが、そもそも虎の子の空母機動部隊用の艦載機でさえソロモン戦で陸上航空隊の穴埋めにしてしまうような日本海軍には、他に対応できる予備戦力も無くなっていたのです。

いい加減戦力を引き抜かれきり、手元には訓練途上の飛行隊しか無い状況でマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアムなど)への敵来襲は必至、角田は今度こそ覚悟を決めて第一航空艦隊司令部ごと、残りわずかな戦力でテニアンに進出せざるをえません。

果たして1944年2月、マリアナ諸島空襲のため現れた米空母機動部隊攻撃でほとんどの戦力を失い、1944年6月のマリアナ沖海戦では来援した空母機動部隊、第一機動艦隊も壊滅。
連合艦隊司令部は角田に第一航空艦隊司令部への撤退命令を出しますが、収容のための潜水艦が撃沈され、テニアン島に上陸した米軍との地上戦に巻き込まれます。

追い詰められた角田は、内地に訣別の電報を発信した後、自決では無く兵と共に手榴弾を抱え、米軍へ向けて突撃していきました。
1944年7月31日、海軍中将・角田覚治、テニアンにて戦死

もしも機動艦隊を率いていたら?

開戦から一貫して、その戦力の多寡に関わらず勇猛果敢な戦闘を続けた角田は、まさに猛将にふさわしい最期を遂げました。

しかし、最後に任命された第一航空艦隊のような陸上部隊の任務は、移動航空基地たる空母を使った機動艦隊決戦と違い、基地そのものが自由に動けないからこそ慎重な運用が求められ、角田のような猛将タイプ向きでは無かったと言われています。
まして角田自身が先頭切って突撃するタイプだったため、後方から命令を出して傘下部隊を手駒として自由に操るタイプでは無かったとも。

そのため、最終局面のマリアナ沖海戦に至る一連のマリアナ防衛線では、猛将タイプの角田が第一機動艦隊で空母を率い、智将タイプの小沢中将が第一航空艦隊を率いた方が良かったのでは、という議論も絶えません。

実際、行動パターンを読まれた第一機動艦隊は米潜水艦によって空母“大鳳”、“翔鶴”を撃沈されるなど大打撃を受けました。
そこで見敵必戦かつ臨機応変な角田が指揮をとっていれば、米軍もその戦術は予想がつかず、結果的に日本側が敗北するとしても、米側にも少なからぬダメージを与えられ、第一航空艦隊も落ち着いた小沢中将の指揮で連携が取れたのでは、という説です。

あくまでIFの話ではありますが、日本海軍としては「角田に機動艦隊を任せたら、大戦果を上げるかもしれないけど、代わりに全滅しかねない。」という判断もあったのでしょう。
後のレイテ沖海戦でもそうでしたが、日本海軍は「最終的には、艦隊をいくらかでも連れ帰ってくれる指揮官を好む」、つまり現存艦隊主義な組織だったことがわかります。

それが軍艦では無く、手榴弾を抱えて自ら走るという、角田最後の突撃という結果になりました。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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