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2018/04/18

菅野 直人

潮岬沖海底深くに眠る、突貫工事の未完成超兵器。日本海軍最後の超空母「信濃」

近年、海底に眠る大和級戦艦「大和」や「武蔵」の詳細な撮影に成功し、新事実の発見など研究に役立っている感がありますが、その2隻よりはるかに知名度が低く、実態も謎に包まれたまま、そしてはるかに深い海底に沈んでいるため、当面見つかることすら無いだろうという大和級3番艦があります。太平洋戦争開戦時は建造中、その後紆余屈折の末空母として建造された、その名は「信濃(しなの)」。

ひたすら不運に包まれた大和級戦艦3番艦

わずかに残された「信濃」の写真のうち、艦容を伝える唯一のもの(撮影日時:1944年11月11日)。当時の乗員の証言によれば、飛行甲板には新開発の蛍光灯が埋めこまれていたという[1]。
By 日本語: 石川島造船所 荒川浩技師 – 呉市海事歴史科学館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

激戦を無事生き延びた幸運艦」や「不運な一撃で最期を迎えた不運艦」など、「運命」で語られる軍艦は数多くあります。

その中でも極めつけに不運続きだった軍艦というのもあって、しかもそれが日本を代表する軍艦の1隻、当時世界最大級の軍艦であったとなれば、さまざまな話題にコト欠かないようにも思えますが、ミリタリーマニアを除けばほとんどの人々はその名すら知りません。

完成時には時代遅れで悲劇的末路を迎えざるを得なかったとはいえ、日本最大、そして世界最大の戦艦「大和」とその2番艦「武蔵」の名前は、普通の人でも知っているものですが、3番艦「信濃」を知っている人がどれほどいるでしょう?

1940年4月に大和級戦艦3番艦として起工したものの、太平洋戦争開戦(1941年12月)と同時にすぐ完成・戦力化は無理として、ドックから出せる最低限の船体工事のみへと変更。
おかげで工員の士気もグダグダとなり、モタモタと工事しているとミッドウェー海戦(1942年6月)に負けて急遽空母が必要になり、「1944年12月末までに空母として完成させろ」と急なお達し。

しかし、工事を再開しようにも設計変更段階でお偉方の議論が白熱してしまい、問題無い部分のみ1942年9月からチマチマ作って、1943年早々にようやく「1945年2月までに完成すればいいから」と工事再開。
かと思いきや、その間にソロモン戦など南方での激戦から1943年8月に再び工事中止したのはともかく、なぜか「工事中断するけど完成予定は1945年1月に1ヶ月前倒し」と謎命令と、もうグダグダです。

その間も工事は結局少しずつ進んでいたようなのですが、マリアナ沖海戦(1944年6月)に負けて再建した空母機動部隊は最新鋭装甲空母「大鳳」もろとも壊滅、「もうとにかくすぐ必要だからチャチャっと作って! 完成予定1944年10月15日!」というオーダーが飛んできました。

おまけに1944年10月5日に進水式を挙行したところ、各種のミスが重なり、まだ命名式すら行われていない「信濃」は注水されたドックの中であっちへドカン、こっちへズドンと大暴れ。
このグダグダは何でしょう。IT関係の開発現場のエンジニアが見たら、何かがフラッシュバックして泡吹いて倒れそうなのは気のせいでしょうか

突貫工事で就役した急造“超大型軽空母”

ともあれ、何とか形になって「信濃」と正式に命名されて修理も終え、1944年11月19日に「空母信濃」として就役した時には、もうレイテ沖海戦(同年10月25日)も終わって連合艦隊は壊滅した後でした。

しかし、それまで何となくズルズル工事が進んでいたとはいえ、まだ完全に空母の形になっていない状態から「あと4ヶ月で完成させろ!」と支離滅裂なオーダーを受けた割には、建造していた横須賀海軍工廠の工員はよく頑張ったと思います。
写真に残っている限りでは、遠くから見ている限りは立派な超大型空母が完成したのですから。

ただ、どれだけ熟練工員が揃っていても無茶苦茶なオーダーを、兵隊として引き抜かれた工員の穴埋めを未熟な工員が急いでやったものですから、もうなりふり構わぬ突貫作業、すなわち「やっつけ仕事」だったのは否めません。

戦闘には支障ないから」と艦内の内装がほとんど無しになったのはともかく、軍艦として必要な隔壁の気密チェックはされてないので被弾すれば浸水すればアチコチ水漏れするかもしれず、各ハッチや窓などの立て付けもチェック無し。

機関(エンジン)も完成しているのは2/3程度で全力発揮はいつできるのやら?
武装に至っては据え付ける場所は決まっているけど、後からでも搭載できるからとほとんどは台座のみ。
最低限取り付けられた各装備は使ってるうちになんとかなるだろうというレベルで、とにかく形になればそれで良し、以上のものではありません。

おまけに、大和級戦艦としての基本構造が完成した段階で早急な空母化を指示されたので、「大和から主砲や艦橋など構造物を取り除いて飛行甲板を乗せた」という作りになり、工期短縮で格納庫もあまり作れず予定搭載機数は諸説の中で最大でもわずか50機程度。
何とも巨大な「世界最大の軽空母」になってしまいました。

何だかよくわからないけど、画面上では動いてるように見えるから納品してしまった」という経験を持つITエンジニアなら、涙を流しながら不思議なほど強くうなずきそうな出来栄えです。
これこそが「帝国海軍が最後に建造した世界最強最大、最新鋭空母」の実態でした。

装甲防御力は当時最強

しかし、突貫工事でとにかく浮かんでるだけならどうにか、というハリボテだったとはいえ、「信濃」は完成しさえすれば、強力な対空兵器で敵機に立ち向かい、仮に爆弾が命中してもそれを弾き返し戦闘継続可能な「装甲空母」でした。

さすがに飛行甲板は形にはなっており、就役直前には最新鋭戦闘機「紫電改」艦載型も含め各種艦載機の発着テストも行われていましたから、機関が未完成で全速発揮ができずとも、艦載機の発着には支障がありません。
大和級戦艦がベースだけあって飛行甲板は長く広大で着艦時の安心感はそれまでの空母と段違いだっただけではなく、当時の米艦載機が多用した1,000ポンド(454kg)爆弾までなら貫通されることなく耐えることも可能

表面は工事簡略化のためオガクズ入りセメントでコーティングされ、結果的には当時の標準である木甲板より延焼しにくくはなっています。
もちろん一部装甲はカットしたとはいえ大和級戦艦がベースですから、爆撃にせよ水上砲戦にせよ、ちょっとやそっとの命中弾では沈没はおろか、戦闘不能にすらならないはずだったのです。

重装甲空母として生まれた結果、基準排水量は諸説あるものの6万2,000トンに達し、第2次世界大戦後の1961年、アメリカ海軍が原子力空母エンタープライズ(基準排水量7万5,700トン)を就役させるまでは、文字通り世界最大の空母になりました。

空襲の危険から退避、潜水艦による最後

こうしてどうにか空母として就役した「信濃」ですが、前項までに述べた通り残工事はまだ相当残っていました。
それ自体は「就役とはあくまで書類上のことで、その後残工事をやって戦力化」という例は他にいくらでもありますから、問題ではありません。

しかし、就役前後の「信濃」上空を偵察のためのB-29が飛行しており、写真撮影されて「信濃」の存在がバレた疑いが強くなりました。
実際にはアメリカ軍はそれが写真にクッキリ写っていたにも関わらず最新鋭超大型空母、つまり重大な脅威とは認識していなかったのですが、日本海軍は最後の希望たる「信濃」がこのままでは爆撃で失われてしまう、と懸念します。

そこで、当時まだ「聖域」と考えられており防備も強固な瀬戸内海の呉海軍工廠(広島県)で残工事を実施することとなり、レイテ海戦からかろうじて帰還した連合艦隊主力のうち、「長門」を横須賀まで護衛してきた駆逐艦3隻(浜風、磯風、雪風)へその護衛を命じました。

しかし、「信濃」の機関はまだ全力発揮できず最高速力20ノットが限度の上に、レイテ帰りの駆逐艦も損傷や乗員の損耗、披露によって全力戦闘など不可能な状況であり、「横須賀で空襲をしのぐか、潜水艦を撃退しながら呉まで回航するか」の二者択一を迫られます。

結局、11月28日に「信濃」と駆逐艦3隻は出航、可能な限り全速(つまりわずか20ノット)で呉を目指しますが、翌日未明に浜名湖沖で米潜水艦「アーチャーフィッシュ」に捕捉され、魚雷4本が右舷に命中。
排水や反対舷への注水による浸水回復、護衛の駆逐艦や曳船の派遣による曳航など「信濃」を救う努力が試みられたものの、7時間半ほどで沈没してしまいました。

11月19日の就役からわずか10日、「日本海軍最後の希望の星」は、あっけなく6,000m以上ある海底へと消えたのです。

実は未完成だった、文字通り“未完の大器”

大和級戦艦が潜水艦の雷撃を受けた例としては、1943年12月の大和、1944年3月の武蔵と魚雷1本が命中した前例があるものの、部署によっては魚雷命中の衝撃にも気づかない者がいたほどで、「不沈戦艦」としての名声をかえって高めました。

その両艦が沈む時にしても、潜水艦より威力は小さいとはいえ10本以上の魚雷が命中してようやく沈没に至っており、「信濃」がわずか4本の魚雷で沈んだことから現在でも根拠の無い欠陥など俗説、指揮官や乗員への謂われなき誹謗中傷を行う愉快犯が耐えません。

現実には、沈没の原因は「未完成」の一言で、横須賀から呉への航海はおろか、ただ洋上に浮かべておくだけでも危険な状態だったのが最大の要因です。
具体的には、以下のように問題山積みでした。
 

  • 突貫工事で形を為しているだけで、防水隔壁に浸水を防ぐ能力が無い
  • ましてや、工事続行中で電線などケーブル類が艦内中を這っており、アテにならない隔壁すら閉じられない
  • 排水ポンプや傾斜復元のための注排水制御装置は、動作するのかわからない
  • 全てが完全に動作するとて、その装置などで訓練した乗員がいない
  • 装備に熟練した乗員がいたとて、迷路のような「信濃」艦内で目的地へ容易にたどりつけるほど通路に精通した乗員がいない
  • 従って、何か故障や問題が生じた時にその場所や原因の特定も不可能
  •  
    つまり、航行どころか浮かんでいるだけでも何か問題が生じた時に対応できず沈没した可能性すらある有様。
    完成した軍艦を即時出撃させられるのはゲームの中くらいなものですが、当時の連合艦隊司令部は「提督の決断」にでもハマっていたのかと冗談を言いたくなるほどです。

    これで魚雷が一本でも命中すれば沈まない方が不思議というものですが、通常ではありえないことを命令してしまい、「それ見たことか」とばかりに沈んだのが「信濃」でした。

    実際、未知の超大型空母を撃沈したと小躍りした「アーチャーフィッシュ」の艦長を待っていたのは、「信濃」の存在すらつかんでいなかった海軍上層部による「そんなすごい空母がアッサリ沈むわけが無いだろう。適当な報告もいい加減にしろ!」という叱責だったと言います。

    もし、信濃が完成していれば?

    さて、「信濃」という未完の大器はついに完成せず沈んでしまったわけですが、その存在やエピソードを知った上で誰もが思うのは「もしも信濃が完成していたら」というIFです。

    史実通りの回航がうまくいったとして12月から呉海軍工廠で残工事が始まったとして、全くの憶測ですが完成は早くて1945年1月頃でしょうか。
    その頃まで内地ではレイテ沖海戦に参加せず生き残っていた新型空母「天城」「葛城」が機動部隊再編のため訓練続行していたとも言われますので、完成した「信濃」も加わり訓練を行ったかもしれません。

    1945年3月の呉軍港空襲に巻き込まれたかもしれませんが、爆撃のみで同年7月ほど激しい攻撃ではありませんでしたから、切り抜けることはできたでしょう。
    その後はどうなったでしょうか。

    大和」の特攻作戦に随伴し、数少ない艦載機、おそらく戦闘機のみでも搭載して戦ったでしょうか?
    それとも、燃料不足で訓練もままならず、結局出撃しないまま他の大型艦とともに防空砲台になったでしょうか?
    それでも生き残れば、「長門」とともに原爆実験の標的艦にでもなったでしょうか?

    他にも、設計変更のゴタゴタが無くもっと早く完成してレイテ沖海戦に、あるいはもっと早く設計変更していれば、それとも予定通り戦艦として完成していれば? IFは尽きません。

    そもそも「信濃」はB-29が撮影した直上からの偵察写真を除けば、戦後30年以上経って公表された1枚しか写真が無く、それまではスケッチ画で語られるのみだった「幻の空母」でした。
    1枚の写真を頼りに多くの憶測を呼び、さまざまなIFが仮想戦記などで語られるようになりましたが、いずれ新事実が明らかになった時にでも、またいずれ「信濃」の話題で盛り上がる日が来るのかもしれません。

    菅野 直人

    物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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