- コラム
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菅野 直人
女性がさまざまな職業に進出するようになった現在、それでもなお「女性初の○○」というニュースが絶えないように、今でも全ての職業で男女平等が実現されているわけではありません。そもそも仕事に限らず何事も人によって向き不向きがあるから当然ではありますが、女性パイロットの中でも冒険的な飛行を行う「女流飛行家」となれば、男性に比べてホンのわずか。今回はそのうちの一人でありながら、日本ではあまり知られていない「マッハバスター・レディ」ジャクリーン・コクランをご紹介します。
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現在でこそ女性パイロットなどそう珍しくはありませんが、飛行機の黎明期から第2次世界大戦までの間となれば、そうそういたわけではありません。
これは何も男女差別というわけでも無く、単に初期の飛行機など誰でも乗れるものではなく、金持ちが乗る乗り物の運転手、しかも現在とは比べ物にならないほど危険と隣り合わせとなれば、身分が高くも無い命知らずの人間か、軍人が操縦士をやるくらい。
あるいは金持ちでも物好き変人が道楽でパイロットをしていたくらいでしょうか。
本来ならアメリア・イアハートなどと並ぶ女流飛行家、ジャクリーン・コクランがそのどれに当てはまるか、と言えば複雑なところで、何しろ飛行家になる以前が波乱万丈、ある程度名を上げた時期にも、その素性を隠していたほどです。
かいつまんで言えば、ベッシー・リー・ピットマンという女性が1905年にフロリダで生まれ、14歳でロバート・コクラン氏と「できちゃた結婚」、直後に生まれた息子が不慮の事故により5歳で早逝すると過程を維持する理由も無くなり、すぐに離婚。
しかし、その後ニューヨークで美容師となり、美貌を買われて名門サロンに出入りする頃には、別れた旦那のファミリーネームを拝借してジャクリーン・コクランを名乗っていました。
そしてフランス系移民っぽい美女と不倫の恋に落ちたのが大富豪ボストウィック・オドラム氏で、愛人時代のジャクリーンは「化粧品会社をやりたい」と望み、実現されます。
さらには、理由は不明ながら飛行家になることまで望んでパイロット免許を取得するのでした。
1936年、44歳のオドラム氏と30歳のジャクリーンはめでたく結婚、しかし「女流飛行家ジャクリーン・コクラン」のキャリアは、ここから本格的始動します。
それと同時に親族縁者は所有する牧場で匿うように生活させ、自らとの血縁を明かさないように願うなど、過去の出自は徹底的に隠すようになるのですが。
飛びたくなった理由はともかく、女流飛行家としてのキャリアを歩み始めた理由としては、彼女の化粧品会社の主力商品である口紅「ウイングス」の販促キャンペーンという側面もあったようです。
後にマリリン・モンローも愛用したと言われる「ウイングス」の宣伝とジャクリーン自身の冒険心を兼ねた飛行熱は、彼女をレースや記録的飛行に駆り立てました。
いくつかのレースで実績を上げた彼女が最初に大きく名を挙げたのは、1938年に開催されたアメリカ大陸横断レース、ベンディックス・トロフィーです。
この時期、アメリカ陸軍は第1次世界大戦以来の複葉布張り固定脚戦闘機から、最新の全金属製単葉引き込み脚戦闘機へと、戦闘機戦力の更新を進めていました。
その第1号となったのが、セバスキー社(後にリバブリック社を経てフェアチャイルド社となり、かの重対戦車攻撃機A-10を作った航空機メーカー)のP-35。
1935年に初飛行、1936年にアメリカ陸軍航空隊に制式採用され、1937年に部隊配備の始まったP-35ですが、セバスキー社ではさらに輸出市場での売り込みも目指してレースにも積極的にP-35改造型を飛ばしていました。
1937年にはそのチューニングP-35改“S-2”でベンディックス・トロフィーに優勝していましたが、さらに改造してエンジンを原型の850馬力から1,200馬力、つまりP-35の後継機として開発されたXP-41と同じ出力を持つP-35改“AP-7”も開発。
このAP-7で1938年のベンディックス・トロフィーに出場、みごと優勝、それも女性初優勝を飾ったのがジャクリーン・コクランでした。
一部では“最新鋭戦闘機P-35で優勝”という記述も見られますが、実際にはXP-41に近いP-35のフルチューン・レーサーだったわけです。
これで数々の速度記録や高度記録、長距離飛行記録を打ち立てる女流飛行家、ジャクリーン・コクランは大いに名を上げました。
しかし世はナチス・ドイツなどファシズムの台頭に対し、世界中が出る杭を打とうとしていた時代。
1939年9月に第2次世界大戦が始まると、アメリカは他国への航空機などの輸出を禁じる一方、イギリスへの大々的な援助を開始し、大西洋経由で爆撃機などを続々と輸出します。
当時、イギリスへ大型航空機を渡すには無給油・無着陸の長距離飛行が不可欠で民間空輸組織「ウイングス・フォー・ブリテン」が活躍しましたが、ジャクリーンもその一員として幾度も大西洋横断飛行を行いました。
それと同時に、当時のアメリカ大統領夫人、エレノア・ルーズベルトへの手紙で陸軍航空隊内に女性飛行隊の創設を直訴、それが叶えられてWAAC(女性陸軍補助隊)が創設されます。
日本との交戦が始まり、アメリカも大戦へ参戦するとWAACはWAC(女性軍団)へと改組、大規模化され、陸軍航空隊の航空輸送部門としてWAFS(女性補助フェリー飛行隊)が創設されると、そこでジャクリーンは爆撃機や輸送機を飛ばした他、多くの女性パイロットを養成しました。
基本的に後方任務とはいえ、飛行学校を出たてホヤホヤ、飛行時間300時間程度の男性パイロットより飛行時間1,000時間を越える女性パイロットの腕が確かなのは明らかで、アメリカの戦時体制維持に大きく貢献したジャクリーンは多くの勲章を授与されています。
ただし、WACにせよWAFSにせよあくまで陸軍航空隊の補助組織だったようで、そこに属する女性は職員、あるいは軍属ではあっても正規の軍人では無かったようです。
1947年に陸軍航空隊からアメリカ空軍が独立した時もそれは変わらなかったようですが、1948年9月、ついにジャクリーンはAFRES(アメリカ空軍予備役)の中佐として任官しました。
予備役とはいえアメリカ空軍初の女性パイロットであり、1970年に大佐で引退するまで女性空軍士官として数々の記録に挑戦、女性が持つパイロットとしての可能性を次々に拡大していきます。
かつては化粧品会社の宣伝のために飛行家になった彼女でしたが、第2次世界大戦を経て、アメリカ空軍名物の「超音速男」チャック・イェーガーなどと談笑する姿からは、かつての「大富豪の愛人、そして夫人として成り上がった女性飛行家」ではなく、一人の自立した人間、そして軍人となっていました。
1953年5月、48歳となっていたジャクリーンは、カリフォルニア州ロジャース・ドライ・レイク上空で歴史的飛行を行いました。
その飛行を行うにあたり、まだ朝鮮戦争が続いていた(1953年7月休戦)こともあってか、アメリカ空軍から主力戦闘機F-86Fセイバーの提供は受けられませんでしたが、代わりにコネを駆使してカナダ空軍からほぼ同型のカナディア・セイバーを借用します。
この飛行で彼女は平均速度1050.15km/h、パワーダイブによる最高速度1,270km/hを超え、女性史上始めて超音速飛行を行ったのです。
その右翼の向こうでチェイサー(追尾機)を担当したのは盟友のチェック・イェーガーでした。
さらに1961年、56歳の時にはノースロップT-38タロン超音速練習機で女性初のマッハ2を突破して「マッハバスター・レディ」健在をアピール、その間には女性初の空母着艦まで達成しています。
晩年には選挙(1956年にカリフォルニア州議会へ立候補)に敗れるなど「女流飛行家としての知名度」の低下もあって静かな晩年を送りましたが、彼女がスポンサーやコネだけでなく、見せつけた実力の数々は、今日の軍事的飛行分野に多くの女性が進出したきっかけです。
空軍退役後は本来持っていた資産を多くの慈善事業に投じ、1980年8月逝去。
静かに、そして生涯最後の離陸を行って、この世を去っていきました。
きっとその魂は超音速でもって、はるか高い天空へ突き抜けていったことでしょう。
物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。
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