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2018/04/9

菅野 直人

ミリタリー偉人伝「スイッチが入ればどこまでも進撃する電撃戦の申し子、“砂漠の狐”エルヴィン・ロンメル」

第2次世界大戦伝説の北アフリカ戦線、小兵力ながら戦車の機動力を活かして圧倒的兵力のイギリス軍を翻弄するナチス・ドイツ機甲部隊。そしてそれを指揮する男はヒトラー総統のお気に入り、“砂漠の狐”と呼ばれた男、エルヴィン・ロンメル! もちろん実情はそんなロマンチックなものではありませんでしたが、こと戦車による機動戦となれば知っておいた方がいい人物でしょう。

「砂漠の狐」と呼ばれた男

Bundesarchiv Bild 146-1985-013-07, Erwin Rommel-2.jpg
By Bundesarchiv_Bild_146-1985-013-07,_Erwin_Rommel.jpg: 不明
derivative work: 玖巧仔 (talk) – Bundesarchiv_Bild_146-1985-013-07,_Erwin_Rommel.jpg, CC BY-SA 3.0 de, Link

1941年2月12日、北アフリカ・リビアのトリポリに一人のドイツ軍将官が降り立ちました。
彼の率いる部隊、ことに戦車は3月11日以降にならないと到着せず、主力部隊が揃うのはさらに5月を待たねばなりませんでしたが、彼はイタリア軍の反対を押し切り、手元にあったわずかな部隊だけで、ただちに東方に離れたシルテへ陣地を構えます。

驚いたイギリス軍は、それまでさんざん敗走させていたイタリア軍にそうしてきたように、小規模な攻勢で撃退できるだろうと動き出しましたが、逆に小規模な小競り合いだけで撤退したのはイギリス軍の方だったのです。
以後、イギリス軍に比べればわずかな兵力ながら、海のように広大な砂漠を駆け回って翻弄させる歴史的戦場、北アフリカ戦線とドイツ・アフリカ軍団の短くも熱い栄光の日々が始まります。

電光石火の動きで戦場の流れを変えたドイツ軍将官の名は、エルヴィン・ロンメル中将。
後に“砂漠の狐”として恐れられた彼と、彼の軍団の、北アフリカでの初陣でした。

第1次世界大戦での奮戦と、ヴァイマル共和国陸軍時代

Erwin Rommel.jpg
By 不明 – scan da A.Monticone, La battaglia di Caporetto, Gaspari editore, パブリック・ドメイン, Link

1891年にドイツ帝国連邦で数学教師の息子として生まれたエルヴィン・ロンメルは、少年時代にグライダーを製作していた「航空少年」で、後に北アフリカでは勝手にシュトルヒ(連絡機)を自ら操縦するほどの飛行機好きでした。
そのため航空関連のエンジニアを志望していましたが、まだ飛行機があやふやな存在だった時代でもあり軍隊へ入隊、歩兵として第1次世界大戦に参戦します。

そこでロンメルは時には兵の先頭に立ち、時には負傷や病で床に伏せながらも指揮を続けるなど歩兵や山岳兵の指揮官として活躍。
イタリア戦線で山岳兵の指揮を取っていた時には、「この山(あるいは丘)を陥落させれば、最高勲章のプール・ル・メリットを授与する!」と上層部から宣言された各隊が先を争うようにイタリア軍を攻める中、もっとも激しい戦闘に従事します。

あまりの激しい戦いで、結果的には他の部隊に名誉を奪われることも多かったのですが、3度目のチャンスでついにプール・ル・メリットを授与されました。
いかにイタリア軍の戦意が低かったとはいえ、少数の兵力による猛攻で多数の捕虜を得るロンメルの戦い方は、後の第2次世界大戦での活躍を思わせます。

そうした活躍や勲章の効果もあってか、大戦後も敗戦国として軍備を極端に制限されたヴァイマル共和国時代にも陸軍に残ることができました。
さらにナチス・ドイツとアドルフ・ヒトラー総統の台頭で再軍備を宣言して後、ヒトラーから気に入られて子飼いの護衛隊長として、ポーランド戦まではヒトラー行くところ常にロンメルの姿があったのです。

西方電撃戦の立役者

Bundesarchiv Bild 101I-013-0064-35, Polen, Bormann, Hitler, Rommel, v. Reichenau.jpg
By Bundesarchiv, Bild 101I-013-0064-35 / Kliem / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

ポーランド侵攻(1939年9月)で第2次世界大戦が始まり、翌1940年5月にフランスへの西方侵攻作戦が決まると、ロンメルはヒトラーに頼み込んで前線部隊指揮官として戦場に出ることとなりました。
それも専門だった歩兵や山岳兵ではなく、ロンメルが「スピード重視でこれからの戦争を決する現代の騎兵」と断じていた新設の戦車部隊、第7装甲師団への栄転です。

フランス侵攻が始まるや、ロンメル率いる第7装甲師団は早速ベルギー(中立国だがフランスへの通り道)を突破してフランスに流れ込みますが、その進撃スピードがまた常軌を逸していました。
通常、敵と接触すればまずは停止して相手の戦力を見極め、戦術を検討して……と慎重になるところですが、ロンメルはそれら全てをすっ飛ばし、「会敵しても止まらずそのまま交戦しながら突破せよ!」と、無停止戦術をとったのです。

そのためしばしば補給部隊や後続部隊どころか、常にロンメルが先頭に立つ先方部隊に第7装甲師団主力すら追従できず、同師団の参謀など連絡の取れないロンメルが戦死したと勘違いして、勝手に指揮を代行していた時期すらありました。

第7装甲師団の役目は主攻撃部隊の側面を守る助攻でしたが、「戦車はスピードだ!」がモットーのロンメルはひたすら突撃、味方ですらどこにいるか判然としないロンメルの位置を敵が把握できるわけもありません。
幽霊部隊”と言われた第7機甲師団は爆破された橋や補給待ちなどを除けば常に進撃を続け、時には戦意を喪失して敗走するフランス軍部隊すら追い越していきました。

こうして「電撃戦」の象徴的存在となったロンメルですが、それは時に命令を無視して行われたので上官からの評判は芳しくなく、ただヒトラーからの信頼によってのみ、軍での地位を維持していたといえます。
もっとも、オーストリアの平民出身だったヒトラーにとって、同じく平民出身でユンカー(貴族)ではないロンメルは、結果さえ出せば常に英雄として扱うことがわかっていたので、あるいはそれも計算ずくだったのかもしれません。

猛攻、アフリカ軍団!

その後、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空決戦)と、その結果による英本土上陸作戦の無期延期(実際には中止)で、ヒマを持て余したロンメルは西方電撃戦の映画撮影に参加、実質的に監督として振る舞いますが、その間に地中海では大変な事件が起きていました。

1940年9月にはリビアからエジプトへ、翌月にはアルバニアからギリシャへ、同盟国ドイツに黙ってイタリアが強引に侵攻を始めたのです。
それで勝てば結果オーライでしたが、どうせイギリスは弱っているしギリシャや植民地軍など大したことない、とタカをくくっていたイタリアは、大軍で攻め込んでおきながら歴史的大敗北を喫し、逆に国境を越えて攻め込まれる始末。

これに対するヒトラーの反応は、激怒というよりむしろ困惑、大迷惑というもので、翌年のバルバロッサ作戦(ソ連侵攻)のため準備した兵力の一部を割いて、対ギリシャ、対ユーゴスラビア作戦を発動するも、北アフリカだけはどうにもなりません。

細い補給線で維持できる最低限の部隊でも、最大限の効果を発揮させられる指揮官は誰だ、となった時に、選ばれたのはヒトラー子飼いのロンメルでした。
もっとも、下手にバルバロッサ作戦に組み込まれて上官からのヒンシュクを買いながらよりは、北アフリカでノビノビと悪戦苦闘していた方がロンメルには向いていたかもしれません。

とにかくイタリアを枢軸国から脱落させなければ、それで良い」という効果だけを期待された北アフリカ戦線の戦略的価値は低かったので、ロンメルは補給がなかなか来ないことに苦労させられつつも、エジプトのイギリス軍と激しく戦いました。

独英両軍ともロクに補給が来ない中、互いに兵器や物資を鹵獲し合っての激闘は続き、装備だけのパっと見ではどちらが何軍だかもわからない状態でしたが、ともかく長い植民地支配の歴史によって砂漠での戦争も得意としていたイギリス軍を大いに苦しめます。

時には戦車やトラックに樹木などを引かせて盛大な砂ボコリを上げさせ、大部隊に見せかけたり、広い地域に拡散した友軍を把握するため、時にはロンメル自身が操縦桿を握るシュトルヒ連絡・観測機が戦場を飛び回ったのです。

最終的には戦略的価値の低さで細い補給線が決定的となり、物量で押し切られる形にはなりましたが、1943年5月に壊滅するまで、ドイツ・アフリカ軍団はよく戦ったと言えるでしょう。

「偉大なる戦術家」という評価

ドイツ・アフリカ軍団が壊滅した頃、ロンメルはヒトラーのはからいもあってベルリンに呼び戻され、一時的に休養に近い任務につけられた後、最終的にはB軍集団指揮官として北フランス防衛の任務につきます。

しかし、北アフリカ時代に元帥まで昇進していたロンメルは、既にドイツ軍の中でも大きな権威を持っていたものの、戦前の総統護衛部隊指揮官時代に親衛隊高官からの恨みを買っていました。

1944年6月の“史上最大の作戦ノルマンディー上陸作戦阻止に失敗したロンメルは、負傷して自宅療養していましたが、その最中に起きたヒトラー暗殺未遂事件(同年7月20日)への関与を疑われ、「裁判か自決か」を選択させられてしまいますが、それはかつてロンメルに侮辱を受けたと恨む親衛隊高官の謀略だったと言われます。

結局、同年10月14日にロンメルは軍人としての名誉を守るため自決、ドイツ軍は敗戦の混乱の中で、実績が豊富な装甲部隊指揮官をまた1人失ったのです。

なお、戦時中の活躍にも関わらず、戦後の評価では「最高の戦術家ではあったが、戦略的視点を持たないという点で将軍としては失格だった」と評価されることが多くなりました。

これは、楽天的な性格でノリが良く、勢いに乗っている時は「指揮官先頭、全軍突撃!」を具現化したような電光石火の働きを見せるかと思えば、気が乗らない時は何もできないというムラっ気が多かったこと。
さらに、調子が良い時でも弾薬燃料の補給などお構いなしに戦線を突破して数百km行軍してしまうことも珍しくなく、「兵站や補給への理解が無く、部下がそれをお膳立てしなければ踊れないプリマ・ドンナ」と言われています。

北アフリカ戦線で苦労させられたイギリス、ことにチャーチル首相にとっては悩みの種だったロンメルですが、見方からの評価は意外なほど低かったのです。

しかし、ヒトラー総統がひたすら持ち上げて宣伝にも活用されたこともあって国民全般からの人気は高く、国内外から伝説的な指揮官“砂漠の狐”として、長く語り継がれることになりました。
戦後ドイツ海軍で、リュッチェンス級駆逐艦を配備する際、過去に功績を上げた陸海空の指揮官を艦名としましたが、1970年に就役した3番艦には陸軍代表として“ロンメル”と名付けられたのは、その象徴でしょう。

菅野 直人

物心付いた時には小遣いで「丸」や「世界の艦船」など軍事情報誌ばかり買い漁り、中学時代には夏休みの課題で「日本本土防空戦」をテーマに提出していた、永遠のミリオタ少年。撤退戦や敗戦の混乱が大好物で、戦史や兵器そのものも好きだが、その時代背景や「どうしてこうなった」という要因を考察するのが趣味。

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